「天下に事をなす者ハ ねぶともよくゝはれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候」(*)

出所:「坂本乙女宛ての手紙(『七人の龍馬 坂本龍馬名言集』)」(講談社)

冒頭の言葉は、

  • 「時機を待って行動しなければ、事はうまく運ばない」

ということを表しています。

さまざまな人の協力を引き出しながら、新しい時代を導くために奮闘した龍馬。既存の常識にとらわれず、広い視野から日本や世界を見ていた龍馬は、現代のリーダーからも敬愛される偉人の1人です。

龍馬の代表的な功績として知られるのが、日本初の株式会社である亀山社中を設立したことです。亀山社中は、薩摩藩や商人などの援助を受けて結成された貿易会社ですが、単なるモノのやり取りだけではなく、海軍や航海術研修機関などの多様な機能を持ったユニークな組織でした。また、亀山社中が英国の商人グラバーの助力を得て海外から武器の調達を行い、長州藩へ提供したことによって、長州藩と薩摩藩との対立関係が緩和され、薩長同盟の設立に一役買ったのです。この亀山社中は後に海援隊として、再編されます。

海援隊には、龍馬を慕って個性豊かな人材が各地から集まっていました。陸奥宗光(むつむねみつ)を筆頭格に、明治維新後は国や地方で重責を担うことになる人材を輩出しています。基本的に、海援隊は龍馬のリーダーシップによって強い結束力を誇ったものの、個性豊かな人材が集まっていることもあってか、時にまとまりを欠くこともあり、次のようなエピソードも残っています。

海援隊の中には、もともとは佐幕派(幕府を補佐するの意味・幕府を擁護する勢力のこと)だった隊員が加わっていました。この隊員は他の隊員との折り合いが悪く、しばしば激論を交わすこともあったようです。そのため、他の隊員は、この隊員を追い出すように龍馬に訴えました。この訴えに対して龍馬は、次のように答えたといわれています。

「海援隊は政治研究所にあらず、航海の実習を目的とするものなり。主義の異同は敢えて問はず。隊中唯一人の佐幕の士を同化する能はずしてまた何をか為さんや(注)」(**)

龍馬は「目的が同じであれば、多少意見がぶつかることがあっても、構わない」と考えていました。さまざまな意見が飛び交い、目的を達成していくためにより良い方法を模索していく組織や、意見が違う者を自らのほうに引き寄せるほど魅力ある人材が集まる組織を目指していたのかもしれません。

目的を共有しながらも、各人がユニークな能力を発揮する組織は、多くのリーダーが理想とする組織ではないでしょうか。

ただし、組織は最初から互いの違いを認め合えるわけではありません。

最初の頃は、メンバーが遠慮して活発な意見が出なかったり、意見が出たとしてもまとまらず、メンバー同士で衝突したりするようなこともあります。リーダーはこうした衝突を避けようとするのではなく、互いに遠慮せずに意見できるような関係を築いていきましょう。例えば、メンバーの組み合わせに配慮したり、衝突によって関係が悪化しすぎないよう「違ってもいい。違いを認めることが大切」といったフォローをしたりするのです。

また、あらかじめこうした紆余曲折(うよきょくせつ)を経ることをチームのメンバーとも共有しておくことで、メンバーも組織の成長の過程として、衝突などの課題を乗り越えることができます。

組織が越えなければいけないステージを意識し、それに合わせてメンバーをフォローするリーダーの心配りが、目的に向かって前進する組織を育てるのです。

(注)引用元では旧漢字で記載されています。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

さかもとりょうま(1835〜1867)。土佐国(現高知県)生まれ。1866年、薩長同盟周旋。1867年、船中八策起草。

【参考文献】

(*)「七人の龍馬 坂本龍馬名言集」(出久根達郎編著、講談社、2009年12月)
(**)「坂本龍馬」(千頭清臣、博文館、1914年6月)
「高知県立坂本龍馬記念館ウェブサイト」(高知県立坂本龍馬記念館)

以上(2015年5月)

pj15197
画像:photo-ac

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