書いてあること
- 主な読者:後継者不在の問題で悩んでいる50代以上の社長
- 課題:社員のためにもできれば廃業したくないが、M&Aによる事業譲渡や社員への承継にもやや抵抗感がある。他社の社長がどう考え、行動したのかを参考にしたい
- 解決策:事業譲渡、社員への承継のいずれも、成功の秘訣はとにかく早く動き出すこと
1 事業譲渡とは、会社の発展という「自分の夢」を託すこと
悩んだ末に会社の譲渡を決断して社長が最初に行ったのは、自らが事業のお手本としていた同業大手の社長に、会社を譲り受けてもらうための「直談判」。それは、「会社を存続、発展、成長させるという、自分の夢を実現してくれる人に会社を託したい」という思いからでした。希望がかなった今では、会社の明るい将来にワクワクする日々を過ごしています。
2 このまま「座して死を待つ」のは嫌だ!
「社長、サインしてください。会社の譲渡先を仲介するための契約書です」
「はい、します……。ちょっと待ってください」
後継者のいない自社の譲渡先探しをM&A仲介会社に依頼する契約書類。それらを目の前にして、豆腐の製造販売「山下ミツ商店」(石川県白山市)の山下浩希社長は、どうしてもサインができませんでした。結局、この問答はこの後、2年間繰り返されることになります。
「頭の中では、会社がこれからも続いていくには、この方法しかないのは分かっていた。しかし、やはり、他人に会社を渡すということに抵抗があったのかもしれない」。約3年前の自分を振り返って、山下さんは苦笑いします。
契約書類にサインをしたきっかけは、山下さんが人生の節目と考えていた60歳目前の59歳になった2020年秋、本を読んでいた際に目に留まった、ある言葉でした。
座して死を待つ
「これは、今の自分のことだ」。自分が高齢になって豆腐が作れなくなり、会社が誰にも見向きをされないまま消えていく。そんな光景が頭に浮かび、山下さんは決断しました。
サインをした後、山下さんはM&A仲介会社に1つの希望を伝えます。それは、まず山下さん自身が1社だけ、自社を譲り受けてくれないか相談してみることでした。その1社とは、山下さんが豆腐の移動販売のお手本にしていた同業大手「染野屋」(茨城県取手市)です。山下さんが染野屋の小野篤人社長に直接メールを送ったことで、山下ミツ商店の運命は大きく変わりました。
3 豆腐の製造販売に特化して急成長と挫折を経験
今から130年以上前の明治20年(1887年)、山下ミツ商店は食料・雑貨店として石川県白峰村(現・白山市)で創業しました。山下家が代々営んできた、当時は名前も特にない個人商店で、朝は豆腐作り、昼は食品や酒類販売など、朝6時半から夜8時まで開いている店でした。
店を長年切り盛りしていたのは、山下さんの祖母、ミツさんです。子供の頃からかわいがられ、大好きだったという祖母が80歳を過ぎ、「もう年だし疲れたからやめる」という言葉を口にしたことから、山下さんは家業の承継を決意。1985年10月、1年半勤めたスーパーマーケットを24歳で退職して6代目となり、社名には祖母の名前を付けました。「山下ミツ商店」です。
会社を成長、発展させるため、試行錯誤の末に山下さんが取った戦略は、自社で製造していた豆腐事業への特化でした。埼玉県内の同業者に教えを請い、国産大豆と天然ニガリを使った豆腐を学び、2年ほどかけて独自の製法を開発。1992年2月に完成した1丁1000円の豆腐「記まじめ!」シリーズのヒットにより、会社は急成長します。1995年4月に金沢市内のデパ地下に進出し、1997年12月の法人化を機に社員の雇用を開始します。2001年11月に増産のために工場を新設すると、売り上げは1億6000万円に達しました。「絶対に俺は伸び続ける」と、寝る間も惜しんで働いた30~40代でした。
ところが、2000年代後半になると、急成長の影の部分が表面化します。契約農家の大豆の不作と価格高騰、社員の待遇改善の必要性、そのための価格転嫁。最もダメージを受けたのは、デパ地下の店舗の売り上げが、デパート改装に伴う場所替えにより4割も減ってしまったことです。
社内の組織にもヒビが入っていました。「社員に対して、自営業者上がりだった自分たちと同じような、朝から晩までというむちゃな働き方を当たり前のように要求してしまった」ことで、後継者候補と見込んで頼りにしていた社員が、相次いで辞めていってしまったのです。
追い詰められた山下さんが選択したのは、以前から空いた時間に試して手応えを感じていた、トラックで豆腐を移動販売することへの「事業転換」でした。50歳を目前にした山下さんは、「もう他のものには目移りせず、あと10年を移動販売に懸ける」と腹をくくりました。
4 残された最大の問題は後継者不在
倒産の危機を免れた山下さんにとって、残された最大の問題が、後継者不在でした。
問題を意識したきっかけは、50歳となった2011年に、やはり後継者が不在で悩んでいた6歳年長の知り合いの社長から、「自分の会社を、どのようにして周りの方に迷惑を掛けずに畳もうか考えている」と聞かされたことでした。山下さんは、「うちにも後継者がいない。自分も60歳くらいになったら、同じことを考えなくてはいけなくなる」と危機感を持ったといいます。
子供のいなかった山下さんにとって、後継者の最後の希望は妹の息子(甥(おい))でした。高校生の夏休みに小遣い稼ぎに移動販売を手伝っていた甥が楽しそうにお客さんと話す姿を見て、ひそかな期待をしていた山下さん。ですが、大学3年生になって就職活動を始めた甥に声を掛けることはできませんでした。当初は手応えがあった移動販売ですが、トラックの台数は2台のままで、新しい社員を雇っても、職場に定着しなかったり、交通事故などのトラブルを起こしたり。「成長している会社であれば誘えたのでしょうが、業績を伸ばす手段が分からない状態で、甥に背負わせることはできなかった」
5 何もしなければ、会社はなくなってしまう
山下さんが会社の譲渡に向けて動き出す決め手となったのは、2017年ごろ、親しかった金沢市内の同年代の社長が会社を譲渡して、同業大手の傘下に入ったことでした。
山下さんにとって、彼の会社は「仕事ができる社員がそろっていて羨ましい」存在でした。ところが、その社長から、「店長は育てられたけれど、跡を継げる経営者は育てられなかった。会社を存続させ、成長させるには、M&Aの話に乗るべきだと考えた」と打ち明けられ、ショックを受けます。当初は「M&Aで会社を譲渡することには、買収されるとか身売りするとかいうイメージがあり、彼の決断がすぐには理解できなかった」と言いますが、1年ほど考えるうちに、同様の選択をする会社が意外と多いことも分かりました。その頃には、毎日欠かさず行う祖母の墓参りの行き帰りに、「自分には子供がいないので、山下家はこれで終わる。会社もこのまま何も手を打たなければ終わってしまう。自分は何も残せなかったことになる」との思いが頭をよぎるようになっていました。
こうして山下さんは2018年、顧問税理士が所属する会計事務所のグループだったM&A仲介会社に、顧問税理士を通じて連絡しました。顧問税理士の全面協力の下、仲介会社の担当者は山下ミツ商店の強みや弱みまで子細に記した資料を、すぐに作成してきました。後は山下さんのサインを待つばかり。そして話は、2020年秋の「染野屋の小野社長に宛てたメール」につながっていきます。
6 「お手本」にしていた同業大手に傘下入りを直談判
M&A仲介会社に譲渡先を仲介してもらう契約を結んだ山下さんは2020年11月、同業の染野屋の小野社長に、山下ミツ商店での半生と、後継者のいない会社の将来に対する不安をつづったメールを送りました。
山下さんにとって染野屋は、山下ミツ商店と同じコンセプトで、国産大豆と天然ニガリを使った豆腐を作り移動販売で成長を続けている、いわば移動販売のお手本というべき存在でした。山下さんは、まず染野屋の小野社長に相談した理由を、こう語ります。
「ただ会社と社員、工場を守るだけなら、譲渡先はどんな会社でもいい。でも、どういう会社に譲りたいかを考えたときに、その答えは染野屋さんでした。移動販売で多くの人にこの豆腐を食べてもらうという、自分ができなかったことを実現してくれるのは、染野屋さんしかないと思ったからです」
7 トントン拍子で譲渡が決まる
山下さんの思いは、小野社長の心を動かしました。約1週間後に2人で直接会って話すと、小野社長は最後に「真剣に検討します」と受け合ってくれました。
コロナ禍のため、小野社長をはじめとする染野屋の幹部が山下ミツ商店のオフィス、工場、移動販売のトラックなどをくまなく視察したのは、2021年5月になりました。ですが、その数日後に染野屋から「前向きに進めます」との連絡があると、トントン拍子で譲渡交渉が進みます。
譲渡に関する条件は、株式の譲渡額も含めて、染野屋が全て山下さんの希望をのんでくれたといいます。山下さんは、「染野屋に譲渡できたのは本当に運が良かった。もし小野社長に断られていたら、どんどん希望のハードルを下げることになって、豆腐のこだわりやブランド、会社そのものもなくなっていたかもしれない。まだ山下ミツ商店に価値があるうちに譲渡の話をしたことが重要だった」と語ります。
8 「能力のある人材が来てくれた」
2021年10月、山下ミツ商店は染野屋の完全子会社となりました。山下さんは社長を退いて取締役会長となり、小野社長が山下ミツ商店の社長を兼務、染野屋の幹部が新たな役員に就きました。
調印を終えた直後に山下さんが自社の社員に説明した、「山下ミツ商店は、今までよりも、良い会社になります」という言葉は、山下さんの本心でした。「小野社長もトラックが10台になるまでは苦労したと聞きました。販売員を採用したら次の日に来なかったとか、毎月のようにトラックの交通事故のために警察署に行ったとか、小野社長は全部経験済みで、それをどのように克服するかも分かっているんです。そのノウハウを注入してもらえるのは、本当にありがたいと思っています」
説明の後、山下さんはある社員から、「社長も年を取っていき、いつまで豆腐が作れるのか心配していました」と告げられました。それを聞いて山下さんは、「社員に安心して働いてもらえていなかったことを知り、社長としての自分の鈍さ、無神経さ、至らなさにへこんだ」と言います。
染野屋の傘下となった山下ミツ商店では、社名も社員の待遇も豆腐の製法もブランドも変わっていません。その一方で、事務管理業務などは、副社長などが毎月来社して染野屋方式に変更しているといいます。また、売り上げに応じて販売員にインセンティブを付けたり、染野屋が開発した商品を販売したりするための準備も進めています。
染野屋が作成した「山下ミツ商店5カ年計画」には、3年で北陸3県、5年で新潟県も含めた全北陸地方をカバーする方針が記載されているそうです。「やはり、スケールが違う。勘違いなのかもしれませんが、会社を譲渡したので染野屋の能力のある人材が山下ミツ商店に関わってくれて、これから会社として発展していくのだろうという気持ちでいます。私自身もワクワクしていますし、頑張らないといけないと思っています。なにより、小野社長が自信満々なのが心強い」。山下さんは目を輝かせて、夢の続きを語ります。
山下さんへのインタビューはこれで終わりです。後編では、ほぼ最年少社員にもかかわらず会社の跡継ぎ候補として手を挙げ、引き継ぎ直前の社長の急逝という不幸に見舞われながらも会社の承継に成功した、高田組の高橋純さんへのインタビューを紹介します(2022年2月8日公開予定)。
以上(2022年2月)
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画像:山下さん提供