うまく機能する組織、成員が幸せになる組織とはどのようなものか。この難問の答えを、まったく正反対の立場にある『論語』と『韓非子』を読み解きながら、守屋淳が導き出していくシリーズです。

1 三つの達徳――「知」「仁」「勇」

信用や信頼をベースにした理想的な組織とは、どのように作っていけばよいのか――今回からは、この実現法について『論語』をもとに考えていきたいと思います。

まずは、孔子の描いた理想の組織像を端的にあらわしているのが、次の言葉です。

  • 政を為すに徳を以ってす。譬(たと)えば北辰のその所に居りて、衆星これに共(むか)うが如し(政治の根本は、徳である。徳とは、たとえて言えば北極星のようなもの、デンとまんなかに座っているだけで、他の星はすべてそのまわりを整然とめぐっている)『論語』

一言でいえば、トップやリーダーとは北極星であり、その求心力の中心は「徳」だというのです。「徳」の磁力に引かれて、他の星々は北極星であるトップやリーダーを信頼し、そのまわりをクルクルまわっているのです。

では、「徳」とは何なのか。これはいろいろな解釈が可能ですが、『論語』での使われ方を筆者なりにまとめると、こんな感じです。

「対人関係のなかでのよき行動のルール」

例えば、人名にも使われる「諒」という徳目があります。これは一言でいえば、約束を守ること。確かに、社会人として遅刻しない、締切りを守るといった事柄は、よき行動のルールとなるわけです。こうした徳目を、「無意識にできる」「当たり前にできる」というレベルまで会得するのを「修己」――つまり、徳を身に付けたといいます。

こうした「徳」は数多くありますが、なかでもトップやリーダーが信頼されるために身に付けるべき徳目があります。

『中庸』という古典と『論語』には、それぞれこんな指摘があります。

  • 知、仁、勇の三者は天下の達徳なり(知と仁と勇こそが、天下にすぐれた徳なのだ)『中庸』
  • 知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず(知者は迷わない、仁者は思い悩まない、勇者は恐れることを知らない)『論語』

「知」「仁」「勇」という三つこそ、トップやリーダーには最も重要な「徳」であり、これらを身に付ければ、いざというときも迷わないというのです。この三つは、現代のビジネスでたとえると、新規事業などの立ちあげに必要となる、次の三段階に対応しています。

  • 「知」:情報を大量に集め、選別して、きちんと現状を認識すること。
  • 「仁」:プロジェクトの方向性を決めること。
  • 「勇」:決まった方針通りきちんと実行すること。

単純な話にも見えますが、それぞれを探究していくと、結構、奥深い中身が見えてきます。

2 知らざるを知らざるとなす

まずは「知」について。『論語』にこんな言葉があります。

  • 由、汝にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ知るなり(これ子路よ、そなたに「知る」とはどういうことか教えてあげよう。それは他でもない、知っていることは知っている、知らないことは知らないと、その限界をはっきり認識すること、それが「知る」ということなのだ)『論語』

子路(本名は仲由、字が子路)とは、孔子の高弟の一人。この一節は、われわれ日本人の「知」のありようを知る上でも――当然、『論語』の影響があるわけです――示唆に富む言葉に他なりません。

まずこの言葉からわかるのは、「知」であるためには、自分の知っていること、知らないことの区分けが必要である、ということです。確かに、

「あるジャンルにおいて、その人が本当に一流か否かの分け目は、そのジャンルの限界を語れるか否かだ」

と言われたりしますが、確かに限界を語れるのは、そのジャンルの知るべきことは知りつくしているからこそ。こうした意味からも、『論語』の指摘の妥当性を見ることができます。

さらに、こうした考え方からは、

「よくわからないことを、ペラペラしゃべらない」
「自分が不案内なことには、口をはさまない」

といった態度こそ、知的であるという観点も生まれてきます。

この点で、とても面白いことに、欧米、特にアメリカでは、「知」に対してこれと対極的な考え方をとっています。『日本辺境論』などのベストセラーで有名な内田樹さんが、『ためらいの倫理学』という本のなかで、こんなことを書いています。

当時はユーゴで悲惨な内戦が起こっていた時期なのですが、アメリカの高校生はこの戦争についてはっきり意見を述べる、と聞いた内田さん、こんな指摘をするのです。

《アメリカの高校生だってユーゴの戦争についての知識は私とどっこいどっこいのはずである。それにもかかわらず、彼らはあるいは空爆に決然と賛成し、あるいは決然と反対するらしい。なぜそういうことができるのか。たぶんそれは「よくわからない」ことについても「よくわからない」と言ってはいけないと、彼らが教え込まれているからである。「よくわからない」と言うやつは知性に欠けているとみなしてよいと、教え込まれているからである。》『ためらいの倫理学』内田樹 角川書店

「わからない」ことでもはっきり意見を述べられることが知性である、と考えているわけです。まさしく、『論語』的な知のありようとはまったく逆なのです。

実際、筆者はアメリカ人や、アメリカで子育て経験のある日本人を取材したことがあるのですが、

「自分なりのユニークな意見を持ち、それをきちんと他の人に主張できることが重要」

との考え方で、先生たちが子供たちに接しているそうです。こうした指導の前提には、

「とりあえず自分の意見を持って、他人と議論を闘わせるなかから、より真実に近いものが見えてくる」

という、いわば議論型の「知」のあり方があります。

一方の日本では、ちょっと変わったことをやる園児がいると、すぐに親が呼ばれて、

「なぜ他の子と同じ行動ができないんでしょう、家庭できちんとしつけてますか?」

と言われてしまうことが往々にしてあります。あれこれ言う前に、まずは自分を高めておくことが「知」の要件という考え方であり、これはまさしく『論語』的なのです。

3 情報の大量入力と選別

さらに『論語』にはもう一つ、「知」のあり方に関わる重要な教えがあります。少し長くなりますが引用します。

  • けだし知らずしてこれを作る者あらん。我はこれなきなり。多く聞きてその善なる者を択(えら)びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)す。知の次ぎなり(世のなかには、十分な知識もなく、直観だけで素晴らしい見解を打ち出す者もいるであろう。だが、私の方法は違う。私は、なるべく多くの意見に耳を傾け、そのなかから、これぞというものを採用し、常に見聞を広げてそれを記憶にとどめるのである。これは最善の方法ではないにしても、次善の策とは言えるのではないか)『論語』
  • 多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みてその余を言えば、則ち尤(とが)め寡(すく)なし。多く見て殆(あやう)きを闕き、慎みてその余を行えば、則ち悔い寡なし(できるだけ人の話に耳を傾け、疑問を感じたところはしばらくそのままにしておき、納得のいった部分だけを発言する。そうすれば、つまらぬ失敗から免れることができよう。また、多くのことを見ることも忘れてはならない。そして、疑問に思った箇所はしばらくそのままにしておき、納得のいった部分だけを行動に移す。そうすれば、後悔することも少なくなるであろう)『論語』

一言でいえば、いずれも「情報の大量入力と選別」こそ重要という指摘に他なりません。これは現代のビジネスにおいても、マーケティングを行うような際、当たり前の考え方と言ってよいでしょう。この指摘に、先ほどの子路への教えを合わせると、

「情報を大量に仕入れ、確実なものと、確実かどうかわからないものをきちんと選別する。そして、確実だと思える情報をベースにして現状認識や未来予測を行う」

という「知」のあり方が浮かびあがってきます。こうした認識の土台を作った上で、「仁」と「勇」を発揮していくわけです。

以上

※上記内容は、本文中に特別な断りがない限り、2018年12月11日時点のものであり、将来変更される可能性があります。

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