1 日本人離れした先見性と合理性を併せ持った「織田信長」

尾張地方の一城主の長男に生まれた信長は、小さい頃は粗野でうつけ者と評判でしたが、成長してひとたび戦場で指揮を執ると天才的なひらめきを見せ、天下取りを目指して武将たちがしのぎを削る下克上の世の中でめきめき頭角を現していきました。

信長が大勢の戦国武将たちの中から抜きんでたのは、時代の一歩も二歩も先をゆく先見性と日本人離れした合理性によるものでした。

織田信長の生涯

2 信長の有名エピソード

信長にまつわるエピソードは多くありますが、この記事では代表的なものを紹介します。

1)能力ある家臣を積極的に登用

信長は家臣の登用も型破りでした。能力があり、自分の天下統一に役に立つと思えば、貧農出身の豊臣秀吉や新参者の明智光秀をも重臣に抜てきしました。人材は器量に応じて登用し、一族・肉親といえどもそれだけでは重用しませんでした。

半面、「能力がない」と判断した家臣に対しては、それまでの功績や身分に関係なく厳しい処罰をすることもありました。例えば、佐久間信盛は信長の父・信秀に仕え、後に信長に従った重鎮でしたが、戦果がはかばかしくない責任を取らせ、追放しました。ただし、このような厳しい処罰はメリットだけではなく、明智光秀の離反を招く一因になったと考えられています。

織田信長

2)誰でも商売ができるようにした「楽市楽座」

「天下布武」を目指した信長は、安土の地を自らの王国の建設地に選びました。その理由は諸説ありますが、琵琶湖が近く、水陸交通の要衝であったこと、生まれ故郷の尾張と旧勢力の中心地である京都とのちょうど中間にあったことなどが大きいとされています。信長は安土に戦国時代の覇者にふさわしい壮麗な安土城を建設し、城内に秀吉や前田利家などの重臣の邸宅を建てて住まわせました。

城下には楽市楽座を設けたため、全国から商人や職人たちが集まってきました。それまでは「座」という商人の組合に入らなければ、商売をすることが許されませんでした。信長は独占的な組織の「座」を廃止し、誰でも商売ができる世の中に変えたのです。また、貨幣の交換レートを定め、商品流通を促しました。こうした経済自由化の結果、国内産業は近代化への一歩を大きく踏み出したのです。

3)宗教と政治を切り離すことに力を傾ける

信長は宗教と政治を切り離すことにも力を傾けました。信長の天下統一の前には戦国大名だけでなく何人もの強大な戦国大名が立ち塞がり、そのたびに信長は合戦で勝利を収めてきましたが、そんな信長でも苦戦を強いられたのは一向宗や比叡山といった宗教集団でした。当時、彼らは僧侶でありながらも、巨大な政治力と軍隊を持っていました。信長は僧侶たちが政治の世界に介入することを許さず、徹底的に彼らを打ちのめしました。

だからといって信長は宗教そのものを否定したわけではありません。それはその頃、日本に入ってきたキリスト教に対する信長の態度を見れば明らかです。新し物好きでもあった信長は、イエズス会の宣教師たちを手厚くもてなし、彼らの布教を保護すると同時に、西洋文化を彼らから吸収したのです。

4)信長最後の言葉「是非に及ばず」

明智光秀が本能寺にいた織田信長を襲撃した「本能寺の変」は戦国時代、あるいは日本の歴史を大きく変える大事件でした。

わずかな供回りを連れて本能寺に滞在していた信長は、夜半、人々の争う声で目を覚まします。襲撃者が光秀と知った信長の口から出たのは「是非に及ばず」という言葉だったといわれています。

この「是非に及ばず」とは普通、「仕方がない」と訳すことができます。光秀ほどの戦上手が囲んだからにはもう逃げ場はない、諦めよう、という意味にとることもできます。

しかし、別の解釈も成り立ちます。「是非」は本来「善しあし」という意味ですから、「善い悪いは関係ない、自分と同じことを今度は光秀がやろうとしているだけだ」と捉えることもできるでしょう。であるならば、善悪を超越した乱世の雄、信長らしい言葉といえるでしょう。

【参考】

  • 小学館「Jr.日本の歴史 4」(平川南、五味文彦、大石学、大門正克編 山田邦明著)
  • 山川出版社「戦国大名 歴史文化遺産」(五味文彦監修)
  • ポプラ社「織田信長(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ5)」(谷口克広監修)

以上(2023年4月)

pj96423
画像:mtaira-Adobe Stock
画像:いらすとや

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です