1 「謀反の逆臣」はつくられたイメージ? 謎が多い「明智光秀」

光秀といえば、自分を重臣に取り立ててくれた織田信長を本能寺で自害させた「裏切り者」として有名です。さらに、その本能寺の変からたった11日後の山崎合戦で豊臣秀吉に敗れた「三日天下」でも知られています。

こうしたマイナスイメージの多い光秀ですが、実は光秀の人生は謎が多く、生誕年や父親の名前、そして信長を裏切った動機などはほとんど分かっていません。近年研究が進められており、後世にできた創作と実在した光秀とは違う一面が少なくないようです。

明智光秀の生涯

2 光秀の有名エピソード

光秀にまつわるエピソードには諸説ありますが、この記事では代表的なものを紹介します。

1)光秀の誕生年は、江戸時代の物語が出所?

光秀の歴史的な資料は、その多くが本能寺の変や山崎合戦に関するもので、1568年に足利義昭(室町幕府・最後の将軍)に臣従した以前のことはほとんど分かっていません。

1528年生まれといわれていますが、これも光秀が亡くなってから100年以上後に書かれた伝記「明智軍記」が基になっています。「明智軍記」は歴史書というよりは物語であり、信ぴょう性が疑問視されていますが、他に信頼できる資料がないことなどから、現在でも通説として定着しています。

これに対し、最近は光秀の誕生年は1516年だとする、新たな説が出てきています。ただし、細川忠興に嫁いだ娘の玉(ガラシャ)が1563年生まれと、47歳のときの子どもとなることや、信長よりも20歳も年上になることなどから、現在も1528年生まれ説が有力のようです。

2)非情? 良識人? 比叡山焼き討ちの功労者の見えない素顔

信長の苛烈さを象徴して語られることの多い「比叡山焼き討ち」。司馬遼太郎「国盗り物語」などの影響で、光秀は比叡山焼き討ちに反対したイメージが強いかもしれませんが、実際は光秀が中心となって攻め落としたようです。その功績を認めて、信長は光秀に比叡山延暦寺の遺領を与え、自分の城を築くことも許可しています。この時期の光秀は、共に信長に仕えた秀吉よりも信長の信頼を得ていたともいわれています。

では、光秀は「裏切り者」のイメージ通り、非情な人物だったのかというと、一概にそうともいえません。領内となった比叡山延暦寺に対し、穏便な対応をしたという伝承や、光秀が治めた京都・福知山の地では善政を敷いた領主として慕われていたという伝承が現代にも残っています。

3)最大の謎「なぜ本能寺の変を起こしたのか」

光秀のイメージを決定付けている「本能寺の変」にも謎が残されています。信長を討った理由が分かっていないのです。

信長のパワハラに対する「怨恨説」、下克上をして天下統一を企てた「天下取り野望説」、朝廷の高官に唆された「朝廷黒幕説」など、さまざまな説がありますが、極秘で進められた計画のためか、資料がほとんど残っていません。

これらの中で、近年有力になりつつあるのは「長宗我部元親関与説」です。これは、光秀の重臣・斎藤利三の妹が嫁いだ長宗我部元親の四国全土の所領を信長が認めると約束したものの心変わりをしたため、元親が光秀に信長を討たせたという説です。

歴史の真実を知るのは難しいことですが、光秀は秀吉とライバル関係にあったこともあり、「勝者の歴史」から切り落とされた部分もあるかもしれません。光秀がどういう思いで主人である信長を討ったのか、手掛かりになる資料が発見されることが望まれます。

明智光秀

【参考】

  • 吉川弘文館『明智光秀 (人物叢書)』(高柳光寿)
  • 河出書房新社『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』(明智憲三郎)
  • NHK出版『麒麟がくる 明智光秀とその時代』(NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック、2020年1月)

以上(2023年5月)

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画像:Hick-Adobe Stock
画像:いらすとや

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