書いてあること

  • 主な読者:組織を良くするために手腕を発揮したい、企業のナンバー2や幹部を含む管理職
  • 課題:上司や部下の意向にも配慮しなければならず、手腕を発揮しづらい
  • 解決策:主君や藩士、領民との間で悩みながらも藩のために手腕を発揮した、江戸時代の名家老のエピソードと、それにまつわる金言を参考にする

1 江戸時代の家老もマネジメントに苦心していた!

管理職の方は、上司にも部下の意向にも配慮しながら結果を出すことが求められ、何かと気苦労が絶えないものです。マネジメントの難しさは、現代に限ったことではなく、時代を超えた普遍的なテーマといえるでしょう。江戸時代、ナンバー2や幹部に相当した家老も、マネジメントの難しさに悩んでいたのです。

そこでこの記事では、江戸時代に、藩内のマネジメントに悩みながらも手腕を発揮した3人の名家老のエピソードと、それにまつわる金言を紹介します。管理職の方にとって、マネジメントを行う際のヒントになれば幸いです。

2 恩田木工「楽しみもすべし、精も出すべし」

1)2度の財政再建失敗の後に起用される

恩田民親(おんだ たみちか、通称「木工(もく)」)は、江戸中期の松代藩(長野県)の家老で、藩の財政再建に取り組んだ人物です。松代藩は1742年(寛保2年)の千曲川の水害で農地の約3分の1が壊滅状態になり、財政は逼迫(ひっぱく)していました。木工が家老に就任したのは、水害の4年後。父親や祖父も家老を務めていたこともあり、30歳の若さでの末席家老への昇進でした。

木工が藩主の真田幸弘から財政再建を託されたのは、家老になった9年後の1757年(宝暦7年)とされています。実は松代藩では水害の前後、2度にわたって財政再建に取り組んだものの、いずれも失敗しており、木工もその経緯を目の当たりにしていました。

木工が家老になる10年ほど前、幸弘の前の藩主・信安が家老に抜擢した藩士は、支出削減に取り組みました。藩士たちの給料の半額を「借り上げ」という名目で実質未払いにしましたが、困窮した足軽たちがストライキを起こしたため罷免されました。これに続いて、信安は財政再建のコンサルタント的な業務をしていた藩外の浪人を招聘しました。この浪人は収入増を図り、増税を行いますが、今度は大規模な農民一揆を招き、1年もたたずに松代から逃亡したのです。

2)財政再建のポイントは、全ての関係者とのコミットメント

「3度目の正直」として財政再建を託された木工は、まず幸弘に対し、自分に全権を与え、上席の家老まで木工のやり方に従わせることを約束してもらいました。次に木工は、家族や親類一同を集め、絶縁するように相談しました。その理由は、

  • 自分は今後、一切嘘をつかない決心をした。しかし家族や親類が嘘をついては、自分は信頼されず、任務が遂行できない
  • 自分は今後、ご飯と汁物以外を食べず、新たな服は木綿しか着ない生活をする。そのような質素な生活には耐えられないだろう

ということでした。木工は家人にも同じ理由で暇を与えようとしますが、家族も親類も家人も皆、木工と同じ生活をすることを誓いました。ただし木工は、親類には質素な生活は求めず、家族にも神事や来客の際にはご馳走を認めました。

次に木工は、藩士たちに対して、今後は給料の未払いをしないことを約束する一方で、業務を疎かにした場合は糾問することを申し伝えました。そして、業務をしっかり行った上で余裕があるならば、相応の楽しみを味わうことを奨励しました。

仕上げは、藩内の主だった農民を招いた対話集会の開催でした。そこで木工は、次のような提案を行いました。

  • 自分は今後、いったん口に出したことは絶対に守る
  • 何事も安心して自分に相談してほしい。ただし、賄賂は一切受け付けない
  • 財政再建は5年で行い、その間は賦役を免除する
  • これまで行われてきた年貢の先払いや、臨時の金の徴収は行わない。ただし、これまで先払いしてもらった年貢は、なかったものとしてほしい
  • これまでの未納の年貢は徴収を放棄するが、その代わり、今後は必ず年貢を納めること
  • 年貢の取り立てを目的とした足軽の派遣を廃止する。それにより、足軽の宿泊や賄いなどのために負担していた農民の軽減額は、年貢の7割相当に当たると試算。その代わり、今後の年貢の支払いは年払いでなく月払いとする

これらを喜んで了承した農民たちに対して、木工は藩士に対して語ったのと同じく、家業に精を出した上で余裕があるなら、相応の楽しみを味わうことを奨励しました。木工は、農民たちに、

人は分相応の楽しみなければ、又精も出しがたし。これに依って、楽しみもすべし、精も出すべし

と語りかけます。2度の財政再建の失敗を見ていた木工は、藩士や農民たちに対して、自分や身内を厳しく律する姿を見せることで本気度を示した上で、無理のない、現実的な協力を求めることによって、コミットメントの実行性を高めたといえるでしょう。

3)協力者を増やしていった名家老の手腕

木工は、財政再建のための協力者を生み出すことにも優れた手腕を発揮しました。

木工は農民たちから、これまでに藩士が行った不正を記した上申書を受け取ると、藩主の幸弘に対して、名前の挙がっていた藩士たちを、あえて木工を手助けする役目に付けるように願い出たのです。処分を覚悟していた藩士たちは木工に感謝するとともに心を入れ替え、以後は木工の心強い協力者になったといいます。

また、江戸の藩士から、幕府の用命で2000両が必要との求めがあったときのことです。松代にいた2人の藩士は木工に対し、「その用命であれば1200~1300両で済ませられるのでは」と意見しました。これに対して木工は、2人に2000両を運ばせ、江戸の藩士には「2人と相談しながら、首尾よく用命を果たすよう」に命じました。その結果、出費は1300両で収まり、2人は松代に700両を持ち帰りました。これを受けて木工は幸弘に対して、2人の手柄を報告するとともに、2人と江戸の役人にそれぞれ100両を賜るように願い出ました。100両を受け取った3人は、その後ますます忠勤に励むようになったといいます。

木工は、財政再建を託された5年後に、46歳で病死しました。木工の財政再建が短期間で成功したかどうかの評価は、今も定まっていないようです。ただ、木工の業績を記した「日暮硯」は、廃村の復興で有名な二宮尊徳も座右の書にしたといわれています。木工の財政再建の取り組みは、後世にも影響を残したといえるでしょう。

【参考文献】

「新訂日暮硯」(恩田木工、笠谷和比古校注、岩波書店、1988年4月)

「日暮硯:信州松代藩奇跡の財政再建」(奈良本辰也、講談社、1987年2月)

「真田松代藩の財政改革:『日暮硯』と恩田杢」(笠谷和比古、吉川弘文館、2017年10月)

3 栗山大膳「小さきことに迷ひては大志は成就せぬなり」

1)2代目トップの暴走で藩が存続の危機に

栗山利章(くりやま としあきら、通称「大膳(だいぜん)」)は、江戸時代前期の福岡藩(福岡県)の筆頭家老で、1632年(寛永9年)から翌年にかけての「黒田騒動(栗山大膳事件)」を引き起こした人物です。黒田騒動は、大膳が幕府に対し、藩主である黒田忠之が「幕府に謀反の意図あり」と訴えた事件です。

事件の火種は、忠之が藩祖で父の黒田長政から藩主の座を引き継いだときから生まれていました。長政はわがままに育った忠之を憂い、臨終に際して大膳に遺書を渡し、「よくよく忠之を頼む。あの性状では将来いかなる状況が起こるやもしれぬ」と伝えたとされます。

長政の大膳への厚い信頼は、互いの父親の代から培われたものでした。大膳の父である利安は、長政の父親である黒田孝高(官兵衛、如水)に小姓(身の回りの世話をする若者)として仕え、有岡城(兵庫県伊丹市)に幽閉された孝高の救出も行った元勲でした。大膳も長政のいとこを妻に持ち、長政の補佐役として、幕府の要人からも知られた存在となりました。

藩主になった忠之は、長政が憂いた通り、大膳など古参の重臣の存在を疎んじ、暴走を始めます。幕府が禁じていた軍船の建造や新たな足軽200人を編成した他、倉八宗重というお気に入りの家臣を家老に抜擢して新兵を配下に付けるなどの「特別待遇」を与えたのです。

折しも、福島家(福島正則)や加藤家(加藤清正の息子の忠広)といった豊臣秀吉恩顧の大名が相次ぎ幕府から取り潰し処分を受ける中で、同じく秀吉恩顧の大名である黒田家を支えてきた大膳は、取り潰しの口実を作らぬことの重要性を感じていました。このため、忠之に暴走をやめるよう何度も諫言しますが聞き入れられず、藩主の顔色をうかがう他の重臣たちとの間で、孤立無援状態となっていきました。

2)乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に打って出た名家老

そこで大膳はまず、病気と称して自宅に引きこもる「サボタージュ」作戦に出ます。ですが、出仕を促す忠之との関係は冷却していくばかり。ついに大膳の耳に、忠之が大膳を処分しようとしているとの情報が入るようになりました。

進退窮まった大膳は、幕府に対して忠之の叛意を訴えるという、下手をすれば逆に取り潰しになりかねない大勝負に打って出たのです。

大膳からの訴状を受けて幕府は、忠之や大膳ら福岡藩の幹部を呼び出して詮議を行います。とはいえ、実際には忠之に叛意はなく、幕府は「忠之に謀反の意図はない」と判定します。それを聞いた大膳は、偽りの訴えを起こしたのは、「忠之が暴走しているのに他の家老は諫言しない。自分が忠之に処分されて死ぬことは恐れないが、騒動が幕府の耳に入れば藩が取り潰しになりかねないので、黒田家と福岡藩を守るために行った」と告白。「この上は自分だけ御成敗を仰せ付けられれば本望」と申し出ました。

3)勝算を持ちつつ、小さな問題にはためらわず「見切り」を行う

大膳の申し出は、将軍の徳川家光や幕府の要人たちの心を動かしました。幕府の忠之への処分は、「治世不行き届きのため、領地を召し上げる。ただし、長政の忠勤戦功に対して、新たに同じ領地を与える」というものでした。その後、忠之は宗重を放逐し、藩政は落ち着きました。

一方の大膳に対する幕府の処分は、南部藩(岩手県など)に預けるというものでした。生活のための手当ても与えられ、一定範囲内の外出も自由という寛大な処分です。大膳は、その後の約20年を、南部藩で平穏に過ごしました。大膳の晩年、忠之は大膳の息子を召し抱える意向を伝えましたが、大膳は「栗山の姓が福岡藩に戻れば、世間の人々が藩主に過ちがあったことを知り、誹謗することになる」ことを憂いて辞退するとともに、子供たちには栗山の姓を名乗らないように戒めたといいます。

南部藩に移った大膳は、近くに住む幕府の代官が訪れ、武士の心掛けについて問われると、

小さきことに迷ひては大志は成就せぬなり

と答えました。大膳はこれを「見切りの才知」と表現し、

少しの踏違ひはくるしからずと見切り強く之(これ)有(あり)候へば、其事(そのこと)成就(する)

と説明しました。黒田家や福岡藩を守るという「大志」の成就のために、大膳は自らの生命や家老という立場は「小さきこと」と考え、「見切り」を行ったのでしょう。ただし、大膳は「見切り」を行うに当たり、勝算も持っていたようです。大膳は臨終前の長政から、徳川家康が関ヶ原の戦いでの長政の活躍を称え、「子孫の代まで粗略に扱わない」ことを約束した「感状」を預かっていました。大膳は万が一の際の切り札として、信頼できる藩士に、「取り潰しになりそうな情勢になったら、幕府の要人に感状を提出するように」と伝えていたのです。

【参考文献】

「列侯深秘録」(国書刊行会編、国書刊行会、1914年5月)

「栗山大膳:黒田騒動その後」(小野重喜、花乱社、2014年12月)

福岡県朝倉市ウェブサイト「ふるさと人物誌18 黒田52万石を救った 「栗山 大膳」(くりやま だいぜん)」

4 田中玄宰「ならぬことはならぬものです」

1)藩政改革を志すも一度は挫折

田中玄宰(たなか はるなか)は、江戸時代後期の会津藩(福島県)の家老で、多額の累積債務と天明の大飢饉による人口減少という藩の危機を、藩政改革によって乗り切った人物です。

玄宰の生まれた田中家は、5代前の正玄(まさはる)が初代会津藩主の保科正之に仕えて以来、家老に登用されることが多い家柄でした。玄宰も13歳で家督を継いでから順調に昇進を重ね、1781年(天明元年)に34歳で家老に就任します。

家老に就任した玄宰は、多額の累積債務の解消に向け、藩主の松平容頌(かたのぶ)に対して藩政改革を行うことを願い出ますが、許されませんでした。折しも家老に就任して2年後に、天明の大飢饉が発生。飢饉が続く中、失意の玄宰は病気を理由にわずか3年弱で家老を辞職します。

2)同僚たちに根回ししての再提案

家老を辞職した玄宰ですが、藩政改革の志を捨てたわけではありませんでした。病気を理由に閑居している間に、藩内の兵学者や知識人たちと交流するなど、藩政改革の実現のための下地をつくっていたようです。

そして家老を辞職して1年4カ月が経過した1785年(天明5年)、玄宰は再び家老職に復帰します。玄宰は、熊本藩の藩政改革を参考にして建議書を作成しますが、これを藩主の容頌に見せるのではなく、まずは同僚である3人の家老に相談します。建議書に盛り込んだ藩政改革案は、

  • 4人の家老の担当を分け、それぞれが各分野に責任を持って任務に当たる
  • 実戦に即した軍制改革を行う
  • 人材登用は能力主義とする
  • 法令は簡素化する
  • 農民や商人に対し、5家で1組の「五人組」による互助組織を強化する
  • 学校を建設して教育を充実させる

といったものでした。

玄宰の藩政改革案に対して、3人の家老のうち2人は同調したものの、1人は反対します。これを受けて玄宰は、1人の家老は「別意」があることを付言した上で、容頌の判断を仰ぐことにしました。玄宰は、藩政改革を行うしかない状況であること、自分を含む3人の家老が合意していることを伝えて藩政改革案を提案すると、容頌は玄宰を支持。反対した家老は辞職し、1787年(天明7年)から玄宰による藩政改革が始まったのです。

3)藩外の知見を活用する柔軟さと、藩政改革をやり抜く強い意志を兼ね備えた名家老

3人の家老の役割分担のうち、玄宰は藩政改革の「本丸」ともいえる農林商工、財政、教育といった分野を担当しました。特に産業の振興に関しては、藩外から有能な技術者を招き、漆・漆器、酒造、養蚕・機織り・染色、陶磁器などの特産品の品質向上に成果を上げました。また、食用の鯉の養殖や、藩外への輸出用の朝鮮人参の栽培も導入しました。

そして、藩政改革の仕上げとも言えるのが、藩校「日新館」の拡充を始めとする教育改革でした。玄宰の教育改革により、日新館は、10歳以上の藩士の子弟全員が通う教育施設となりました。また、6歳以上10歳未満の子弟にも「什(じゅう)」というグループを作り、毎日集まって守るべき「什の掟」を復唱することを命じました。什の掟は、「年長者のいうことに背いてはなりませぬ」「虚言(うそ)をいうてはなりません」といった基本的なしつけに関する7箇条からなり、最後に

ならぬことはならぬものです

と結んでいます。一度は挫折しても、藩政改革をやり抜くという、玄宰の強い意志が表れた言葉ともいえるでしょう。

玄宰の下で藩政改革を進めた会津藩は幕末に、幕府を支える雄藩となります。倒幕軍に対して徹底抗戦した会津藩士の強い意志は、幼少時代からの教育によって培われたものだといえるかもしれません。

【参考文献】

会津若松市ウェブサイト「八重と会津博 八重とコラム 会津藩士・基礎の心得「什の掟」」

福島県ウェブサイト「八重のふるさと福島県 田中玄宰(はるなか)」

「なぜ会津は稀代の雄藩になったか:名家老・田中玄宰の挑戦」(中村彰彦、PHP研究所、2016年8月)

「武士道の教科書:現代語新訳日新館童子訓」(松平容頌、中村彰彦訳・解説、PHP研究所、2006年12月)

以上(2023年5月)

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画像:taka-Adobe Stock

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