人々の心や気質は、その顔の違うように違っています。したがって、その教授や訓練は、一人々々の特質に、しっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません

津田梅子(つだうめこ)氏は、19世紀末から20世紀初めにかけて、日本の女性の教育に尽力した人物です。2024年7月から、新五千円札の肖像になることでも知られています。津田氏は、明治が始まって間もない1871年、日本初の女子留学生として6歳で渡米し、帰国後は華族女学校で教鞭をとります。やがて、自分の理想の学校をつくりたいと思うようになった津田氏は、米国ブリンマー大学への再留学、ヘレン・ケラーやナイチンゲールといった著名人との交流を経て教育者としての見識を深め、ついに1900年、自分自身の学校、女子英学塾(現津田塾大学)を創立します。

冒頭の言葉は、津田氏が女子英学塾の開校式辞として述べたもので、「学生一人ひとりの個性を重んじて少人数教育を貫く」という同校の理念でもあります。ただ、津田氏がこの理念にたどり着くまでには紆余(うよ)曲折がありました。最も大きな課題は、当時の日本に深く根付いていた「女性は男性を支えるもの」という価値観でした。

6歳で留学し、18歳で日本に帰国した津田氏は、華族女学校で、当時の上流階級の令嬢たちに学問を教えます。ただ、令嬢たちにとって学問はあくまで「良い妻、賢い母になるためのたしなみ」に過ぎず、真剣に学ぼうとする人は少なかったそうです。明治政府が津田氏のような女子留学生を募ったのも、「有能な人材を育てるには教養ある母親が必要」という意図からでしたが、津田氏は「良妻賢母ではなく、自立を目指さなければ、女性の教育は発展しない」と考えるようになります。

津田氏は、米国ブリンマー大学に再留学し、そこで「リベラルアーツ教育」について学びます。リベラルアーツ教育とは、簡単に言うと、1つの分野だけでなく、さまざまな分野の知識やスキルを幅広く学生に学ばせるというもの。一見、自分に関係なさそうなことでも、次々に学べば視野が広がり、生涯成長していけるという考え方です。

津田氏自身も、過去に勉強したことのない生物学を学ぶなどして視野を広げ、帰国後はリベラルアーツ教育を、日本の女学生に活用しました。授業を少人数体制にした上で、女学生たちと一緒に生活し、時には怪談話やダンスといった、授業に関係ないことも教えつつ、女学生一人ひとりが「何に興味があるのか」を探り、その個性を引き出していったそうです。こうした教育のかいあって、多くの女学生たちは真剣に学問に取り組むようになり、第一期生の時点から、当時難関だった英語教員試験の合格者を多数輩出しました。

価値観の多様化が進んでいるとはいえ、会社の中で古い考え方などがまかり通ってしまっているケースは珍しくありません。ただ、こうした価値観は、経営者の鶴の一声で簡単に変わるものではありません。大切なのは、新しい考え方などへの興味を抱かせること。社員たちが自然と「知りたい」「変わりたい」と思える、道標(みちしるべ)を上手に示してあげることなのです。

出典:「津田塾の歴史『津田梅子の建学の精神』」(津田塾大学ウェブサイト)

以上(2024年6月作成)

pj17621
画像:taka-Adobe Stock

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