為政清明
大久保利通氏は、西郷隆盛氏、木戸孝允氏と共に「維新の三傑」として数えられる、近代日本の礎を築いた政治家です。初代内務卿として、「殖産興業(生産を増やし、産業を興すこと)」の担い手となって活躍しました。
そんな大久保氏の信条は、「為政清明」。これは、「政治を行うものは,自らの心も態度も清く明るくなければならない」という意味です。非情な人物と思われがちな大久保氏ですが、それは個人的な感情にとらわれず、国家と真剣に向き合う彼の信条の裏返しでもありました。
例えば、親友であった西郷氏が征韓論(当時、鎖国をしていた朝鮮に対し、武力により開国を迫るという政策)を主張した際、大久保氏はこれに強く反対し、さらに政府を去った西郷氏を数年後、西南戦争で滅ぼします。大久保氏の非情さを象徴するエピソードとしてよく語られますが、大久保氏が征韓論に反対したのは、「今は朝鮮半島よりも日本の内政が最重要」と考えたから。親友を西南戦争で滅ぼしたのも、中央集権型の国家をつくる上で、西郷氏を担ぐ士族(旧武士)勢力との戦いを避けて通れないと判断したからでした。
一方、大久保氏には情の深い一面もありました。例えば、西郷氏が西南戦争で命を落とした際、大久保氏はその報告を受け、人目もはばからず涙を流したといいます。後に大久保氏自身が暗殺された際にも、生前の西郷氏から送られてきた手紙を所持していたといいます。大久保氏が西郷氏との友情と、国家を背負う立場とのはざまで、苦しみながらも信念を貫いたことがうかがい知れます。
ちなみに、「独裁者」と見られがちな大久保氏ですが、それも偏ったイメージのようです。富士製紙を創業した河瀬秀治氏は、大久保氏の印象について「部下がやるだけのことをやらせるという風であった」と語っています。大久保氏は河瀬氏に「万事仕事は君たちに任すから力一杯やれ。その代わり責任はおれが引き受けてやる」と伝えたそうです。信じて任せるが、責任は自分が取る。この覚悟と信頼の姿勢が、激動の時代にあった日本を強くしていったのでしょう。
情と判断力の両輪を備えたリーダー像は、現代の経営者にとっても、変わらぬ指針となります。人は、冷静な判断力「だけ」がある指導者にはついてきません。かといって、優しさや人望「だけ」では組織が成長しないことは、語るまでもないでしょう。情をもって人に接し、いざというときは信念と覚悟を示し、組織としての理を重んじた決断を下す。だからこそ、人々は「あの人がそう決めたのなら……」と判断に納得し、リーダーを信じてついてくるのではないでしょうか。
地元・鹿児島での初の慰霊祭開催など、近年、大久保氏への評価は見直されつつあります。時には涙をのみつつ、何よりも国家に対して誠実だった彼の行動は、まさに「為政清明」という言葉そのものだったといえるでしょう。
出典:かごしま文化財事典「為政清明 一幅」(鹿児島県教育庁文化財課)
以上(2025年10月作成)
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