書いてあること
- 主な読者:病気で身体障害が残り、労働能力が下がった社員の賃金を引き下げたい経営者
- 課題:社員とトラブルにならないために、どのような手続きが必要なのか分からない
- 解決策:社員の合意を得た上で、「賃金支給額の引き下げに関する合意書」などに署名してもらう。なお、賃下げの前に配置転換、労働時間や就業場所の見直しなども検討することが必要
本稿では次のケースにおいて、企業が社員の賃下げを行う際に必要な手続きを紹介します。
- 社員が脳梗塞で倒れ、回復後に身体障害が残った。社員の労働能力は従来の半分以下に落ちているが、賃金の引き下げは可能か。
1 社員の合意を得る
賃下げは、労働条件の変更に当たるため、労働契約法(以下「労契法」)に基づき、社員の合意を得なければなりません(労契法第8条)。また、合意を得ない一方的な賃下げは、本来支払うべき賃金の一部を支払わないことになるため、労働基準法(以下「労基法」)の賃金全額払いの原則(労基法第24条第1項)にも反します。
合意を得るために企業が取るべき手続きは次の通りです。
- 「現在の働きぶりが身体障害を負う前と比べてどの程度低下しているのか」「他の社員と比べてどこが足りないのか」をできるだけ客観的に社員に伝え、納得を得る
- その上で、賃下げ後の条件が記載された「賃金支給額の引き下げに関する合意書」や「労働条件変更通知書」に署名してもらう
過去の裁判例では、「賃金の減額・控除に対する社員の承諾の意思表示は、社員の自由な意思に基づくものと認められる合理的な理由が客観的に存在するときに限り、有効である」という旨の判断がされています(更生会社三井埠頭事件 東京高裁平成12年12月27日判決)。
また、社員が一方的な賃金の引下げに同意したというためには、ただ異議を述べなかったというだけでは必ずしも十分でなく、積極的にこれを承認する行為が必要との判断をした裁判例があります(ゲートウェイ21事件 東京地裁平成20年9月30日判決)。
従って、賃下げの合意に当たっては、社員が自由な意思に基づいて、賃下げに合意したことを確認できる環境を整える必要があります。合意に瑕疵(かし)がある場合、事後的に錯誤(民法第95条)による無効や詐欺・強迫(同法第96条)による取消しを主張される恐れがあります。
実務で賃下げを伝える話し合いをする場合は、次の3つを心掛けましょう。
- 決して高圧的な態度を取らない
- 2人以上が同席する
- 話し合いの記録を議事録などにして取っておく
なお、合意内容が法令(強行法規)、労働協約、就業規則に違反するような労働条件の切り下げは無効となります(労基法第13条、第93条、労契法第12条、労働組合法第16条、最低賃金法第4条)。また、企業の権利濫用に当たるような場合も無効となるので、注意が必要です。
2 企業が注意すべきポイント
1)配置転換の可能性
労働契約などで社員が従事する職務(事務担当など)を明確に定めていない場合、賃下げの前に配置転換を検討することも必要です。例えば、総合職で採用された社員は、人事異動を通じてさまざまな職務に就きます。仮に、社員が別の職務なら十分に対応できるとします。そうすると、社員は、「配置転換で別の職務を担当させてほしい」と主張してくるでしょう。
実際、「社員である原告が私傷病を理由に、従前とは別の職務に就くことを企業に申し出たが、逆に自宅療養を命じられ、企業に対し自宅療養中の賃金支払いを求めた」という判例もあります(片山組事件 最高裁第一小平成10年4月9日判決)。この判例では、最高裁が次のような観点から、社員の訴えを認容しています。
- 労働契約において職種や業務内容が特定されておらず、
- 病気や障害などにより、それまでの業務を完全に遂行できないときは、
- 他に労務を提供できる業務が存在し、かつ労働者が労務の提供を申し出ている場合、
- 労務の提供があったものとみなし、これを受領しなかった使用者に関する賃金請求権は失われない
社員から配置転換の申し出がなされる可能性は否めないため、企業は事前に配置転換の可能性を探っておくべきです。また、職務内容の変更を伴う配置転換は、労働契約で職務を限定していない限り、企業の人事権の範囲内であると考えられます。
そのため、社員が能力を十分に発揮できる職務があるのであれば、賃下げの前に配置転換を検討することは企業にとってメリットがあります。事前に配置転換して社員にチャンスを与えることは、労使トラブルを防止するための基本的な手段です。
2)労働時間や就業場所などの見直し
身体障害により、今まで通りに働くことが難しい社員に対しては、社員がパフォーマンスを発揮しやすいよう、労働時間や就業場所などの見直しを検討します。
例えば、雇用形態を正社員から短時間正社員やパートタイマーに変更することで、労働時間を短縮し、心身の負担を軽減できるかもしれません。また、通勤時の移動が苦痛ということであれば、時差出勤やテレワーク(在宅勤務など)を認めるのもよいでしょう。労働条件を見直すことで新たな雇用形態などに応じた賃金を設定し直すこともできます。
ただし、個別の労働契約によって労働条件を変更する場合は、社員の合意が必要となります。また、短時間正社員やテレワークなどを既存の制度として導入していない場合については、就業規則の見直しなどが必要となるため、慎重な対応が求められます。
3)家族手当などの取り扱い
賃金は基本給と諸手当で構成されるため、賃下げの対象となる賃金を確認する必要があります。例えば、家族手当や住宅手当は、社員の家族構成や住居の状況によって支給の有無が決まるため、労働能力が低下しても減額の対象にはならないと考えられます。
反対に、役職手当はその職位に就いていることによって支給の有無が決まるため、労働能力の低下に伴い人事異動や職務変更が行われた場合には、減額の対象になり得ると考えられます。
4)社員が賃下げを一切受け入れない場合の対応
社員が賃下げを一切受け入れない場合も考えられます。こうした場合、企業が強硬に賃下げを行うと、社員が都道府県労働局に相談する、外部の労働組合に駆け込むなどの行動を起こし、労務トラブルに発展する恐れがあります。
労務トラブルを避けるための基本は、まず就業規則に従って賃下げを行うことです。就業規則に賃下げ(降給)といった賃金改定の規定がない場合は、次のような規定を追記しましょう。なお、就業規則の変更が社員に不利益となる場合、変更内容が社員の受ける不利益の程度や変更の必要性などに照らして、合理的なものでなければなりません(労契法第9条、第10条)。
- 賃金は定期に実施する人事考課によって決定し、その結果不良であると判断された場合は、考課表に基づき改定を行う
就業規則を整備したら、その上で、人事考課の際に社員の労働能力を客観的に評価し、その結果に基づいて降格・降級させます。これを客観的・平等的に行うためには、職能給制度などの考課制度の整備と考課者の訓練、社員に対する制度の周知が必要となります。
恣意的であるなど、人事権の濫用と認められる降格・降級に基づく賃下げで労使トラブルになった場合、降格・降級やそれに基づく賃下げも無効と判断される恐れがあります。そのため、稚拙な対応は避け、評価結果に対する降格・降級の範囲の中で賃下げを実施します。
いずれにしても、社員の性格や意向、これまでの企業との関係、就業規則の内容、変更の可否などによって取るべき対応は変わってきます。必要に応じて弁護士や社会保険労務士などの専門家に相談するとよいでしょう。
3 まとめ
賃下げは社員の合意があれば、比較的スムーズに行うことができます。賃下げ額も原則として企業と社員の話し合いで決まります(ただし、法令、労働協約、就業規則に違反しないことが条件)。その話し合いでは、企業はできるだけ客観的・定量的に現在の社員の労働能力を示す努力をしなければなりません。
また、事前に配置転換の可能性を探ることや、賃下げの対象を合理的に決めることも必要です。社員が賃下げに一切応じない場合は、就業規則などに定められている既存のルールを使って対応していくことになります。
以上が社員の賃下げを行う際のポイントですが、最も重要なことは社員の生活の安定であるといえるので、この点について十分に配慮することを忘れてはならないでしょう。
以上(2020年8月)
(監修 弁護士 田島直明)
pj00317
画像:ADragan-shutterstock