政治、経済、社会、技術……私たちのビジネスを取り巻く環境は常に変化しています。皆さん一人ひとりが周囲の変化に敏感にならなければ、会社は生き残ることができません。しかし、周囲がどう変化していても、進むべき道を決めるのは私たち自身です。私たちの中にビジネスの確固たる「信念」がないと、結局、周囲の変化に流されるだけで終わってしまいます。今日は、そんな信念に関する話として、医学者の北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)氏のエピソードを紹介します。
北里氏は、明治時代に感染症医学の発展に貢献した、「近代日本医学の父」として知られる人です。熊本県の庄屋の息子に生まれた北里氏は、両親からさまざまな教育を受ける中、18歳のときにあるオランダ人医師と出会い、西洋医学に強い興味を持ちます。大学を卒業後、内務省衛生局で働くことになった北里氏は、33歳のときにドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホ氏に師事します。そして、世界で初めてとなる破傷風菌の純粋培養に成功し、国際的にその名を知られることになります。
さて、幼い頃に伝染病で兄弟を失う体験をした北里氏には、医学者として生涯持ち続けた1つの信念がありました。それは「医学は、病気の診断や治療に役立つものでなければならない」というものです。北里氏は、この信念に合わないことについては、周囲の意見がどうであっても、頑として首を縦に振りませんでした。
例えば、脚気(かっけ)という病気の菌が発見されたニュースが発表された際、北里氏は医学的見地から「脚気は伝染病ではない」と否定しました。菌を発見したのは北里氏に細菌学を教えた恩師で、医学界に大きな影響力を持つ大学の医学者でしたが、北里氏は真実を明らかにするほうが大切であると、行動を起こしました。結果、北里氏は大学から疎まれることになりますが、この行動のおかげで、菌が脚気とは無関係であることが証明され、医学の発展に大きく貢献しました。
また、北里氏が所長を務める伝染病研究所が、内務省衛生局から文部省の管轄に移り、医科大学の下に入ることが決定した際、北里氏は研究所を辞めることを決意します。これは、北里氏の「大学では学問を学ぶことはできても、実践的な研究ができない」という考えによるものでしたが、これに感銘を受けた多くの門下生たちが、北里氏とともに辞表を提出し、別の研究所を立ち上げ、医学の発展に尽くしていくことになります。
北里氏は、「医学は、病気の診断や治療に役立つものでなければならない」という信念があったからこそ、重要な局面で周囲に流されず、自身で進むべき道を決めることができました。皆さんの中に、「何のために仕事をするのか」「何を大切にしたいのか」といった信念はありますか? もしあるのであれば、一生ものの財産です。いざ重要な決断を迫られたとき、皆さんの力になりますから、ぜひその信念を大切にしてください。
以上(2021年11月)
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画像:Mariko Mitsuda