皆さんにとってこの2年ほどはまさに「忍耐」が求められているのではないでしょうか。新型コロナウイルス感染症流行の影響で、仕事、私生活ともこれまで当たり前にできていたことがままならず、さまざまな苦労や戸惑いを感じていることも多いはずです。今日は、そんな皆さんに、徳川家康のエピソードを紹介します。

家康は、三河国(みかわのくに)を統治する松平家の嫡男として生まれました。当時の三河国は、東西を織田家、今川家という強大な勢力に挟まれており、松平家存続の方策として、家康は少年時代の多くを今川家の人質として過ごしました。しかし、家康は人質となった自分の運命を悲観することなく、学問や武術に真摯に取り組みました。そして、17歳の頃に初陣を飾った際は、今川義元(いまがわよしもと)を喜ばせるほどの戦功を立てます。

やがて、織田信長が義元を破ると、家康は故郷である三河国に帰り、信長と同盟を結んで大名として成長していきます。順調に勢力を拡大していた家康ですが、信長の死後、その家臣であった豊臣秀吉に従うことを余儀なくされ、故郷から遠く離れた関東への領地替えを命じられてしまいます。当時の関東は荒れ放題で、あまり良い土地ではなかったそうですが、家康はこの領地替えを受け入れ、土地開発に真摯に取り組み、力を蓄えていきます。

そして、秀吉の死後、家康は10年以上の年月を費やして豊臣家を滅ぼし、73歳になって、ようやく天下を統一します。人生50年といわれたこの時代に、高齢になっても天下を取ることを諦めなかった家康の忍耐力には、類いまれなるものがあるといえるでしょう。

なぜ家康は、これほどまでに苦難に耐えることができたのでしょうか? さまざまな意見があると思いますが、私は家康が「苦難をつらいものではなく、むしろチャンスとして捉えていたからではないか」と考えています。例えば、人質として自由のなかった少年時代については、「自由が制限されている分、自分を律して鍛えるチャンス」と思っていたのかもしれません。秀吉から関東への領地替えを命じられた際も、「自分を荒れた土地に移して秀吉が安心している今こそ、力を蓄えるチャンス」と考えていたのかもしれません。

思い通りに仕事ができないときというのは、必ずやってきます。そんなときこそ、「これまでの自分を変えるチャンス」だと思ってください。仕事の進め方を見直す、勉強し直して知識を蓄えるなど、できることはいくらでもあります。ただ苦難が過ぎ去るのを待つのではなく、苦難の向こうにある、手に入れたい未来をつかむために、水面下で自分を磨き続ける。それが「本当の忍耐力」であると、私は考えます。

以上(2022年1月)

op17010
画像:Mariko Mitsuda

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