【ポイント】

  • 蔦屋重三郎は、出版業が取り締まりを受けても、新人の発掘などに意欲的に取り組んだ
  • 幕府の締め付けを「成功の道筋を見つけてリードするチャンス」と捉えたのかもしれない
  • ピンチに遭遇しても「このピンチをチャンスに変えてやる」という気概を持つことが大事

おはようございます。今日は2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」の主人公にも選ばれた、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の話をします。

重三郎は江戸時代中・後期に活躍した、今で言うところの出版業者です。当時は幕府の権力者・田沼意次(たぬまおきつぐ)が商業重視の施策を展開し、経済が大きく発達した時代。重三郎は時代のニーズを先取りし、庶民の日常生活を描いた浮世絵、遊里を舞台にした洒落本(しゃれぼん)など、自由な世情に合った絵や文学を積極的に出版して人気を博します。こうした功績から、現代では重三郎を“江戸のメディア王”などと呼ぶ人もいます。

ただ、私は重三郎が“メディア王”たるゆえんは、別にあると考えています。私が彼の能力で最もすさまじいと感じるのは「ピンチをチャンスに変える力」です。田沼意次が失脚し、新たに松平定信(まつだいらさだのぶ)が政権を握ると、いわゆる「寛政の改革」で風俗の乱れや政治批判につながる書籍などが厳しく取り締まられるようになります。重三郎の出版業も大きく影響を受け、彼自身も財産を減らされる罰を受けてしまいました。ですが、重三郎は出版業から身を引きませんでした。

彼は寛政の改革以降も、南総里見八犬伝の作者・曲亭馬琴(きょくていばきん)や、役者絵の東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)など、新しい逸材を発掘し、時代に受け入れられる形でプロデュースしていったのです。馬琴や写楽が後世に名を遺す作家・絵師として大成したのも、重三郎の働きによるところが大きいでしょう。重三郎は「幕府の締め付けが厳しいからおとなしくしていよう」ではなく、「締め付けが厳しいからこそ、ここで成功の道筋を見つけて業界をリードしてやる」と考えたのかもしれません。

ピンチに遭遇したとき、ただ畏縮しているだけでは成功はつかめません。そこで「このピンチをチャンスに変えてやる」という気概を持てる人だけが、道を切り開けます。ビジネスを取り巻く環境は刻一刻と変化しています。2025年も厳しい局面を迎えるときがあるかもしれませんが、そんなときこそ、重三郎のような気概を以て難局を乗り越えてください。

以上(2025年1月更新)

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画像:Mariko Mitsuda