【ポイント】

  • 藤原道長の日記を読むと、豪胆に見えた彼の意外と小心者な一面が見えてくる
  • 道長は「いざというときに見せる勇気」で、人々を引き付けたのかもしれない
  • 何かにチャレンジする際はあえて言葉にすると、自分を奮い立たせることができる

今日は、平安時代の貴族「藤原道長」について話をします。皆さんもご存じ、自分の娘たちを天皇の后(きさき)にし、生まれてくる皇子の外祖父となって長期政権を築いた人物です。2024年の大河ドラマ「光る君へ」でも活躍が描かれていますね。そんな道長の人柄に関する話です。

世間でよくいわれる道長のイメージは「豪胆」。若い頃に行った肝試しで、兄たちが逃げ出す中で一人だけやり遂げた話や、弓の実力を競う競射の場で、「私の家から天皇や后が立つなら、この矢よ、当たれ!」と言って的の中心を射抜いた話があります。後年、道長の三女が天皇の后になった際、「この世をば 我が世とぞ思ふ(う) 望月の かけたることも なしと思へ(え)ば」という、藤原氏の栄華を喜ぶ歌を詠んだ話も有名です。

一方、道長の日記とされる「御堂関白記(みどうかんぱくき)」からは、彼の意外と「小心者」な一面が垣間見えます。例えば、ある年の正月に朝廷の儀式で手違いがあり、「私は儀式を主宰するのにふさわしくない」と吐露する場面や、天皇から難しい人事の注文を受け、承知してしまった後で「どうしよう……」と悩む場面があります。

本当のところは分かりませんが、私は道長のことを「本来は小心者で、『やるときはやる』タイプのリーダーだった」と考えています。道長は歴史上、特に優れた政策を実施しているわけではないのですが、それでも彼が長期にわたって政治の頂点に君臨できたのは、家柄などとは別に、普段は気が小さくても、ここぞというタイミングで「勇気」を見せる人柄が人々に慕われたからなのかもしれません。

道長の言葉にも注目です。弓の競射のエピソードで、彼が「私の家から天皇や后が立つ」と口にしたのは、「自分が実現したいこと」を明確に言葉にすることで、小心者である自分を奮い立たせるためかもしれません。後年の望月の歌も、見方を変えると、「藤原氏を永く栄えさせていく」という、道長の決意表明にも思えてきます。

普段は謙虚な人間が、いざというときに見せる勇気は人々を引き付けます。あえて言葉に出して、時には大胆なチャレンジをしてみましょう。

以上(2024年11月作成)

pj17199
画像:Mariko Mitsuda

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