水よく船を浮かべ、水よく船を覆す。ただこのことを、よく心得られよ
徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉とともに、戦国の三英傑の一人に数えられる人物です。最初は小国の三河(現在の愛知県東部)を治める一大名に過ぎませんでしたが、数々の戦いに勝利して勢力を伸ばし、やがて江戸幕府の初代将軍となり、長く続いた戦国の世を終わらせました。
冒頭の言葉は、家康が2代将軍である息子の秀忠(ひでただ)に度々言い聞かせたとされる教訓で、「水(領民)は船(幕府)を浮かべもするが、転覆させもする。だから領民の心が離れないよう、行いには重々注意しなければならない」という意味があります。1600年、天下分け目の決戦といわれる「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は、1603年に江戸幕府を開きますが、2年後には将軍の座を秀忠に譲ります。これは、将軍職が徳川家によって代々引き継がれていくことを世に知らしめるためでしたが、一方で家康には、秀忠に将軍職を譲るに当たって懸念していることがありました。
それは「人生経験の差」です。家康は戦国の世を生き抜いてきた人物です。若い頃から三河を囲む敵国の脅威にさらされ、時には一向宗という教えの信徒になった領民に一揆を起こされるなど、領国の内外に自分を脅かしかねない存在を抱えながら、苦労の果てに将軍の座を手に入れました。
一方、息子の秀忠は、家康からすれば戦国の世の苦労をほとんど知らない人物です。家康が秀忠に将軍職を譲った頃には、徳川家の力はすでに揺るぎないものになっており、秀忠にとって敵といえるような存在はほとんどいませんでした。
家康はこの状況を、「秀忠は苦労せずに将軍になったから、下手をすればおごって世を乱すかもしれない」と危惧していました。だからこそ、「徳川家が盤石に思えても油断するな。領民は常に見ているぞ」と度々くぎを刺したのです。そのかいあってか、秀忠はおごることなく諸法度の制定や貿易の統制に取り組み、家康から引き継いだ江戸幕府をより強固な組織へと進化させました。
会社の経営者も、どこかで後継者に後を託すときがやってきます。家康の言葉を借りるなら、水は「社員」、船は「会社」であり、社員の心が経営者から離れれば、会社は立ち行かなくなります。このことは後継者にしっかり教えておく必要があるでしょう。ですが、社員の心が離れないようにするのと、社員の顔色をうかがうのは違います。船は水に浮かべて終わりではなく、針路を決めて前進しなければなりません。時には社員からの反対を押し切って、経営者自身が正しいと信じた道を前に進まなければならないこともあります。
大切なのは「後継者にトップとしての緊張感を持たせつつ、信じて後を託すこと」です。秀忠は、武将としての才にはあまり恵まれなかったようですが、家康は「これからの平和な時代には秀忠が必要だ」と考え、彼に後を託しました。将軍職が代々そうして継承されていったから、江戸幕府は260年余りも続いたのかもしれません。
出典:「明良洪範続編」(浜松・浜名湖ツーリズムビューローウェブサイト 家康公「伝」)
以上(2023年11月作成)
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