書いてあること
- 主な読者:現在・将来の自社のビジネスガバナンスを考えるためのヒントがほしい経営者
- 課題:変化が激しい時代であり、既存のガバナンス論を学ぶだけでは、不十分
- 解決策:古代ローマ史を時系列で追い、その長い歴史との対話を通じて、現代に生かせるヒントを学ぶ
1 現在における「変革」の重要性
「VUCA(ブーカ)」という言葉を目にされたことはあるでしょうか。一般的に広まっている言葉ではないので、初めて見る方も少なくないと思います。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字を並べた造語で、不確実性の高い現在、特に2010年代以降の社会経済環境を表す言葉として、ダボス会議などでも用いられるようになっています。こうしたVUCAの環境の中で、企業はその変化に適応することが求められており、事業推進や経営管理における適応力の重要性が語られるようになっています。
一方、変化への適応とは、後追いという側面もあるため、自ら変化を起こし、変化を有利な形で進めていく「変革」とは切り離した見方も散見されます。しかし、適応力を高めていくということも「変革」であり、適応力の高さを差別化要素として、市場を動かしていくということも「変革」です。つまり、不確実性の高い現在においても、企業活動における「変革」の重要性は、いささかも揺らぐことはなく、むしろ現在の状況や環境にふさわしい形への「変革」がどの企業も強く求められています。
2 「変革」に要する時間
とはいえ、言うまでもなく、「変革」は簡単ではなく、一朝一夕にはいかないものです。ビジネスにおいては、ジャック・ウェルチによる米ゼネラル・エレクトリック社の変革の例がたびたび取り上げられ、「変革への目覚め」「ビジョンの構築」「日常としての革命」という3つの幕が説明されます。私たちは、トップダウン型のアプローチによって、それらがあたかも整然と短期間に実行されたかのように思いがちですが、彼の自叙伝「ジャック・ウェルチ わが経営」を読むと、一筋縄ではいかず、それ相応の労力と時間を要したことがよく分かります。
しかし、できることならば、時間をかけずに変革を成し遂げたいと、誰しもが思うことでしょう。21世紀に入り、血で血を洗う競争の激しい領域(レッドオーシャン)を避け、競争のない新たな未知の市場を切り開いていくべき、という「ブルーオーシャン戦略」が説かれるようになりました。ブルーオーシャン戦略は、「バリュー・イノベーション」が中心に語られがちですが、変革への抵抗を克服し、短期間かつ低コストで実行すること、そして、変革の中核たる新たな戦略を効果的に浸透させることについても、考察されています。
3 抵抗の克服と変革の浸透
前者、すなわち変革への抵抗をいかに克服するかについては、「ティッピング・ポイント・リーダーシップ」というアプローチが語られています。企業変革の実行においては、認識、経営資源、士気、社内政治という4つの組織面のハードルがあり、これらのハードルそれぞれに最も影響力を持つ要素を見つけ出し、そこに集中的かつ迅速に働きかけることがうたわれています。より大きな変化を引き起こすために、影響力のある人物や領域に集中して小さな変化を起こす、というレバレッジの発想に基づく変革の推進です。
後者、すなわち変革の中核たる新戦略をいかに組織に浸透させるのかについては、「フェア・プロセス」が示されています。組織に浸透させていくためには、戦略の正しさもさることながら、手続きの公平性が大切であるということです。「フェア・プロセス」は、プロセスに関与する機会を設けること、適切な説明により理解と納得を得ること、そして、社員それぞれに何が期待されているのかを明確に示すこと、と説かれています。優れた戦略であっても、組織に浸透せず葬り去られた例は枚挙にいとまがありません。このアプローチこそ、変革を一過性のものに終わらせないための要になるのです。
4 カエサルの変革の途絶
さて、「変革」にまつわる諸概念を少々長めにご紹介しました。羅列的で退屈だったかもしれませんが、ローマの共和政から帝政への「大変革」を眺めていくにあたり、こうした要素を頭の片隅に置いていただくのがよいだろうと思ったためです。実際、共和政から帝政への変革を詳細に見ていくと、より多くのことが想起されます。人間の機微にあふれた大小さまざまなドラマがあり、それらの総和として大変革がなされたということでしょう。教科書では1行程度で終わる話ですが、ここではもう少し詳しく眺めたいと思います。
ポンペイウスを破り、元老院派を武力制圧したガイウス・ユリウス・カエサルは、ローマに戻り、国家改革に乗り出します。カエサルが絶対的な権力者を欲し、共和政から帝政への移行を推し進めたと見る向きもありますが、急激に巨大化した国家ローマにおける組織構造の抜本的な変革を断行しようとしていたのでしょう。
元老院派主導のローマ共和政は、イタリア半島を領有していた時代には適していましたが、地中海を越えて広がる地域を治めるようになった国家ローマには適さなくなりました。これに代わる新秩序が必要と考えたカエサルは、統治能力を強化するために、自身の下に権力を集約させていきます。これが帝政への移行です。その際、カエサルはこれ以上の領有拡大を考えておらず、パルティア遠征計画も国家ローマの防衛線を築くためだったようです。つまり、成長拡大を一旦やめ、規模にふさわしい組織構造の確立に注力する考えだったのです。
しかし、ご存じのように、カエサルの変革は道半ばにして暗殺という形で途絶します。紀元前44年3月15日、カエサルは、ブルータスやカッシウスらによって暗殺されました。「ブルータス、お前もか」の場面です。ここでいうブルータスは、マルクス・ブルータスかデキムス・ブルータスかと諸説ありますが、カエサルはいずれに対しても、相応の配慮を払い、厚く処遇していました。首謀者とされるカッシウスに対しても、長年の軍功には報いていたといえるでしょう。暗殺に関わった14名全てに対し、カエサルなりに配慮し、信頼を示していたので、カエサルは裏切られたと思ったかもしれません。
しかし、彼らは裏切りとは思っていません。むしろカエサルこそ共和政の裏切り者であり、共和政を守るという信念に従って行動したのです。カエサルは、自身が思い描く「変革」に対して抵抗があることを知りながら、その抵抗の強さを見誤り、あるいはその抵抗の克服を十分にせぬままに、変革を急いでしまったと言わざるを得ないでしょう。
5 オクタヴィアヌスの基盤確立
思いがけない形で死を迎えたカエサルは、名と実を託すべく、遺言状を残していました。第一相続人にオクタヴィアヌスを指名し、自身の養子として迎えてユリウス・カエサルの名を与えることにしていたのです。これは正統な後継者指名です。オクタヴィアヌスは、カエサルのめいの息子で、当時18歳の無名の若者でした。
カエサルとしては、十数年後の後継を想定していたのでしょうが、すでにこの時点で、オクタヴィアヌスの才能と可能性を見極め、補うべき弱点も考慮していました。軍才の不足を補うため、若き勇兵アグリッパを付けたこともその1つです。また、家柄の低さを補うために、名門貴族である自分の名を与えた点は何より大きな補強でした。
一方、オクタヴィアヌスもその意味を正確に理解していました。遺言状の内容を知るや否や、直ちにローマに入り、カエサルの遺志を継ぐ決意を明らかにした上で、カエサル記念の競技会を開催し、カエサルの息子としての責務を果たす姿をローマの人々に高らかに示しました。カエサルの息子の下には、部下だった兵士たちが続々と集まり、弱冠19歳にして一大勢力を指揮する立場を築いていきます。
こうして存在感を得ていったオクタヴィアヌスは、カエサルの右腕だった武将アントニウスと争うことになります。オクタヴィアヌスは、アントニウスを政治的に追い込んだ上で戦場でも勝利を収めましたが、あえて追撃はせずにローマに帰還し、執政官に就任します。
19歳の執政官は、カエサルの暗殺者を公式に有罪とし、追放刑にすることを法で定めました。続いて、亡きカエサルの神格化を決議します。これには2つの意味があります。1つは、自らが神の子になるということ。もう1つは、ブルータスやカッシウスの討伐に消極的なアントニウスを引きずり出すということでした。ブルータスらはギリシャで兵力を築いており、オクタヴィアヌスだけでは討伐が困難だったため、アントニウスの戦力が必要でした。カエサルを神格化することで、神の暗殺者の討伐となり、アントニウスも参戦せざるを得ません。こうして、アントニウスと共闘し、暗殺者たちを葬り去ったのです。変革に向けての重要なハードルが取り去られたといえるでしょう。
次は、いよいよアントニウスと雌雄を決する戦いとなります。クレオパトラに翻弄されたアントニウスが失策に失策を重ね、自ら政治的に追い込まれたため、頂上決戦としてはいささか興をそがれる構図になります。最終的には、軍事的にも勝敗が決し、映画でもおなじみの、アントニウスとクレオパトラの自害によって幕が下ろされます。カエサル暗殺に始まった14年に及ぶ混乱劇が終わったのです。
この14年間は無駄なようにも見えますが、オクタヴィアヌスにとって、とても重要な時間だったと思います。この間に、オクタヴィアヌスの実績、名声、自信が育まれたことは言うまでもありません。そして、カエサル暗殺から始まった諸現象と一連の要因を直視したことで、その後の治世に生かされる青図が描かれました。
ローマ世界で最高権力者の地位にあったカエサルの基本方針が「寛容」であったのに対し、同じ地位に就いたオクタヴィアヌスの基本方針が、自らの安定的かつ長期的な施政を含意する「平和」であったことは、それを示しているように思います。
6 帝政の始まり
ローマ唯一の最高権力者の地位に就いたオクタヴィアヌスは、元老院議場で、全特権の返上と、共和政体への復帰を宣言します。実際には、無用の長物で、むしろ手放したほうが有利な3つの臨時特権を放棄しただけなのですが、この宣言に元老院は狂喜し、オクタヴィアヌスに「アウグストゥス」という尊称を贈ることを決議しました。「アウグストゥス」とは、神聖で崇敬されるべき存在を意味します。
オクタヴィアヌスには「インペラトール」と「プリンチェプス」という称号がすでにありました。前者は、勝った将軍を呼ぶ敬称で、終身での軍団指揮権を示しました。後者は、ローマ市民の第一人者という意味です。属州総督任命権を持つ現職執政官という最高位の立場と、3つの称号が組み合わされることで、1つ上の世界観を帯びる唯一無二の存在になりました。
合法的に得られたものを組み合わせ、それ故、反発や抵抗を受けることもなく、政治的に調和された絶対的地位が密やかに築き上げられました。皇帝という概念は、このときまだありません。半世紀ほどたったときに帝政が始まった、つまりその年に初代皇帝アウグストゥスが誕生した、といわれるようになったのです。
共和政から帝政へという政体の移行は、大変革の根幹ではあるものの、一面にすぎません。その側面を中心に眺めてみましたが、お気付きのように、大変革であったにもかかわらず、いつの間にか、気付かぬうちに変わっていたという流れが見て取れます。時間については、長くかかったと見る方もいるかもしれませんが、国家政体の移行と考えると、短期間になされたと評すべきと思います。
この一連の流れの中には、企業における「変革」を考えさせられる要素が数多あります。さまざまな側面から見つめ直し、思考の材料にしてもらえればと思います。
(2021年10月)
(執筆 辻大志)
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