「人は人に使われることを知って、而(しか)して後に人を使うようにならなければならぬ」(*)

出所:「伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録」(新人物往来社)

冒頭の言葉は、

  • 「たとえ誰かの下でどのような仕事を行っているときであっても、常に全力を尽くさなくてはならない。そうすれば、いつか自分が人の上に立ったときに、その経験が必ず役に立つ」

ということを表しています。

1853年、米国から黒船が来航し、幕府に開国を迫りました。これに対する幕府の弱腰の対応によって国内では攘夷(外国人や外国文化を排斥すること)運動が盛んになり、幕府に対する反発が強まりました。

こうした中、伊藤氏は、吉田松陰(よしだしょういん)が教える松下村塾(しょうかそんじゅく)で勉学に励み、後に高杉晋作(たかすぎしんさく)をはじめとする塾生たちとともに攘夷運動に加わることとなります。しかし、伊藤氏は単純な攘夷主義者ではなく、「西洋の技術を取り入れて日本の軍事力を強化し、日本の独立を守る」という考えを持っていました。そのため、1863年に同志の井上馨(いのうえかおる)氏たちとともに、海外の情勢を探り、技術を学ぶために英国へ留学しました。そして、産業や工業、軍事などの西洋文明を目の当たりにして、「日本は開国して商工業を発展させ、国力を高めなくてはならない」という考えを強めました。

その後、長州藩は1864年に禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗北して朝敵となり、第一次長州征討を受けて幕府に降伏しました。しかし、幕府への降伏に反対する高杉晋作がわずかな人数で決起し、たちどころに藩内の保守勢力を一掃して倒幕を目指す政権を立ち上げました。この際、伊藤氏は高杉晋作の命を受け、藩内の各方面に対して粘り強く交渉を重ねました。

その後、1866年の第二次長州征討では、幕府軍は長州軍に大敗を喫しました。このことにより、幕府の権威は大きく失墜し、1867年の大政奉還によって江戸幕府は終焉(しゅうえん)を迎えました。そして、王政復古の大号令によって明治政府が成立し、以降、日本は近代国家としての道を歩み始めることとなります。

伊藤氏は、明治新政府において大久保利通(おおくぼとしみち)氏や木戸孝允(きどたかよし)氏などの薩長閥の長を支えて活躍しました。その後、「明治十四年の政変」で大隈重信(おおくましげのぶ)氏が失脚した後は、政府において中心的な役割を担うこととなり、1885年に内閣制度が設置されると、初代内閣総理大臣に就任しました。

こうして、伊藤氏は、最終的には内閣総理大臣という、多くの人の上に立つ立場となりました。伊藤氏は、仕事ということについて次のように述べています。

「およそ人は、その従事するところのことに忠実ならざるべからず」(*)
(人間は、自分が就く仕事を忠実に行わなくてはならない)

伊藤氏は、自身が人の下で働く際には、忠実にそれを行い、ときには命がけで取り組みました。こうした経験が、後に人の上に立つ立場になった際に十分に生きることとなりました。どのような仕事であっても、必ず後の自分自身にとって役に立ちます。そうした仕事の中にやりがいを見つけ出すことこそが、人の上に立つことを志す上で重要となるのです。

【参考文献】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】
いとうひろぶみ(1841〜1909)。周防国(現山口県)生まれ。吉田松陰の松下村塾で学ぶ。高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)などとともに倒幕運動に参加するなど、明治維新の立役者として大きな役割を果たす。1885年、初代内閣総理大臣就任。

【参考文献】
(*)「伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録」
(新人物往来社(編)、新人物往来社、2010年4月)

以上(2021年10月)

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画像:pixta

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