書いてあること
- 主な読者:現在・将来の自社のビジネスガバナンスを考えるためのヒントがほしい経営者
- 課題:変化が激しい時代であり、既存のガバナンス論を学ぶだけでは、不十分
- 解決策:古代ローマ史を時系列で追い、その長い歴史との対話を通じて、現代に生かせるヒントを学ぶ
1 人は歴史に学ぶ
歴史は、人間社会が経てきた変遷であり、私たちに多くのことを教えてくれます。時の権力者の意向や著述者の思想といった影響もあり、歴史は、必ずしも真実の記録とは言えませんが、その1つ1つの出来事を見つめることで、私たちが現実に抱えている課題に対するヒントが見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」と言われますが、この対話を通じて、先人たちと自分たちを重ね合わせ、自分たちの判断や行動に対する助言を得ることができるのです。本シリーズでは、古代ローマ史を時系列で追い、その長い歴史との対話を通じて、ビジネスガバナンスについての示唆を得ていきます。
2 社会集団の形成:5つの段階
国家と企業の違いは多くあるものの、多数人から構成される社会集団として捉えると、類似した点も多く見いだせます。部門やチームも同様です。通常、社会集団が形成される場合には、形成期・激動期・規範形成期・実現期・終了期といった5つの段階があると言われています。この中で、特に重要なのは、激動期です。激動期をどのように経て、規範形成期に入っていくか、というのが、後々の形に大きな影響を与えるからです。
すなわち、激動期は、社会集団を構成するメンバーの間でコンフリクト(衝突、対立)が生じ、一見すると良くない兆候のように見えますが、このコンフリクトを通じ解決に向けて行動することによって、お互いの考えが理解され、社会集団内の共通規範のイメージが形成されます。もちろん、コンフリクトを放置しているだけでは崩壊に向かいますが、解決に向けた議論や行動が先々の礎となって、共通規範が形成され、豊かな成果が上げられるようになるのです。
3 古代ローマにおける激動期とコンフリクト
古代ローマ史とは、一般的に、紀元前753年の建国から西暦476年の西ローマ帝国の滅亡までの約1200年を指します。この長きにわたった社会集団の変遷もまた、先述の5つの段階を経ていきましたが、やはり激動期におけるコンフリクトとその解消に向けた取り組みが、後々の礎になったように思います。それでは、簡単に、古代ローマ史の第1幕を見ていきましょう。
ローマの歴史は、ロムルスとレムスという双子の兄弟から始まります。2人は、新たな都市をつくるべく近隣の人々をまとめていきましたが、2人の間に不和が生じ、レムスは殺されてしまいます。そして、紀元前753年、ロムルスが王となり、ローマが建国されました。ここから7代、約240年にわたって王政が続きましたが、市民たちが決起して王を追放し、紀元前509年、共和政へ移行しました。
共和政の下、ローマは周辺部族との戦いを続けながら、徐々に力をつけ、市民の数も増えていきましたが、貴族層と平民層の対立が深刻な問題になっていきます。富と権力を持つ貴族層に対し、数で勝る平民層がストライキを起こし、貴族層がほんの少し譲歩する。そういったことが繰り返されました。まさに、激動期におけるコンフリクトでした。
4 国家存亡の危機からコンフリクトの解消へ
しかし、一時的ではありますが、このコンフリクトは落ち着きます。それは、国家存亡の危機というべき出来事が発生し、国内でコンフリクトを起こしている場合ではなくなったからです。古代も現代も、共通の敵を持つと、社会集団の結束が高まるということでしょう。このときは、北方からのケルト族の襲来でした。この紀元前390年のケルト族の襲来は、ローマにとって屈辱的で、甚大な被害をもたらしました。ローマは、ケルト族の侵入を阻むことができず、彼らの残虐な蛮行を7カ月間も許すことになります。
更に屈辱的だったのは、300キロの金塊を条件に、ケルト族に撤退を受け入れてもらったことでした。しかし、このケルト族の襲来は、この後長く続くローマの発展と繁栄の契機になったのではないでしょうか。国家も企業も、あるいは個人も、壊滅的な打撃を受けた後、大きな変革が進むことがあります。
ケルト族の襲来後、破壊されたローマの再建が進められました。屈辱、不安、恐怖などはまだ拭えずとも、20年が経ち、ようやく襲来前の状態に近づいていくと、貴族層と平民層との間のコンフリクトが再燃しました。
一方で、このコンフリクトこそが国家の脆弱性をまねき、ケルト族の襲来の本質的な原因であると認識していたのでしょう。ローマの人々は、この問題を先送りせず、解決に向けて歩みを進めました。紀元前367年、ローマの人々は「リキニウス・セクスティウス法」と呼ばれる画期的な法律を成立させます。この法律は、貴族層が占めていた国家の要職についての規程を改め、平民層の不満を解消するものでした。その後、更に法律が整えられ、貴族層と平民層との間のコンフリクトは治まっていくのです。
5 コンフリクト・マネジメント:ローマのアプローチ
一般に、ビジネスにおけるコンフリクト・マネジメントは、「競争」「和解」「回避」「妥協」「協力」という5つの対処法があると言われています。「競争」は、相手を打ち負かすことでコンフリクトを解消することで、かなり一方的な対処法と言えるでしょう。「和解」「回避」「妥協」は、対立する両者、あるいはいずれかに火種を残すこともありますが、平和的にコンフリクトを鎮静化する対処法と言えます。「協力」は、双方の利得が大きくなる方策を見つけて実行することでコンフリクトを解消することですが、現実の対立場面を考えると少々理想論にも思えます。
いずれにせよ、この5つの対処法を知らずとも、経営者が日々目にするコンフリクトを思い浮かべれば、想像できる対処法でしょう。
「リキニウス・セクスティウス法」は、5つの対処法のどれにも当てはまらないようにも、すべてに当てはまるようにも見えるものでした。そもそも平民層は、貴族層が占めている国家の要職を、平民層と貴族層で配分することを求めていました。
例えば、共和政ローマにおける最高職である2人の執政官のうち、1人を平民層からにすることを求めていたわけです。しかし、「リキニウス・セクスティウス法」は、ローマの共和政府のすべての要職を全面開放しました。つまり、人数の配分枠はなく、どの要職にも、平民層でも貴族層でも就けるるということです。完全に自由な競争で、執政官が2人とも平民層の場合もあれば、貴族層になる場合もありますし、1人ずつになる場合もあります。すべて公平で自由な競争の結果に委ねようというわけです。もし人数枠を等分していたら、国家が2つの組織構造を抱え、それらを争わせることになっただけでしょう。
更に、この数年後に成立した法律では、重要な公職に就き、その職を全うした者は、貴族層か平民層かにかかわらず、元老院議員になれる権利を与えることにしました。経験と能力さえあれば出自を問わないこととし、元老院議員という地位をも開放したわけです。
6 コンフリクト・マネジメントがつくる文化・思想
前述の通り、社会集団におけるコンフリクトは、起こらないほうがよいというわけではなく、適切な対処によっては、社会集団としての共通規範のイメージが形成され、後々の礎になり得る貴重な機会となります。
紀元前4世紀半ばにローマで実行されたコンフリクト・マネジメントは開明的だっただけでなく、その後のローマ国家における文化・思想を決定づけるものになります。貴族層、平民層という階層がなくなったわけではありませんが、いずれの立場であろうとも、更にはローマ市民でなかろうとも、機会の均等をつくっていこうという共通規範のイメージがここで明らかに示されたのです。そして、その共通規範のイメージが、この後に続くローマ史に色濃く表れていきます。
ビジネスにおいても同様でしょう。会社設立後、事業が回り始めると、社員を採用し、社員が一定数になると、コンフリクトが起こり始めます。企業間の合併や吸収などにおいてもコンフリクトが生じ、それがもとで実行が見送られるケースもありますし、合併や吸収の後も、コンフリクトが長らく続くこともあります。
こうした場面で、経営者や管理者が示すマネジメントは、企業のその後の文化・思想の礎になります。更には、その企業におけるリーダーシップ上の不文律になることもあるでしょう。コンフリクト自体を好ましい機会とできるのか、生産性のない内輪もめにしてしまうのかは、コンフリクト・マネジメントに掛かっています。経営者や管理者は、日々の対処の1つ1つがその後の事業運営に大きな影響を与えることを肝に銘じねばなりません。
7 敗北からの学び
ケルト族の襲来は、ローマにとって屈辱的な出来事でしたが、ローマが内部的に抱えていたコンフリクトと向き合う契機となったことは先に述べた通りです。もう1つ付け加えておきたいのは、ケルト族の襲来という屈辱は、内政上のコンフリクトの対処だけでなく、他国との同盟関係を見直す契機にもなり、「政治建築の傑作」とも呼ばれ、ローマの拡大を支えたローマ連合の仕組みづくりに繋がったという点です。また、このローマ連合を支える動脈網として、街道の整備が全国に展開されていきます。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざもありますが、ローマは、ケルト族の襲来と、その後の苦悩を忘れることなく、改革を進めていきました。こうしたことがこの後長く続くローマの発展と繁栄を築いていったのです。
ビジネスにおいても、大小さまざまな失敗や敗北が積み重ねられます。失敗や敗北の直後は、原因調査と改善策検討がなされますが、それを何年にもわたり、多方面から対応していくことは難しいでしょう。多くの場合、長くても次の年度になる頃には、取り組みが頓挫し始めるのではないでしょうか。
ケルト族の襲来は、ローマにとって忘れ去ることができないほど、甚大で屈辱的な敗北でしたが、こうした敗北からの学びが重要であり、その取り組みが後々にまで生きるということを忘れずに、失敗や敗北と向き合っていきたいものです。
以上(2021年8月)
(執筆 辻大志)
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