「失敗はわが師なり。失敗はわが大なる進歩の一部なり」(*)

出所:「日本のリーダー名語録 優れた指導者に学ぶ決断力 明治・大正・昭和」(PHP研究所)

冒頭の言葉は、

  • 「たとえ失敗をしても、そこで諦めてはいけない。失敗を次のステップに向けたバネとすることで、その先に大きく進むことができる」

ということを表しています。

1868年、明治新政府が成立すると、大隈氏は財政や外交分野の才能を認められ、政府の要職を歴任しました。そして、薩長派の巨頭である木戸孝允(きどたかよし)氏や大久保利通(おおくぼとしみち)氏が逝去すると、大隈氏は筆頭参議(政府の重職)として、実質的に明治政府を運営することとなりました。

当時、世間では国会開催や憲法制定を求める自由民権運動が高まりをみせていました。こうした動向に対し、伊藤博文(いとうひろぶみ)氏をはじめとする多くの参議は、「国会開催や憲法制定は漸進的に進めるべきである」という考えを持っていました。これに対し、かねてより英国の議会政治を日本でも実現しなくてはならないと考えていた大隈氏は、国会開催や憲法制定に関して急進的かつ具体的な考えを持っていました。

このため、大隈氏と伊藤氏たちの間で対立が深まることとなります。そして、1881年、伊藤氏ら反大隈派の巻き返しを受け、政争に敗れた大隈氏は、政治の舞台から去ることを余儀なくされました。

しかし、こうした逆境にあっても、大隈氏は希望を捨てませんでした。1882年、大隈氏は立憲改進党を結成しました。そして、「日本の近代化を推進するためには、立憲政治の指導者たる人材の育成が不可欠である」と考え、さらに同年、東京専門学校(現早稲田大学)を創立しました。

その後、1890年、日本において初めての国会(帝国議会)が開催されましたが、以降も藩閥体制に変化はなく、明治維新の主導的存在であった薩摩藩と長州藩の出身者が交互に総理大臣を務めるという状態が続きました。

こうした状況を改革するべく、1898年、大隈氏は自由党総理の板垣退助氏(いたがきたいすけ)と協力し、憲政党を結成しました。こうして、大隈氏が総理大臣の座に就き、日本初の政党内閣が誕生することとなりました。

晩年、大隈氏は往時を振り返り、次のように述べています。

「道が窮(きわま)ったかのようで他に道があるのは世の常である。時のある限り、人のある限り、道が窮(きわま)るという理由はないのである」(**)

この言葉は、「たとえ進むべき道がなくなってしまったかのように思えても、どこかに必ず道は開けている」ということを表しています。

大隈氏が創立した早稲田大学では、建学以来「在野精神」という理念が掲げられてきました。大隈氏は、政治家であった時代の多くを在野で過ごしながらも、常に志を高く持ち続けました。

失敗は、人生における一場面での結果にすぎません。大切なのは、「失敗をどのようにとらえ、そこからどのようにして立ち上がるか」ということです。諦めることなく、失敗をバネとしてそこから立ち上がってこそ、大きな進歩を遂げることができるのです。

【本文脚注】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】
おおくましげのぶ(1838〜1922)。肥前国(現佐賀県)生まれ。蘭学および英学(オランダ語および英語を通じて得られる西洋の学問)を学ぶ。1868年、明治政府の外国事務局判事就任。1898年、板垣退助氏とともに憲政党結党。

【参考文献】
(*)「日本のリーダー名語録 優れた指導者に学ぶ決断力 明治・大正・昭和」(武田鏡村、PHP研究所、2007年4月)
(**)「次代への名言 政治家篇」(関厚夫、藤原書店、2011年1月)
「大隈重信」(中村尚美、吉川弘文館、1986年1月)

以上(2021年5月)

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画像:photo-ac

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