「勝事(かつこと)ばかり知(しり)てまくる事をしらざれば害其身(そのみ)にいたる」(*)
出所:「東照公御遺訓」(久能山東照宮ウェブサイト)
冒頭の言葉は、
- 「敗北から学び、逆境を乗り越えた者が、最終的に大きな成功をつかむ」
ということを表しています。
織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とともに、戦国の三英傑の1人に数えられる家康。「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ほととぎす)」という言葉でも知られ、三英傑の中でも特に忍耐強い武将というイメージがあるかもしれません。
しかし、生来の家康は、実はとても気が短い人物だったといわれています。家康の気の短さを象徴する戦(いくさ)の1つに、武田信玄(たけだしんげん)と対峙した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(1572年)があります。
この戦で、家康は上洛を目指す信玄が、敵である自分の居城を攻めずに素通りしようとしたことに腹を立て、兵力差があるにもかかわらず、武田軍に攻撃を仕掛けてしまいます。結果は大敗、家康は多くの家臣を失いながら、命からがら城へと逃げ帰ります。自分の短気な性格のせいで大きな敗北を味わった家康は、後年この戦での憔悴(しょうすい)した姿を肖像画として描かせ、自分への戒めとして生涯離さなかったといわれています。
信玄の死後、家康は同盟を結んでいた信長とともに武田氏を滅ぼし、大大名となりますが、本能寺の変(1582年)で信長が討たれると、その家臣である秀吉への臣従を余儀なくされます。しかし、家康はその立場を受け入れ、10年以上もの間、自分が天下を取るチャンスを虎視眈々(たんたん)と待ち続けたのです。
家康の中には、「気の短さを克服しなければ、三方ヶ原の戦いのような敗北を再び味わうことになる」という思いが少なからずあったのでしょう。過去の敗北を決して忘れまいとする家康の姿勢は、次の言葉からもうかがい知ることができます。
「こころに望(のぞみ)おこらば困窮したる時を思ひ出(いだ)すべし」(*)
秀吉の死後、家康は関ヶ原の戦い(1600年)で、秀吉の家臣だった石田三成(いしだみつなり)を倒し、征夷大将軍に任命されます(1603年)。武家としてトップの地位を手に入れた家康でしたが、豊臣家とこれに従う多くの大名が依然として天下取りの障害となっていました。そこで家康は、豊臣家を滅ぼす大坂冬の陣・夏の陣(1614年・1615年)までの間、再び忍耐の時期を過ごすことになります。
家康は征夷大将軍に就任した時点ですでに60歳を超えていました。「人生50年」といわれたこの時代に、高齢の身でチャンスを待ち続けるのは、勇気のいる選択だったかもしれません。しかし、短気な性格のせいで失敗した経験を忘れず、耐え忍んだことが、最終的に家康を天下人に押し上げ、250年以上にわたる江戸時代の礎を築いたのです。
ビジネスでも、競合の動きを見るためなど、あえて「待ち」に徹し、耐え忍ばなければならないときがあります。しかし、経営者にとって「待ち」に徹するというのは、ある意味、行動を起こすよりもつらいことです。
行動を起こせば、それに応じて何らかの結果が返ってきます。結果が良ければ「自分の行動は正しかった」、悪ければ「改めるべきところがあった」と振り返ることができるでしょう。
一方、「待ち」に徹するというのは、競合の動きなどに目を光らせながら、将来の成功のための下準備を進めることです。この下準備は、短期的に結果を出すためのものではないため、経営者は「『待ち』に徹するという選択が本当に正しいのか」について、確信を持つのが難しいのです。これはとても怖いことです。また、経営者が大きな行動を起こさない状態が続けば、「なぜ社長は動かないんだ……本当に大丈夫なのか?」と言い出す社員も出てくるでしょう。
そうしたとき、経営者に試されるのは「自分の直感を信じ抜く勇気」です。経営者がこれまでの人生で培ってきたビジネスの経験値は、並大抵のものではありません。たとえすぐに答えが見えなくても、自分の信じたタイミングが来るのを待つのです。
忍耐はいつか実を結びます。成功をつかんだときは、経営者は社員の手を取って「『待ち』に徹したかいがあった」と喜びを共有しましょう。社員は思うはずです。「この社長についてきてよかった」と。そのときこそ、「ここまで一緒に耐えてくれてありがとう」と、社員に心からの感謝を伝えることを忘れてはなりません。
【本文脚注】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。
【経歴】
とくがわいえやす(1542〜1616)。三河(みかわ)国(現愛知県)生まれ。豊臣秀吉(とよとみひでよし)没後に関ヶ原の戦いにおいて東軍を率いて、石田三成(いしだみつなり)と対戦し、勝利。征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。
【参考文献】
(*)「東照公御遺訓」(久能山東照宮ウェブサイト)
以上(2020年1月)
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画像:Josiah_S-shutterstock