年間1000人以上の経営者と会い、人と人とのご縁をつなぐ代表世話人 杉浦佳浩氏。ベンチャーやユニークな中小企業の目利きである杉浦氏が、今回紹介する面白い起業家は宮嵜太郎さんです。
私もHPに“仲間”としてご掲載いただいているベンチャーキャピタルがあります。そこに私のご縁でジョインされた宮嵜さん。その経歴はまさに波乱万丈なのですが、その一端としてHPに掲載されている宮嵜さんの経歴をご紹介します。
“中学卒業後、丁稚(でっち)奉公として造園業に3年間従事。その後、営業経験を積むために就職。24歳のときに故郷である福岡に戻り起業。約12の事業を手掛けるが、知識や情報・経験の不足から多くの失敗を経験。資金も限られることから開業資金10万円で可能な事業を模索し、(株)豆吉郎を創業。豆腐の移動販売事業をフランチャイズ(FC)モデルにて展開。約700名のフランチャイジーと契約し、全国最大の移動販売組織を構築。2017年7月に同社を西日本新聞社に売却し、当社へ参画。”
●会社HP
http://www.kppartners.jp/aboutus.html
一目見ただけで「宮嵜さんに会いたい!」と連絡が入るほどのユニークな経歴。起業+買収+事業開発、アルバイトや業務委託を含めると、多業種にわたるビジネス経験が20回以上に及び、30代でありながら中学を卒業後に“丁稚奉公”の経験まであるという宮嵜さん。今回のインタビューで、とてもチャレンジングな“起業&企業家半生”について語っていただきました。
1 まずは大切な2つのこと
最初に、今回のインタビューを通じて感じた、最も重要で感動したこと2点を紹介します。それは、これまで起業や経営をしてきている中で、たった一度も、
- 従業員への給与遅配が無い
- 取引銀行への返済が滞ったり、リスケをしたりした経験が無い
ということです。
企業経営をしていく上で、この2点は本当に重要なことだと思います。顧客満足の前に社員満足。社員を大切に、そして自立心を持った社員の皆さんと一緒に事業を創っていく。そこを大事にしていたそうです。そして信用。金融機関との信用づくりも欠かせない。だからこそ、「借りたものは返す」という当たり前のことを徹底して信用づくりにこだわったそうです。
では、次章から宮嵜さんの目まぐるしい “起業&企業家半生”を、企業経営で大切なエッセンスを交えつつご紹介していきます。
2 幼稚園時代から営業経験?!
中学卒業後の起業経験を聞く前に気になったのが、幼い頃の話です。そこに「原点というか、ポイントがあるのでは?」と感じて最初に聞いてみたら、やはりあったのです。ビックリするエピソードが。
宮嵜さんは、なんと、幼稚園の頃からお父さんの造園業の営業を開始したそうです。『庭木の消毒は要りませんか?』と、5歳の子供が1軒、1軒を営業するというお話。お父さんから水筒を首に掛けられ、『お父さんは、今日1日この家で仕事しているから、隣の家からまわって来い!』と言われたそうです。
最初はよく分からないながらも営業を開始。途中からはコツをつかみ始めます。それが興味深いのですが、ピンポンとベルを鳴らした後、インターホンでは何もしゃべらず、無言で玄関の前で待っているのだそうです。すると、住人が出てきてビックリするわけです。「なんと子供が営業に来た!」と。そこで住人に話を聞いてもらうことができ、随分お父さんの仕事につながったというのですから驚きです。営業はちょっとした気づきと改善が必要ですが、そうした営業職としてのセンスが5歳の頃から開花していたのだと納得。そこから小学校に行きながら、営業職としての活動を続けたそうです。
3 短かった高校生時代の家出から京都での丁稚奉公経験
少年時代、学校に行く意味をあまり感じていなかった宮嵜さん。でも高校くらいは行こうと思って入学するも、やはり学校の勉強に興味は持てなかったそうです。そして、明日からテストという日、片道分の交通費だけ持って家出をし、福岡から大阪に向かったのでした。
ボクサーに憧れていた宮嵜さんは、大阪のボクシングジムに入ろうと門をたたきますが、門前払いされてしまいます。学生服を着たまま1週間ジムの近所の公園で寝泊まりしながら、入門を訴えるも許可はされなかったそうです。
仕方なく福岡に戻りますが、その後高校を中退し、アルバイトを転々としました。土木会社、飲食店、塗装会社、ガソリンスタンド、日雇い作業員など多数を経験しますが、「10年後も同じ状況で生活していてはいけない」と思い立ち、福岡から大分へ向かいます。そこで仕事をしながら、もっと遠くへ行こうと思い、今度は京都の造園会社に飛び込みで丁稚奉公を志願します。
当初は福岡からということもあり、正規の段取りは「作文を書いて郵送、審査」というものでしたが、それも無視して、着の身着のまま無一文で京都に行ったそうです。思い立ったら即行動。本当に行動力が半端ではありません。造園業での給与は当時6万円くらいで、それだけでは生活がままならないため、夜は中華料理店、土日は別の造園業者でアルバイトをしていました。
4 訪販営業で全国1位の営業マン時代
21歳になった頃、庭木の仕事は一通り習得していました。しかし、将来に不安を感じていた宮嵜さんは、「営業を勉強しよう!」と思い立ち、またもや全く土地勘の無い東京の渋谷へカバン1つ持って向かいます。『渋谷には何かあったのですか?』と質問すると、『東京だったら渋谷でしょ』という返答。渋谷に着いた頃は真冬の1月だったそうですが、ビルの駐輪場に2週間も野宿をしながら職探しをしていたそうです。
見つけたのは訪問販売の仕事。幼稚園時代の営業経験が復活し、2カ月目には全国1位の営業成績となっていったそうです。以来3年間、ずっとトップの成績を継続しながら、3年目には副業で介護用品のレンタル事業も行っていたと言います。
どうして営業成績1位になれたか聞いてみると、『周りの営業マンは自社の商品を売ることだけ考えていましたねぇ。私は、造園業の経験を生かして、無料で庭木の手入れをして喜んでもらって購入につなげていました。買ってもらうよりも先に、サービスをしていた、ということだと思います』と笑顔で語ります。「5歳からの営業経験は伊達じゃない」と感じました。
5 スクラップ&スクラップの連続から九州全域をカバーする事業開発へ
24歳のときに結婚。それを機に、福岡へ戻った宮嵜さんは個人事業主として、藤吉郎(後に豆吉郎に変更、法人化)を創業しました。屋号へのこだわりは、木下藤吉郎がどんどん出世していったことへの憧れからだそうです。
起業後は米の配達、レンタカー業、物干し竿の移動販売、広告代理業、半年後には法人化、食品の移動販売業、赤字を補うために造園業、古紙回収業とさまざまな事業をやりながら方向性を探り、29歳で豆腐の移動販売に事業を集中しました。
30歳の頃には、豆腐の移動販売で本格的にFC展開を開始し、早い段階で九州全域をカバー。広島エリア、大阪、福島県にまで事業を一気に拡大しました。なんと、50の事業所を開設し、25事業所を撤退したそうです。まずやってみて、ダメならすぐに撤退することを実践していました。
33歳の頃には事業拡大とともに、社員の自立化が図れて、社長業に余裕が出来たことから、新規事業の開発や子会社設立などを5社ほど経験。売却、統合、解散したそうです。飲食業界に進出して11店舗を10カ月で開業、9店舗を1年で閉店、外貨両替機の運営会社を設立するも設置場所が確保できずに撤退、忍者体験事業に進出するも撤退と、本当に目まぐるしい感じです。
●豆吉郎HP
https://www.toukichirou.club/
6 事業売却からキャピタリストを選んだワケ
「自身の車1台から始めた食品の移動販売業は業績も好調。でも、もともと豆腐の事業をやりたくて起業したわけではない、自分はこのまま事業を続けるのか?」。そんな自問を35歳の頃に繰り返していた宮嵜さん。その頃にM&Aの仲介会社から複数声が掛かるようになっていたそうです。本業の移動販売は社員に任せていても大丈夫なほど仕組みが完成していたこの頃、「今だったら売却しても引き継ぎ先に迷惑も掛からない」と判断しました。大手コンビニからも手が挙がるほど多数の候補先から、売却先として地元の新聞社を選定したそうです。
事業売却後に、M&A仲介企業や、他社から社長候補としての声が掛かる中、宮嵜さんは「勤める、経営者になる、投資家になる」という3つの中から方向性を悩んだそうです。前者2つは経験済みだが、投資家になったことはないと考え、いきなり自分だけで投資をスタートするのではなく、どこかで勉強したい、経験を積めるところ、ということで、たまたま私がご紹介したベンチャーキャピタルに合流することになった次第です。
今後、起業家・事業家に復帰する可能性を残しつつも、逆に起業家を支援する立場でチャレンジをしていきたいと宮嵜さんは言います。これだけの幅広い経験を持つキャピタリストはなかなかいないと思います。起業家の立場に立ったアドバイスからスーパーハンズオンのキャピタリストとしてご活躍されることと思います。
またこれまでの経験を、スピーカーの立場として発信されることになりそうです。これからの半生も楽しみな宮嵜さんです。
以上(2018年11月作成)