1 徳川時代を築いた「徳川家康」
天文11年(1542年)、徳川家康は、三河岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれました。幼少のときに今川家の人質として駿府へ向かう途中、織田軍に拉致されてしまいます。
今川家から独立した後の家康は、織田信長と清洲城で同盟を結びます。以後、信長と共に転戦し、長篠の合戦では、織田家と共同で武田の騎馬隊を破っています。
本能寺の変後は、信長亡き後の主導権を巡り、豊臣の大軍相手に善戦しました。その後は秀吉に降(くだ)り、豊臣政権の有力大名として五大老の一人に任じられています。
秀吉の死後は、天下の覇権を得るべく東軍の総大将として関ヶ原で石田三成と決戦、勝利します。慶長8年(1603年)、朝廷に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣秀頼を滅ぼし、戦国の乱世に終止符を打ったのです。
2 家康の有名エピソード
1)不遇な生活を余儀なくされた幼少時代
家康が生まれた当時、三河の松平氏は東の今川義元、西の織田信秀に攻め込まれ、滅亡の危機にありました。そこで、家康の父、三河岡崎城主松平広忠は、この危機を乗り越えるために、今川氏の支援を受けて織田氏と対決しようと決意します。今川氏の支援を受けるために、家康は駿府に人質として差し出されることになります。まだ幼く、竹千代と呼ばれていた頃でした。
しかし、家康は、今川氏のもとへ護送される途中で、織田軍に拉致されてしまいます。尾張の織田信秀の人質として数年を過ごした後は、再度人質として、駿府の今川義元のもとへ移ります。
こうして、家康は長期間に及ぶ不遇な生活を余儀なくされることとなります。
2)忍耐の人、家康
家康は、幼い頃から人質として過ごしたせいか、非常に慎重で、忍耐強い人でした。「悪賢い」などというイメージが付きまといますが、長い間の人質生活は、人を慎重にさせるには十分な試練だったのでしょう。
家康は、戦国の乱世に終止符を打ち、明治維新まで約300年もの間続く江戸幕府の創始者となりました。
しかし、その覇業の道のりは、決して楽なものではありませんでした。死を覚悟したことも幾度となくあったようで、むしろ、苦難の連続だったといえます。
3)家康の危機
長い家康の人生のなかで、生命の危険にさらされたことは一度や二度ではありません。例えば、次のような出来事があります。
- 桶狭間の合戦で、今川義元が織田信長に討たれて、岡崎まで引き揚げるとき。
- 三方ケ原の戦いで、武田信玄に手痛い敗戦を喫し、城まで追って来た信玄の兵に迫られたとき。
- 本能寺で、織田信長が明智光秀に討たれて、あわてて伊賀越えを敢行し、地侍や土民の一揆や敵の兵士に出会ったとき。
- 小牧山で、豊臣秀吉と対戦したとき、裏から三河に兵を出されて、追いかけて討ち取ったとき。
- 関ヶ原の合戦で、小早川秀秋との駆け引きで、鉄砲を撃って脅したとき。
- 大坂夏の陣で、真田信繁(幸村)に本陣を突かれて後退したとき。
4)家康をささえた武将
家康が生き長らえたのは、冷静な判断力と並外れた運だけではありません。団結力の強い三河武士の家臣の存在が非常に大きかったといわれています。
具体的には、徳川四天王といわれた、井伊直政 、酒井忠次 、榊原康政 、本多忠勝などの存在です。これほどいい家臣に恵まれた諸大名も少なく、あの織田信長でさえ褒めたたえたといわれています。
家康は、重要なポストはすべて譜代の大名で固め、仕官してきた人を、あまり雇わなかったことでも有名です。逆に、織田信長や豊臣秀吉は平素から仕官してくれば雇っていました。
家康は家臣を自分で育てるタイプだったのです。軍評を開くときでも家臣に意見を言わせて、最後は自分で結論を出す方式をとっていたようです。
このような家康の人材育成の手腕は、現在でも立派に通用するでしょう。
5)家臣は至極の宝
家康には家臣を非常に大切にしていたことを表す、さまざまなエピソードが残っています。
あるとき豊臣秀吉が、家康をはじめ諸大名を集めて、自分の宝物などを自慢して、「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と尋ねたことがありました。
このとき家康は、「ご存じのように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、何も珍しいものは持っておりません。しかしそれがしのためには、水の中、火の中へも飛び入り、命を惜しまない士を500騎ほど配下にしております。これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」と答えたといいます。これに対し秀吉は、赤面して「そのような宝は自分も欲しいものだ」と言った逸話が残っています。
家康は自慢をしたというより皮肉を言ったという感じですが、家臣を大切に思っていることがよく伝わります。
実際、豊臣秀吉はさまざまな方法で家康の家臣を引き抜こうとしたようです。家康が家臣を宝のように思っていたことは、家臣にもよく伝わり、家臣もまた家康のために命をなげうったのでしょう。
6)家康の“ウラ話”
家康の人生のなかで、面白いエピソードが残っています。それは、次のような話です。
三方ケ原の戦いでは、負けて逃げる途中、追っ手の姿も見えなくなった家康はおなかがすいてきました。そこで一軒の茶屋で小豆餅を食べることにします。そこへ追っ手が迫り、驚いた家康は金を払わずに一目散に逃げ出してしまうのです。今でいう“食い逃げ”です。
それを茶屋の女主人が追いかけてきて、家康を捕まえ、餅代を受け取ったという逸話が残っています。
この話が本当かどうかは定かではありませんが、静岡県浜松市内には、茶屋があったところは「小豆餅」、家康を捕まえたところは「銭取」と、それぞれ地名になっています。
以上(2023年4月)
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