1 出世に次ぐ出世で天下統一を成し遂げた「秀吉」

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、百姓の生まれですが、織田信長の小姓として取り立てられてより、自身の才能一つで次々と出世を重ね、織田家の武将、信長の後継者となり、そして天下統一を成し遂げました。

信長に取り立てられ、天下統一を成し遂げるまでの秀吉の生い立ちには、秀吉がいかに知略に優れていたかを示すさまざまなエピソードがあります。

豊臣秀吉の生涯

2 秀吉の有名エピソード

1)草履を温める気配り上手

秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた信長の草履取りの時代には、次のようなエピソードがあります。

ある雪の夜、信長が草履を履くと、温かくなっていた。「おまえは腰掛けていたな、不届き者め」と怒ると、秀吉は「凍るような日でございますゆえ、草履を胸に抱いて、温めておりました」といい、服の懐を開けて、草履の土がまだ付いているところを見せました。これに感心した信長は、すぐさま秀吉を草履取りの頭にしたといいます。

信長が秀吉に一目置くようになったきっかけは、この草履取りのエピソードにあるように信長に「気が利く」と思わせた点にあるのかもしれません。

2)プロジェクトリーダーとしての才能は抜群

藤吉郎が草履取りとして信長に仕えた清洲城(愛知県)では、ある時、地震で石垣が100間(約180メートル)ほど崩壊しました。藤吉郎は清洲城の修築工事の指揮を買って出ます。この工事は前任者がずいぶん時間を掛けても、なかなか進捗が思わしくなかったものです。

藤吉郎は職人たちを集めると、10組に分けました。そして100間ある城壁を10間ずつに分け、それぞれの担当として「これから競争で修復作業をするように。一番に仕上げた組には殿様からたくさんご褒美が出るぞ」と言い渡します。

職人たちも、100間は長い距離に見えますが、10間(約18メートル)なら、頑張れば何とか1週間でできそうな気がします。職人たちは昼夜を徹して働き続け、やがてどの組も1週間後、ほぼ修復を完了させました。

この仕事ぶりに信長は驚き、藤吉郎は出世の糸口をつかんだとされています。秀吉は現代でいうプロジェクトリーダーとして抜群の才能を持っていたのです。

豊臣秀吉

3)知略にたけた戦術家

秀吉がいかに知略にたけた戦術家であったかのエピソードはたくさんあります。その一つが天正9年(1581年)の鳥取城攻めです。

秀吉は、敵の兵糧の蓄えが多く戦が長期化しそうだと読むと、周到な作戦を練りました。まずは、城の兵糧を減らすために、商人を動員して鳥取城近辺の米を相場より高値で買いあさらせました。また、付近の村々を襲い、村人を鳥取城へと逃げ込ませたのです。城内の人口を増やし、早く食糧をなくす作戦です。

秀吉に完全に包囲された鳥取城の城内では、食糧が底を突き、木やねずみを食べたり、食糧を巡っての殺し合いも起きたりしました。そしてついに、城内の人間の助命と引き換えに城は秀吉に明け渡されたのです。

4)転機にとった素早い行動力

明智光秀が中国地方の毛利氏攻めの命を受けて大軍を率いて出発したものの、京都の本能寺で織田信長を襲撃した「本能寺の変」は秀吉の人生を大きく変える出来事でした。

そのとき、高松城で毛利方の勇将・清水宗治と対峙していた秀吉は、「本能寺の変」により信長死すの報を受け取るやいなや大急ぎで和睦に持ち込み、弔い合戦として後にいわれる「中国大返し」を敢行します。

光秀はまさか秀吉がそんなに早く引き返してくるとは思っておらず、「山崎の戦い」に敗れて退却中に命を落としました。わずか10日あまりの「天下」でした。この後、秀吉は光秀を倒したという実績もあり、信長の実質的な後継者となり、天下統一へ向かうことになります。

このように、転機にとった素早い行動力が、秀吉を天下人にしたのです。

5)秀吉のライバル家康

信長の実質的な後継者となった秀吉ですが、徳川家康という最大のライバルが存在することになります。

天正12年(1584年)3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍は互いに兵をあげることになります。この戦が「小牧・長久手の戦い」です。小牧でにらみ合いを続けた両者のうち、先に動いたのは秀吉軍でした。家康の本拠地岡崎を攻めるために三好秀次を総大将とした別動隊を送りましたが、その動きを察知した家康も行動を開始し、4月9日に長久手で激しい戦闘が起こりました。

結局、この戦いは、家康軍の勝利に終わりましたが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立しました。天下統一を果たした秀吉ですが、唯一戦で勝つことができなかった相手が家康なのです。

6)豪華絢爛(けんらん)な金を好んだ秀吉

天下統一を成し遂げた秀吉は、大坂(近代以降は「大阪」と表記)を本拠地と定め、日本の政治・経済の中心地としました。その象徴となったのが大坂城です。

大坂城は石山本願寺の跡地に、天正11年(1583年)より築城が開始された巨大で豪華絢爛な城です。初代の天守閣は金箔押しの屋根瓦で飾られ、天下人・秀吉の栄華の象徴でした。

秀吉の趣味は、茶の湯、能、鷹(たか)狩りであったといわれますが、なかでも、壁がすべて金でつくられた「黄金の茶室」は有名です。そのほかに、身の回りの品にもふんだんに黄金を使用するなど、秀吉は統治者としての威厳を誇示するために金を好みました。一代で大出世を果たした秀吉らしい好みといえるでしょう。

以上(2023年4月)

pj96424
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画像:いらすとや

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