うまく機能する組織、成員が幸せになる組織とはどのようなものか。この難問の答えを、まったく正反対の立場にある『論語』と『韓非子』を読み解きながら、守屋淳が導き出していくシリーズです。
1 信賞必罰の抱える構造的な問題
中国の西安に観光旅行に行かれた方は、おそらく兵馬俑(へいばよう)をご覧になったと思いますが、あのような壮大な遺跡を残したのが秦の始皇帝でした。
彼は約550年間続いた戦乱――日本でいえば、室町時代から今の今まで戦乱が続いていた計算になる――を紀元前221年に収束させ、中国を統一した偉大な人物でした。そして、この統一の力になったのが『韓非子』に象徴される法家を下敷きにした体制だといわれています。
ところが、この秦はたったの15年で滅んでしまうのです。その原因の一つとなったのも、やはり法家の体制だったといわれています。
どういうことなのか。ここには法治の抱える根源的な問題が関わっています。次の一節に端的なように、『韓非子』では信賞必罰によって組織をまとめ、また成果の出せる組織を作ろうとしました。
- 明主の導(よ)りてその臣を制する所の者は、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑徳なり。何をか刑徳と謂(い)う。曰く、殺戮これを刑と謂い、慶賞これを徳と謂う。人臣たる者は、誅罰を畏(おそ)れて慶賞を利とす。故に人主、自らその刑徳を用うれば、則ち群臣その威を畏れてその利に帰す。故に世の姦臣(かんしん)は然らず。悪(にく)む所は則ち能くこれをその主に得てこれを罪し、愛する所は則ち能くこれをその主に得てこれを賞す(名君は、二本の操縦かんによって臣下を統制する。二本の操縦かんとは刑と徳のことだ。では、刑と徳とは何か。殺戮を刑といい、賞を徳という。部下というのは罰を恐れ賞を喜ぶのが常である。だからトップが罰と賞との二つの権限を握っていれば、震えあがらせたり、手懐けたりして、意のままに操ることができる。腹黒い部下は、そこにつけこんでくる。気に入らない相手は、トップになり代わって自分が罰し、気に入った相手には、やはりトップになり代わって自分で賞を与える)『韓非子』
この賞と罰のうち、問題になるのは賞の方なのです。賞にはある構造的問題が内包されています。それは、
「賞を供給し続けるためには原資が必要になる」
ということなのです。
当時、賞の主なるものは土地でした。秦が他国を制圧していったとき、当然、破った敵の土地が手に入るわけですから、それは潤沢にありました。しかし、中国を統一してしまうと新たな土地は手に入りません。しかも、平和になって人口が増えると、よい土地もあらかた払底してしまい賞の原資がなくなってしまうのです。
するとどうなるのか。このシステムは罰の片肺飛行にならざるを得なくなってしまいます。頑張っても恩賞はもらえないのに、ちょっと問題を起こせば厳しい刑罰にさらされてしまう――当然、庶民のなかには「やってられない」という気持ちが蓄積し、それが反乱の頻発という形で噴出、秦王朝は瓦解してしまいました。筆者はこの指摘を、東洋史の師匠である藤高裕久先生に教わったのですが、実は歴史上このパターンは繰り返されてもいるのです。
2 なぜ「成果主義」は失敗したのか
日本で1990年代に「成果主義」が導入された際、先鞭をつけた企業では大混乱が起こり、人事課にいた人から告発本まで出る騒ぎになったことは周知の通りです。
前に「成果主義」と『韓非子』はかなり似ているという点に触れましたが、その問題点の噴出という点でも両者はかなりそっくりなところがあります。
そもそも「成果主義」が取り入れられたのは、バブル崩壊後の日本が不景気の真っ最中。当然、利益の伸びは期待できないような状況でした。つまり、社員が「自分は頑張った」「何とか成果を出した」と思っても、その気持ちに応えられる原資がないまま――そもそも人件費カットのための導入だったという説もありますが――導入されてしまったわけです。
こうなると、「やってられない」という気持ちが鬱積(うっせき)して、まさしく秦王朝の崩壊と同じ形で企業はガタガタになっていきました。
実は、同じような問題に直面して、うまく回避したという歴史的な事例もあります。それが、中国でいえば漢王朝、日本でいえば江戸幕府なのです。
秦王朝が倒れた後、司馬遼太郎さんの小説『項羽と劉邦』で知られる項羽と劉邦が覇権を争い、劉邦が漢王朝を開きます。
この漢王朝も、最初のうちは人口が少なく、潤沢に土地もあったのですが、やがて人口も増えて恩賞の土地は払底していきます。しかしこのとき、王朝側があまり人民を使役しなかったこともあり、民衆は比較的豊かな生活が続けられました。ところが武帝の時代となり、匈奴(きょうど)と呼ばれた遊牧民との戦争に手を染めたあたりから、国庫も枯渇し、民衆も疲弊していきます。
これでは秦王朝の二の舞になりかねない――こうした危機感もあって、重視されるようになったのが『論語』を淵源とする儒教だったといわれています。つまり、
「人は利益ばかり追求するのはみっともない。義(公益)や人の道に生きてこそ、格好いいのだ」
といった価値観を入れることによって、この問題を救おうとしたと解釈できるのです。『論語』でいえば、次の言葉にそれは端的です。
- 君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(行動に際して、義(公益)を優先させるのが立派な人間、利を優先させるのはつまらない人間である)『論語』
この施策が比較的うまくいき、漢王朝は、一時の中断をはさんで約400年間という長命な王朝となりました。いわば、賞の原資の払底を、生き方の価値観の問題にすり替えて、うまく乗り切った形なのです。
そして、この経緯をなぞったような形となったのが江戸幕府でもありました。
3 賞の原資の払底をどう乗り越えるか
日本の戦国時代、完全に統一を果たしたのは豊臣秀吉でしたが、彼は文禄・慶長の役を起こします。その意図は壮大で、中国の明王朝を攻め滅ぼした後、インドにまで攻め上ろうというものでした。
なぜ彼はこんなことを企てたのか。一つの理由に恩賞となる国内の土地が払底してしまったことがあるといわれています。要は無理にでもパイを広げることにより、賞の原資を獲得しようとしたわけです。しかし、これは失敗に終わりました。
そして彼の覇業を引き継ぐことになった徳川家康は考えます。賞の原資は非常に得にくい時代になってしまった。さてどうするか――そこで、江戸幕府でも儒教が導入され、官学となっていくのです。ちょうど五代将軍綱吉の頃にこの動きが完成しますが、そこでは武士の位置づけも次のように変わったといわれています。
《私の名利ではなく、普遍的な人の道の実現者として武士を位置づけようとする思想が、いわゆる(儒教的)士道論である》『武士道の逆襲』菅野覚明 講談社
名利とは、名誉と利益のこと。そもそも戦国時代の武士というのは、
「自分の利益を念頭に動いていた戦闘者」
に他なりませんでした。しかし、利益の原資はきわめて得にくい時代になってしまった。ならば武士の位置づけを変えて、
「公益や人の道のために尽くす為政者」
に転換してしまえと考えたのです。現在われわれは、「武士道」と聞くと、「ずるい策略を使っても敵に勝って、自分の利益をはかるための道」とは基本的に考えません。やはり「気高い義や人の道に生きるための指針」といったイメージになるわけです。こうしたイメージはこの時点から出来上がっていったのです。
ちなみに、似たような動きは商家でも起こりました。綱吉の治世であった元禄時代といえば、暴風雨の中、海路でみかんを江戸に運んだという伝説のある紀伊国屋文左衛門に端的なように、一発勝負で大儲けといった商売も盛んでした。しかし、そういった豪商の多くは一代で身上(しんしょう)をつぶしてしまったともいわれています。
そして、この後の時代から商家では「家訓」が作られるようになります。そこに書かれている内容は、一言でいえば「道徳と信用を重んじて、末永い商売を目指しなさい」ということなのです。
つまり、当時の日本は管理貿易をしていたこともあり、市場のパイの広がりが期待できませんでした。ならば、信用をもとに商売を末永く続けることに意味を見出していこう――そんな方向に舵を切ったと見なせるわけです。
パイが広がりにくい時代、どのような価値観で処していくのかという問題は、法治と徳治の円環として歴史的には処理されてきたのです。(続)
以上
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