「およそ家臣ほど油断のならぬ者はなし。親子兄弟の間にても偽り多し。或ひは利に迷ふことあり。然るに、家人は血を分けたるにもあらず、ただ恩義に感じ、又は勢に恐れて下知に随(したが)ひ、命をもくれることあれば、よく心を用ひ察すべきことなり」(*)
出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)
冒頭の言葉は、
- 「部下の考えを知ろうとすることが重要である」
ということを表しています。
多数いる戦国武将の中でも、高い人気を誇る幸村。それは忠義に厚い、悲劇のヒーローというイメージがあるからかもしれません。
弱小大名だった真田家は、幸村の父である昌幸(まさゆき)の活躍によって、一目置かれるようになりました。昌幸は、生涯同じ主の下に仕えたわけではなく、武田を筆頭に北条・上杉・豊臣・徳川などの強豪の中で、時勢を読み、自らに有利な主に仕えることを選びました。こうした昌幸の政略は、幸村の思想や生き方にも影響を与えていたと考えられます。
幸村は若い頃から人質として、上杉や豊臣などの元に送られており、身の上が安定しない生活を送っていました。忠義に厚かったとのイメージが定着している幸村ですが、こうした生い立ちや“ドライ”とも取れる冒頭の言葉を考えると、ひたむきに主(豊臣家)のために尽くそうと思っていたわけではないのかもしれません。
幸村は主(豊臣家)という存在に忠誠を誓っていたのではなく、自らの信念に対して忠実な人だったのではないでしょうか。大坂冬の陣では、徳川家康は強敵である幸村を調略しようと、信濃一国を与えるので、徳川方に付くようにと勧誘します。しかし、それに対して幸村は、「父である昌幸が家康に立ち向かう志を持っていたことや、不遇をかこつ自分を一軍の将に取り立ててくれた豊臣に報いるため」として、次のように答えて断ったとされます。
「一旦の約の重きことを存じて較ぶれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分賜はるとも瓢(ひるがえ)し難し」(*)
幸村は自分の能力が生かせる戦場において、活躍の場を与えてくれたという点で、豊臣方に付いたのでしょう。
部下としての幸村、一軍の将(リーダー)としての幸村、それぞれの立場の生き方から、現代のリーダーは2つのことを学ぶことができます。
1つは、幸村のような才能ある人材を用いるためには、活躍の場を与えることが欠かせないということです。
もう1つは、リーダーには強い信念が欠かせないということです。幸村が現代でも人気を誇るのは、信念を貫き通した幸村に対して憧れる人が多いからでしょう。裏を返せば、それだけ多くの人が自分の信念を貫くことや、信念を持つことに対して難しさを感じているのかもしれません。だからこそ、強い信念を持っているリーダーの存在は、メンバーを引き寄せます。
しかし、常にリーダーの信念に共感し、フォローするメンバーばかりではありません。リーダーが信念に従って、既存事業を大きく変化させたり、前例の無い新しい事業に挑戦したりすることがあれば、反発するメンバーや、離脱するメンバーが出てくることもあります。たとえメンバーの離反を招いたとしても、決断に対して責任を取るのはリーダーであり、リーダーは自らの信念を貫くことに対して遠慮は不要です。
とはいえ、離反するメンバーを放っておけば、リーダーの信念に共感しているメンバーたちにもマイナスの影響を与える恐れがあり、組織全体の結束が乱れることにもつながりかねません。リーダーには、離反するメンバーの存在を認識し、そうしたメンバーの考えを知ることで、組織にマイナスの影響が及ばないように、うまくコントロールしていくことが求められるのです。
【本文脚注】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。
【経歴】
さなだゆきむら(本名:真田信繁(さなだのぶしげ))(1567〜1615)。出生地不明(出生年や出生地には諸説あります)。大坂冬の陣、夏の陣にて徳川家康(とくがわいえやす)を大いに悩ませ、その活躍ぶりから日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と評された。
【参考文献】
(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
「産経新聞 東京朝刊(2000年10月3日・4日・5日付)」(産経新聞社、2000年10月)
「真田宝物館ウェブサイト」(長野市教育委員会 松代文化施設等管理事務所)
以上(2016年1月)
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画像:Josiah_S-shutterstock