かつてナポレオン・ヒルは、偉大な多くの成功者たちにインタビューすることで、成功哲学を築き、世の中に広められました。私Johnも、経営者やイノベーター支援者などとの対談を通じて、ビジョンや戦略、成功だけではなく、失敗から再チャレンジに挑んだマインドを聞き出し、「イノベーション哲学」を体系化し、皆さまのお役に立ちたいと思います。

第16回に登場していただきましたのは、欧州において高い信頼性と生産性を誇る国際イノベーション都市・ルクセンブルクと日本の架け橋を担う、ルクセンブルク貿易投資事務所 エクゼクティブ・ディレクタター 松野百合子氏(以下インタビューでは「松野」)です。

前後編に分けてお送りします。今回は前編として、ルクセンブルクという国の特性と、松野さんのキャリアについて伺いました。

1 「ルクセンブルク貿易投資事務所は、貿易と投資誘致の全てを管轄する部門です。大使館の中に位置しながらも半ば独立した、特殊な立ち位置にいる部門と言えます」(松野)

John

本日は、大変お忙しいところを本当に愛りがとう(愛+ありがとう)ございます! 今日は1人あたりのGDP(国内総生産)世界第1位、欧州の中でも重要なイノベーションハブの1つであるルクセンブルクのお話をお伺いできることを非常に楽しみにしております。

早速ですが、松野さんがいらっしゃるルクセンブルク貿易投資事務所は、ルクセンブルク大使館の中の1部門と伺っております。
具体的にどういったセクションなのか、ご説明いただいてもよろしいですか?

松野

ルクセンブルク貿易投資事務所は、貿易と投資誘致の全てを管轄する部門です。大使館の中に位置しながらも半ば独立した、特殊な立ち位置にいる部門と言えます。

もともとは、「貿易は外務省、投資誘致は経済省」と違う管轄だったのが、政府内の調整により経済省傘下にまとめられたような形ですね。

具体的な役割としては、経済省の政策目標に従い、日本企業に接触して投資を誘致したり、ルクセンブルク企業が日本に進出するのを助けたりしています。大使館では、ルクセンブルクの経済的な利害に関わる部分を担当する部署として、大使をサポートするような仕事をしています。

部門の立ち位置が少しわかりにくいかと思いますが、よく私が例に挙げているのは、JETRO(日本貿易振興機構)。
外務省の海外ネットワークの要として大使館・領事館がありながらも、経済省の海外ネットワークの要という位置づけで、JETROが存在していますよね。

ルクセンブルク貿易投資事務所はJETROほど独立性の高い組織ではないものの、大使館の中に一部JETROのような機能を持つ部門があると考えていただくとわかりやすいかと思います。

John

なるほど。経済的な領域を任されつつ、あくまで大使館の一部ということなのですね。

松野

そうです。大使は、経済利害も代表する存在ですので、私たちとは一心同体。

経済プロモーションのレセプションやセミナーを大使館で行う際には、大使が挨拶やホストをしてくださいますし、企業へ表敬訪問していただくこともありますね。

John

一度、私もルクセンブルク大使館にお邪魔したことがありますが、すごく広々として雰囲気が良く、明るいオフィスですよね。

私の中では、大使館というのはもっと緊張感があって入りにくいイメージがあったのですが。

松野

ありがとうございます。
ルクセンブルク大使館の建設にあたっては、建築家の方と、デザインについて何度も話し合いました。

大使館という建物は、外交的な友好親善の目的を持ちながらも、安全性・セキュリティを担保せねばならず、建築物としてのコンセプトづくりは非常に難しいのです。

友好親善のための建物とするのか、安全性・セキュリティを追求するのか、どちらかを選択をしなくてはいけないと言えるかもしれません。

幸い、ルクセンブルクは外交的な問題を抱えておらず、どこの国とも軋轢のない国。そして日本という安全な国で使用する大使館ということで、「友好親善」を目的においています。

訪れる方に気持ちよく来てもらおう」というコンセプトの建築に振り切ることができたのです。私たちスタッフも、そういう気持ちで働いています。

John

訪問した私たちにもその気持ちはすごく伝わっていましたよ!

2 「ルクセンブルクの国民性として、全体的なコンセプトを見直して、そこから現実的に施策を考えていくのが得意だと感じます」(松野)

John

ルクセンブルクに行くと、大使館以外にも、オープンなメンタリティを感じます。例えば、公共バスがすべて無料で利用できるというのには非常におどろきました。

あれは、街に来てもらうことで経済的に活性化させよう、という意図での施策なのですか?

松野

そうですね。Johnさんがおっしゃるような消費促進というのもありますし、CO2削減と渋滞緩和のため、自家用車の通勤を減らすというのも、もう1つの大きな目的です。

現在、ルクセンブルクでは、全国の公共交通機関は全て無料ですが、消費促進を目的とした週末限定のバス無償化というのは以前から実験的に行なっていたのです。

そこから、「これは渋滞緩和やCO2削減にもつながるのではないか」という仮説の元、さまざまなシミュレーションが重ねられました。

あらゆる角度から検討した結果、「運賃収入がなくなることは大きな問題ではない」ということが結論づけられたのです。

運賃収入のロスは、バス内の広告収入、政府からの助成金などでカバーできてしまう。であれば、渋滞の緩和になり、環境不可を削減できる無償化を実現しましょう、となりました。

最終的に、政府の閣僚会議で公共交通機関の無償化をもっとも強く推したのはルクセンブルク政府の財務大臣だったというのも、おもしろいエピソードです。


(画像:Luxtram LFT)

John

財務大臣が、国の財源の1つである公共交通機関の運賃無償化に賛成するというのは非常におもしろいですね。

松野

その背景には、周辺国からの通勤労働者の問題があります。

ルクセンブルクには周辺の3つの国から19万人もの労働者が通勤しています。その方々の納税、社会保障、さまざまな手当てのことを、常に周辺国と調整する必要があるのです。

財務省としては、公共交通機関の無償化により、周辺国からの通勤労働者が通いやすくなることは、バスの運賃よりもメリットがあるのです。

大使館の話もそうですが、ルクセンブルクの国民性として、全体的なコンセプトを見直して、そこから現実的に施策を考えていくのが得意だと感じます。

John

非常に興味深いですし、日本との国民性の違いを感じるエピソードです!

松野

フランスやドイツといった強国にはさまれた立地から、そうした考え方、調整力やバランス感覚が養われたのかもしれませんね。


(画像:LFT_JonathanGodin)

3 「世の中にPR・広報という仕事があるというのをその時初めて知ったくらいでしたが、仕事は非常におもしろかったです」(松野)

John

ルクセンブルクという国について、よくわかりました。続いて、松野さんのことを教えてください。

どのような大学時代を過ごされていたのですか?

松野

立教大学の英米文学科出身です。文学が好き、自分で文章を書くのが好きで、大学には論文入試で入学しました。

当時、私は文学の中でも、特に米国のマイノリティ文学に興味がありました。社会的な圧力を感じている方々が、どのような文学表現をするのかということに興味があったのです。

米国文学を研究する著名な教授のゼミに入ることができたので、ますます米国文学の研究にのめり込みました。

学外では大手通信会社の国際電話の交換のアルバイトをしていました。米国軍基地などと、プロとして英語で電話をつなぐ場面もありましたので、後から考えるとこのアルバイトは、かなり英語のトレーニングになっていたかと思います。

そして、アルバイトでお金を貯めてはバックパッカーとして海外旅行へ行く。そんな学生生活でしたね。

John

すばらしい行動力です。その頃のご活動が現在の礎になっているのですね。
どのような国へ行かれたのですか?

松野

米国のマイノリティ文化に興味があったので、初めて旅行したのは米国のニューオーリンズでした。

その後もボストンやニューヨークなどにも1人で旅行しましたし、アジアではタイやシンガポール、ヨーロッパにも行きましたね。

今も旅行は趣味で、先日はミャンマーを旅行してきました。

John

素敵です! ぜひミャンマーのお話、今度ぜひ詳しく聞かせてください。

大学生活を満喫しながら、キャリアについてはどのように考えてらっしゃったのですか?

松野

物を書きたいという気持ちはありましたので、出版社を目指していました。

当時はバブルの頃。出版業界はとても狭き門で、何社か受けたのですがどこも受からなくて……。

そんな中、ある外資系のPR会社が初めて新卒採用をするということを知り、受けてみたのです。「プレスリリースを書くことも、文章を書く仕事だな」という考えからでした。

結果は内定。世の中にPR・広報という仕事があるというのをその時初めて知ったくらいでしたが、仕事は非常におもしろかったです。

コーポレートPRも担当していたので、企業の経営層の方々などと直接お話をする機会も多く、とても勉強になりました。さまざまな業種のクライアントがいらっしゃいますので、いろいろな業界のことを調べたり、勉強したりすることも楽しかったです。

しかし、当時はバブルで、毎日終電まで仕事をしても、まだ山のように仕事がある時代。2年半ほどそんな生活を続けていく中で、体力的にも限界を感じはじめてしまいました。

また、エージェント側にいるうちに「クライアントサイドに行ってみたい」という気持ちが湧いてきました。

そこで、次のキャリアを考えるようになりました。

4 「営業のコミュニケーションツールを作るための広報、企業イメージ向上のための広報。それらを切り分けるのではなく一気通貫で『マーケティングコミュニケーション』とすることが、私に期待されていると感じました。」(松野)

John

次に入られたのは、どのような会社だったのですか?

松野

米国とドイツに本社をもつ、分析機器メーカーの日本支社で、マーケティングコミュニケーションの責任者を探しているというお話を伺い、そちらに転職しました。

扱っていた商品は、分子の重さをはかる質量分析機器などの機械で、クライアントは製薬会社や原子力発電所、大学の研究所などでした。

マーケティングマネージャーとしての仕事内容は、日本における新製品のマーケティング戦略策定、展示会出展などのプロモーション活動、パンフレットや営業支援ツールの作成などですね。

あとは本社への視察ツアーをアレンジし、主要顧客である研究所の先生たちをご招待するような仕事もありました。周年行事をプロデュースさせて頂いたのも良い経験でした。

そこではいろいろ勉強させてもらいましたね。マーケティングマネージャーという立場でしたので、経営会議にも参加させてもらっていました。

John

それまでのキャリアと異なり、理系の世界だったかと思いますが、どのように対応されていたのですか?

松野

社長の理解とサポート、そして私自身のエージェントで培った経験が大きかったように思います。

日本支社の社長は理系で工学博士を取得されていた方。社員の教育に熱心で、私の製品理解向上のために、社費で物理のチューターをつけてくれて、物理の基礎から勉強させてくれました。

また、私自身がエージェント出身で、常にクライアントの中でプレゼンテーションをしてきた経験も活きていました。

経営会議の場でも、マーケティングコミュニケーションのプロフェッショナルとして、「どういう考えに基づいた戦略で、具体的にどのような作業を行い、会社にどう役に立つのか」を論理的に説明しようと心がけました。

社長のサポートと、自分のエージェントとしての経験。その2つがあったからこそ、自分よりも業界経験が長い方などに対しても、臆さず話をすることができたのだと思います。

John

環境にも恵まれていたのですね。
当時から「マーケティングコミュニケーション」という考え方があった会社、という点も興味深いです。

松野

本社が米国のサンノゼにあり、マーケティングコミュニケーション部門もありましたので、日本支社にも立ち上げようという発想だったのだと思います。

「何となく広報」では意味がなく、マーケティングコミュニケーションという考え方を体現することが私のミッションでした。

いわゆる広告やマーケティングの仕事と、営業のコミュニケーションツールを作るための広報、企業イメージ向上のための広報、それらを切り分けるのではなく一気通貫で「マーケティングコミュニケーション」として実施することが、私に期待されていると感じました。

John

すごいですね。その役割を見事に果たされ、その後のキャリアについてはどのように考えていかれたのですか?

松野

その会社での仕事は楽しかったのですが、製品理解にはどうしても壁を感じてしまいました。

自社製品のどういったところがすごいのか、それを使う研究所の先生たちにとってどのようなメリットのある製品なのか、どうしても共感しきれなかったのです。

そのような状況で、自分からアイデアを出すことが難しく、言われたことをやるマーケティングとなっている気がして、退職を決意しました。

「一度休んで考えてみよう」と思い、会社を辞めてからは自分の好きなことや興味があることに没頭してみたのです。ワインが好きだったので、ソムリエ学校に通ってワインの勉強をしてみた時期もありました。

その期間を経て、「やはり私はPRの仕事をしたい」という気持ちに気がつき、個人で名刺を持ち、知り合いのプレスリリースを書いたり、外国語FMの開局に伴うお仕事をお手伝いしたりしていました。

その頃、米国留学時代の先輩が声をかけてくださり、ルクセンブルク大使館のお仕事をご紹介いただいたのです。

当初は3カ月間限定の欠員補充というお約束でしたが、大使の意向もあり、正式なオファーをいただいて就職することとなりました。

私としても、ルクセンブルクへの興味がかなり高まっていましたし、「この仕事なら、根源的に理解し、自らアイデアを出して、今までのスキルも活かして働ける」と思えたので、オファーをお受けすることにしました。

また、当時私は結婚したばかりで、子どもが生まれそうな時期だったこともあり、ワークライフバランスに理解がある環境だったことも、後押しになりました。

5 「『最低2週間は休まないとリフレッシュなんてできない。君たちはバカンスのために働いているのではないのか?』と、大使が真剣な表情でおっしゃるのです」(松野)

John

いろいろなタイミングが重なって、ルクセンブルク大使館へ就職されたということですね! 人生何があるかわからないものです。

やはり欧州では、大使館であっても、ワークライフバランスを重視されるのですか?

松野

そうですね。ワークライフバランスというよりも「ライフワークバランス」と表現されるくらい。

わかりやすいエピソードとして、私が正式に大使館で働きはじめた頃、当時の大使から「君たち、夏休みはいつ取得するの?」と3月に聞かれたことがありました。

私が「主人の夏休みがお盆の1週間だと思うので、それに合わせます」と答えると、「1週間なんてバカンスとは言わないよ!」と返されました。

「最低2週間は休まないと、人間はリフレッシュできない。君たちはバカンスのために働いているのではないのか?」と、大使が真剣な表情でおっしゃるのです。

「でも……」と私がしぶると、最後には「お願いだから僕のために2週間休んでくれ!」と言われてしまいました(笑)。

彼らからすると、日本人が休みの取得を遠慮したり、会社や仕事のことで悩んで体を壊してしまったりすることは、本当に理解に苦しむようです。そのくらい、文化が違うのです。

John

それは日本人の感覚とは大いに異なりますね。
ルクセンブルクの企業はどこも同じような感覚なのでしょうか。

そんな文化の中、長年にわたりGDP世界第1位を保っているのだとしたら、すごいことですよね。

松野

そうですね、ルクセンブルクの労働環境は民間企業でも非常に恵まれています。

ルクセンブルクは金融センターを持ち、投資効率の良いビジネスを確立できている分、その利益を働く人々への福利厚生として還元することができているという背景があります。

とはいっても、適正値というものはあると私は思います。

昨今では、子どもの病気による休暇も有給として認められたり、献血休暇が認められたりするなど、福利厚生がさらに充実してきているのです。

働く人を大切にする姿勢と、国としての競争力をどう保つか、そのバランスをいかに取るかが今後の課題になってくると予想しています。

John

確かに、それは今後の課題と言えそうですね。

松野さんのお話から、ルクセンブルクという国への理解が深まりました。愛りがとうございます!

(画像:LFT_JonathanGodin)

  • 松野氏との対談はまだまだ続きます!
    この続きは「後編」をご確認ください!

以上

※上記内容は、本文中に特別な断りがない限り、2020年11月27日時点のものであり、将来変更される可能性があります。

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