書いてあること

  • 主な読者:現在・将来の自社のビジネスガバナンスを考えるためのヒントがほしい経営者
  • 課題:変化が激しい時代であり、既存のガバナンス論を学ぶだけでは、不十分
  • 解決策:古代ローマ史を時系列で追い、その長い歴史との対話を通じて、現代に生かせるヒントを学ぶ

1 負けに不思議の負けなし

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

この言葉は、元プロ野球監督の野村克也氏の語録として有名ですが、もともとは、大名ながら剣術の達人でもあった松浦静山(まつらせいざん)が記した剣術書「剣談」から引用された言葉だそうです。

勝負事に運はつきものなので、実力が劣っていても、失敗があっても、偶然、有利に事が運び、勝ちという結果になることがあります。そのため、たとえ勝ったとしても、偶然の要素が入り込んでいることを踏まえ、謙虚になるべきということを示しています。

一方、負けという結果に対しては、必ず原因があり、そこを追究すべきであって、運が悪かったとか、相手のまぐれがあったとか、そういった偶然の要素を言い訳にして片付けてはならない、ということを示しています。

2 国家や企業も同じ

これは国家や企業、個人においても同じです。順調なときには、つい自分たちの実力と過信しがちですが、偶然の要素がたまたまいい方向に働いた部分を踏まえなければなりません。

一方、状況が振るわないときには、偶然の要素に理由を求めがちです。つまり、言い訳ということですが、これでは次に繋がりません。原因と結果を整然とした論理の流れで理解することが大切です。

歴史を眺めてみると、「栄枯盛衰」「盛者必衰」という言葉が当てはまる場面がいくつも出てきます。繁栄した国家や社会には、偶然の要素がありつつも、やはりそこには繁栄した原因や理由があります。繁栄した国家がその後衰退していくことにも、やはり原因や理由があります。それらをよくよく見てみると、歴史上、繁栄期と見られている時代よりも前に繁栄した原因や理由があります。

また、歴史上、繁栄期と見られている時代にその後衰退する原因や理由があったりもします。企業活動も同じで、繁栄期に在任していた経営者はそのときは世間からも評価されるのですが、実はその頃の打ち手が原因で、その経営者が退いた後に、じわじわと衰退していき、後年になって評価が分かれるといったことがよくあります。

前回ご紹介したとおり、ローマ史においては、「五賢帝時代」と呼ばれる最盛期がありました。しかし、ここを頂点にして、その後は紆余曲折ありながらも、大きく見れば衰退の一途をたどるわけですから、この五賢帝時代に、その後の衰退の原因や理由、あるいは端緒となる事象があったのではないでしょうか。そういった観点で、五賢帝の5人目にあたるマルクス・アウレリウス・アントニヌスを見ていきたいと思います。

3 マルクス・アウレリウスの苦難

マルクス・アウレリウス即位の背景は、五賢帝の3人目にあたる皇帝ハドリアヌスから始まります。ハドリアヌスは前回もご紹介しましたが、「転換」「改革」という言葉が連想されるような皇帝で、防衛システムの再整備から官僚制度の確立、法制度の整備など、なすべきことを確実に遂行し、多くの功績を残しました。

こうした徹底した取り組み方は、皇位継承についても表れており、マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスを養子に向けることを条件に、アントニヌス・ピウスを後継者として指名しています。つまり、ハドリアヌスからすると、皇位継承の本命は、マルクス・アウレリウスであって、アントニヌス・ピウスは、中継ぎに過ぎませんでした。

五賢帝の4人目に数えられるアントニヌス・ピウスは、新しいことはせず、先帝の政策方針を継承し、安定的な運営をおこないました。私のイメージでは、「静観」「定着」という言葉を連想する皇帝です。血なまぐさい事件や戦争など、何一つ問題が起こらなかったということを考えると、この時代にアントニヌス・ピウスのような施政は適していたのでしょう。

しかし、こうしたことが後々に大きな影響を与えてしまったのかもしれません。

ハドリアヌスは、当時の帝国において危機意識を抱いていたからこそ、様々な改革を推し進め、長期の視察巡行の旅に出て、防衛線の鉄壁化を図りました。しかし、アントニヌス・ピウスは、23年間という長い治世の中で、新しいことはせず、視察巡行で属州を訪れることもありませんでした。

なお、こうしたことから、養子となったマルクス・アウレリウスも属州を訪れる機会は与えられていません。このように見ると、政策方針は継承されたように見えるものの、ハドリアヌスが抱いた危機意識はアントニヌス・ピウスに継承されておらず、23年という間、当然、状況は変化している中で、なすべきことがなされていなかったのではないか、と考えることもできます。

というのも、アントニヌス・ピウスが亡くなり、マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスが共同皇帝として帝位に就くと、あらゆる難題が勃発するのです。テヴェレ河が大氾濫し、農作物の損失から飢饉が発生、それらが解決せぬまま、東方でパルティア戦争が始まります。マルクス・アウレリウスは、政務に関する経験は豊富でしたが、軍事的な知識や才覚に乏しく、先ほども触れたとおり、国境地帯の属州に訪れたこともありませんでした。そのため、パルティア戦争では後手に回り、状況は一時悪化の一途をたどっていましたが、カイウス・アウィディウス・カッシウスの活躍により、終結を迎えることができました。しかし、その後も蛮族の侵入や暴動など、国難に見舞われ続けます。そして、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、マルコマンニ戦争の最中、前線基地で病没しました。19年の治世でした。

4 失敗から学ぶ教材として

一般には、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの息子コモドゥスが帝位に就き、その無能さが帝国衰退の原因であり、始まりであると言われています。しかし、ハドリアヌスからの流れを見ていると、五賢帝時代にはすでに、ほころびが生じていることを垣間見ることができます。

ハドリアヌスは、もっと自身が抱く危機意識を共有すべきだったのではないか。アントニヌス・ピウスは、視察巡行を引き続きおこない、もっと新しい施策を打ち出すべきだったのではないか。

こうしたことは、今となってはいろいろと言うことができます。しかし、そういった論評よりも、何故そうしなかったのか、何故そうできなかったのか、何故そうならなかったのか、ということを考え、想像してみることのほうが私たちには役に立つでしょう。

ビジネス書では、成功事例やそこから整理された理論などが紹介されていますが、失敗事例をもとにしたものはあまり多くありません。失敗事例のほうが数は圧倒的に多いわけですが、それを紐とくための情報を当事者は言いたがりませんし、出てきません。出てきたとしても断片的かつ“脚色”が施されたもので、第三者が原因と結果を整然とした論理の流れで整理するには、十分ではありません。

しかし、歴史については、多くの学者が様々な観点から、失敗、敗北、衰退、滅亡の原因を研究し、整然とした論理の流れを提示してくれています。歴史は、後の世の治世者が都合良く書き換え、利用していることなどもあるため、真実からはほど遠いかもしれませんが、私たちが人間社会での失敗を学ぶ上では、実によい教材なのです。

ローマ帝国はこの後、混乱と迷走に陥り、衰退していきます。歯止めを掛けようと苦心し努力した皇帝ももちろんいますし、一時的に回復したかのような時期もあります。しかし、大きな流れは変わらず、滅亡に向けて進んでいきます。歴史物語としておもしろくないと思われるかもしれませんが、実に人間臭く、我が事に置き換えやすいですし、不思議の負けがないこともよくわかります。そんなふうに、ローマ史を眺めてもらえると、より身近に感じてもらえると思います。

以上(2021年11月)
(執筆 辻大志)

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画像:unsplash

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