「今夜は何事を言ひたりとも、重ねて意趣に残すべからず。又他言すべからず。勿論当座に腹を立つべからず。思ひ寄りたることを、必ず控え間敷(まじく)」(*)

出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)

冒頭の言葉は、

  • 「部下の“異見”こそがリーダーを成長させる」

ということを表しています。

知略に長け、人心掌握に優れていたとされる父親の官兵衛に比べると、長政は家臣との接し方に不器用なところがあったようです。

中でも、長政と折り合いの悪かった家臣が、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ。通称「又兵衛」)です。幼い頃、長政と又兵衛は兄弟同然に育ち、あるときまでは強い信頼関係で結ばれていましたが、2人は次第に対立するようになってしまいます。2人がいがみ合っていたエピソードには、次のようなものがあります。

朝鮮出兵の際、黒田家の陣営に大きな虎が現れ、大騒ぎになりました。又兵衛は怖気づく他の家臣を横目に、その虎を退治します。事の顛末(てんまつ)を見守っていた長政は、大勢の前で、「大将として、多くの者に手本を示す立場にもかかわらず、猛獣と勇を争うとは大人げない」と又兵衛を叱責したといわれています。

一方、又兵衛も、長政に黙って従っていたわけではありませんでした。又兵衛は、戦場において、敵将と組み合って川に落ちた長政を助けようとせず、ようやく相手を倒して岸に上がってきた長政に対して、「我らの主君は武勇に優れる人であるため、敵に引けを取るようなことはない。手出しは無用」と言い放ちました。一説には、このときのことを長政は深く恨んでおり、2人の対立は決定的なものとなったとされます。

官兵衛の死後、ついに又兵衛は黒田家を出奔します。そして、大坂の役が勃発すると、又兵衛は豊臣(とよとみ)方に加わり、家康についた長政とは敵同士として、戦うことになったのです。又兵衛は猛将の名に恥じぬ活躍を見せますが豊臣方は敗れ、又兵衛も戦場にて亡くなりました。一方、長政は太平の世で福岡藩発展の礎を築き、その名を後世に残しています。

又兵衛との仲たがいのように、時に家臣とぶつかることがあった長政ですが、家臣への接し方について、次のような言葉を残しています。

「大将は、わが家人をよく見知らざれば、わが家人によき者あれども用ゐず、かえって他所より浪人などを大祿を与へて招き寄することもあり。これまた、よき者ならば苦しからずといへども、わが家中のよき者を差し置きて、他所より招くは愚かなり」(**)

長政は家臣の声に耳を傾けようと努めており、福岡藩の藩主となった後は、「異見会」を設けました。

異見会では、「身分の上下に関係なく誰もが平等に意見を述べることができる」などの決まりの上で活発に意見が交わされ、長政も家臣の声を藩政に生かしました。冒頭の言葉も、異見会に際して発せられたものとされます。長政は家臣との接し方に苦手意識があったからこそ、このような制度を設けたのかもしれません。

いつの時代でも、リーダーと部下の間には、その立場の違いから相互のコミュニケーションに食い違いが生じるものではないでしょうか。そうした齟齬を解消するために、リーダーは部下に歩み寄り、“異見”を含めた部下の声を聞こうと、努めていると思います。

とはいえ、リーダーが歩み寄っても、必ずしも部下はそれに応えてくれるわけではありません。リーダーとしては、あまり意欲が感じられない部下よりも、意欲の高い部下に質・量の両面で仕事を任せるほうが、組織の成長に資すると考えるでしょう。その考えは間違いではありません。

ただし、特定の部下にだけ目を掛けると、他の部下が不満を抱きます。このようなとき、自分が「この部下だ!」と信じた相手に英才教育を施しつつ、その他の部下にも特別な役割を与え、リーダーと個々の部下とのコミュニケーションのバランスを上手に取る必要があります。リーダーは、全ての部下にチャンスと役割を与えますが、その内容は必ずしも平等なものではなく、部下の能力ややる気によって差をつけます。リーダーが、良い意味で“えこひいき”することが、組織の成長には必要なことがあります。

長政の「異見会」のように全員の意見に耳を傾けるのも一つ、自分が信じた部下の言葉に重点的に耳を傾けるのも一つです。いずれの場合も、リーダーは自身のマネジメントスタイルを確立し、貫かなければなりません。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

くろだながまさ(1568〜1623)。播磨国(現兵庫県)生まれ。黒田官兵衛(くろだかんべえ)の子。徳川家康(とくがわいえやす)についた関ヶ原の合戦での活躍から、筑前国(現福岡県)を与えられ、福岡藩の初代藩主に就いた。

【参考文献】

(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
(**)「名将名君に学ぶ 上司の心得」(童門冬二、PHP研究所、2007年5月)

以上(2014年12月)

pj15188
画像:Josiah_S-shutterstock

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