目次
1 医療現場をむしばむ「目に見えない」 労務の危機
医療業界の労務管理は、今、かつてないほど困難な局面を迎えています。人手不足が常態化する中で、現場のスタッフ一人ひとりに重い負担がかかり、それがさらなる離職を招くという負の連鎖が各地で起きています。
しかし、現場で起きている本当の危機は、数字に表れる「人手不足」だけではありません。筆者は統合医療クリニックの事務局長として、現場の最前線で院長をはじめとする多くの管理者の苦悩を見てきました。どれほど情熱を持って診療に当たっていても、
「組織の綻び」という理屈では割り切れない問題により、現場は一瞬にして崩壊していく
のです。例えば、
- 看護師の突然の離職で機能不全に陥る職場
- 特定のスタッフが実権を握り、誰も意見が言えなくなる閉塞感
- いつの間にか漏れ伝わっている給与情報
などがそうです。こうした問題は、どれだけ法律や制度を学んでも、解決の糸口は見えてきません。
医療機関という場所は、専門職が集まる特殊なコミュニティーです。だからこそ、一般企業の理屈が通用しない「現場特有の力学」を理解し、先手を打つ必要があります。
この記事では、制度論や理想論は一旦脇に置き、筆者が現場で実際に直面し、格闘してきた「5つの具体的なトラブル」に焦点を当てます。それらがなぜ起きるのか、そして今日から何ができるのか。現場を動かし、スタッフを守り、そして院長自身の平穏を取り戻すための「現実的な処方箋」を提示していきます。
2 突然、「辞めます」と言われる(または言われすらしない)
1)最もダメージが大きい「辞めます問題」
医療現場の労務において、管理者が最も精神的・実務的にダメージを受けるのがこの問題です。看護師からある日突然、「辞めます」と告げられ、しかも引き継ぎ期間がほとんどないというケースは珍しくありません。
さらに深刻なのは、「辞めます」という言葉すら聞けないケースです。ある医師は、深刻な面持ちでこう話していました。
「辞めると言ってくれるだけ、まだ良心的です。突然来なくなって、電話やLINEをブロックされることも珍しくありません」
この場合、経営サイドは「本当に辞めたのか」の判断すらつかず、欠員補充の手配もできないまま、残されたスタッフに一気に負担がかかります。結果として現場は回らなくなり、空気も一気に重くなってしまいます。
2)なぜ「突然」が起きてしまうのか?
この極端な行動の背景には、看護師という職業特有の市場環境があります。慢性的な人手不足の中では転職先に困ることがないため、「多少強引な辞め方をしても次がある」という前提が成り立ってしまうのです。
ただし、ここで注意したいのは、
辞め方が突然だからといって、理由まで突然とは限らない
という点です。多くの場合、不満や違和感は、かなり前から蓄積しています。
- 忙しすぎて余裕がない
- 相談しても状況が変わらない
- 自分のしんどさが軽く扱われている
こうした思いが積み重なり、「もう説明する気力すらなくなった」状態にまで追い込まれた結果が、突然の離職という形になって現れているのです。
3)辞め方が極端にならない構造をつくろう
この問題に対して、無理な「引き止め策」を講じる必要はありません。重要なのは、
辞め方が極端にならない構造をつくること
です。
まず一つは、日常的なコミュニケーションです。業務連絡だけでなく、短時間でもいいので、「最近どう?」「無理してない?」と声をかける機会を意識的につくりましょう。不満のガス抜きを小まめに行うことで、感情の爆発を防ぎます。
もう一つ大切なのは、制度面での備えです。就業規則や労働契約書に、申し出の期限や無断欠勤が続いた場合の扱いなど、退職時のルールを明記しておきます。最低限のルールをあらかじめ決めておくことで、問題が発生した際にも「これは個人の問題ではなく、運用の話だ」と冷静に切り替え、受け止めやすくする余地が生まれます。
3 嫌なやつほど、辞めてくれない
1)真面目な人から去っていく皮肉
先日、何人かのクリニックの経営者や院長と話をする機会がありました。そのとき、彼らは口をそろえてこう言いました。
「辞めさせたい人ほど、辞めてくれない」
「雇うのは簡単だが、辞めさせるのはとんでもなく大変」
日本の労働法下では、横領や経歴詐称などよほどのことがない限り、解雇は困難です。その結果、「ハラスメントで現場の空気を悪くする」「周囲と頻繁に衝突する」「患者からクレームを受ける」といった問題職員が辞めずに、居座り続けることになります。経営者がいくら注意しても、本人は辞める気配がなく、むしろ居心地が良さそうにさえ見えるのです。
一方で、真面目で我慢強い人ほどその状況を見切り、何も言わずに去っていくという逆転現象が起きます。現場には問題職員と同調者だけが残り、組織が荒廃して管理者側が疲弊するという悪循環に陥ります。
2)雇い方の設計に原因あり
問題職員ばかりが組織に残る。この現象は、本人の性格だけの問題ではなく、多くの場合、
雇い方の設計に原因
があります。
人手不足の現場ほど、「とにかく人を入れたい」と焦り、現場に合うかどうかを見極める前に、いきなり正社員として雇ってしまう。結果、雇用関係が結ばれた後で「自分たちと合わない」と分かっても、辞めさせることができなくなってしまうのです。合わない人を抱え続けるコストは、採用を急ぐリスクよりもはるかに高くつきます。
3)「入り口」の設計変更がカギ
現場でできる最大の対策は、採用の「入り口」を変えることです。最初から正社員にせず、3~6ヵ月の有期雇用やアルバイトとして迎え、実際の働きぶりや周囲との関係性をしっかり見極める。その上で本採用を判断する。この一手間をかけるだけで、「辞めてほしい人が残り続ける」リスクは劇的に下げられます。
「嫌なやつほど辞めてくれない」と嘆く前に、
最初の一手が適切だったかを振り返る
ようにしてください。制度は現場を助けるためにあります。今日からできることを少しずつやっていくことが、結果的に医療の質と経営の両方を守る道につながるのです。
4 仕事のできる看護師に、現場を牛耳られる
1)回っているようで、実は非常に危ない状態
小さなクリニックで静かに進行しやすいのが、「仕事のできる看護師」への権力集中です。業務を把握し、判断が速く、医師の意図もくんで動ける優秀な人は、忙しい現場ほど「あの人がいなければ回らない」と高く評価されます。
ところが次第に、物事はその人を通さなければ進まなくなり、他の看護師や事務スタッフは顔色をうかがうようになります。医師ですら、無意識のうちに判断を預けてしまう。こうして、情報・判断・人間関係が1人に集中する構造が出来上がります。
周囲には、「あの人に近い人」 「そうでない人」という見えない線が引かれ、現場は少しずつ内輪化
していきます。
2)責任感の裏にある支配構造
厄介なのは、本人に悪意はなく、むしろ「責任感」や「現場を守っているつもり」であることも少なくない点です。しかし、実態は「私がいないと回らない」という前提で現場が動く支配構造です。
短期的には現場が安定しているように見えますが、水面下では他のスタッフは思考を停止させ、「どうせ言っても変わらない」 という諦めが広がっています。結果として、
不満を抱えた人ほど孤立し、静かに辞めていく
ことになります。
最終的に残るのは、その看護師に従う人だけの閉じた現場です。そのため、その看護師が欠けた瞬間に、マニュアルも引き継ぎもない現場は止まってしまいます。「優秀な人が1人で回している現場」は、実は「最ももろい現場」なのです。
3)属人化を解く 「構造の分解」が大切
対策の軸は、人をどうするかではなく、「構造をどう分解するか」にあります。その人しか把握していない業務を洗い出し、判断権限と裁量の範囲を言語化しましょう。
業務を複数人で担えるように再設計し、「その人を通さなくても進む動線」をつくる
のです。
場合によっては、仕事や権限をあえて減らす判断も必要です。本人の不満や影響力が弱まることへの抵抗は避けられませんが、それは現場全体にとっての正解とは別次元の話です。この問題は、特定の人への個人攻撃ではありません。属人化を許し、権限を曖昧にした「設計の問題」なのです。設計を変えない限り、同じ構造は何度でも生じます。
5 情報が筒抜けになっている
1)なぜ、あなたが別のスタッフの給与額を知っているの?
小規模な医療機関で頻繁に起きているのが、「給与や評価に関する情報がいつの間にか現場に広まっている」問題です。ある院長は、スタッフにこう聞かれて返答に困ったと言います。
「○○さんはボーナスが△△万円だったって聞きました。なんで私は、この金額なんですか?」
本来個別に扱うべき情報が「共有事項」となってしまっている現状・・・・・・管理者は背筋が寒くなります。情報が筒抜けの現場では、「誰がいくらもらっているか」「誰が評価されているか」「誰が院長に近いか」といった話が、公然の事実としてまかり通ってしまいます。
2)不透明な評価が生む不満
給与や評価に関する情報は、
特定の人の周囲で先に共有され、そこから波紋のように広がっていく
ことが少なくありません。結果として、スタッフの関心は人事評価そのものではなく、「人と比べてどうか」という一点に集中します。その時点で、評価制度はもはや機能していないと言わざるを得ません。
3)説明できる「評価の土台」づくりを
対策の要点は、情報を単に「秘密にする」ことではなく、人事評価制度を整えて「説明できる状態」をつくることです。ここで重要なのは、立派な制度ではありません。
「何を評価しているのか」 「なぜその評価なのか」を、管理者の一貫した言葉で説明できること。これだけで十分
です。
評価の軸が見えない現場では、「気に入られているかどうか」という曖昧な物差しが事実上の基準となり、それが情報の横流しや比較による不満を生みます。評価制度は、不満が感情論に暴走するのを防ぐための「最低限の土台」として機能させるべきなのです。
6 長時間労働がなくならない
1)時間外労働の上限規制が始まって2年たつけれど・・・・・・
2024年4月から医師にも時間外労働の上限規制が適用されましたが、「これで一気に時短が進んだ」という医療機関は決して多くありません。
実際の現場では、記録・書類業務のずれ込みや急患対応、そして「患者を断れない文化」によって、依然として長時間労働が温存されています。
2)可視化されない「見えない業務」
問題が解決されない最大の原因は、時間が取られている業務の正体が可視化されていないことです。現場では「診療=仕事」と捉えられがちですが、実際には、
- カルテの記載
- 検査結果の整理
- 説明資料の作成
- 薬剤の管理
- 予約調整・問い合わせ対応
- ミーティングやカンファレンス
など、診療を取り巻く業務が膨大に存在します。これらが「誰の」「どの時間」を奪っているのか整理されないまま、診療後の時間にしわ寄せがきているのが実情です。
3)業務の分解とITの積極活用で乗り切ろう
まず取り組むべきは、業務の分解と再配分です。具体的には、医師の業務を「診療」 「準診療」「事務」に分け、診療以外の仕事をスタッフへ振り分けたり、ツールで代用したりすることを検討します。
近年は、AI・ITを使った省力化も、現実的な選択肢になっています。例えば、
AIボイスレコーダー 「Plaud」は、録音した音声を自動で書き起こし、AIが内容を要約
してくれます。15年以上ライターをしてきた筆者の目から見てもその精度は高く、議事録作成や診療録への内容要約において確実な時短につながります。また、
資料作成が多い場合は、生成AI 「Gemini」 と、パーソナルな情報の整理に特化した「NotebookLM」の組み合わせ
が有効です。あらかじめクリニック独自の資料をNotebookLMに登録しておけば、Geminiを使って「自院に特化した説明資料」 や 「スタッフ向けの簡易マニュアル」を短時間で作成できます。こうしたツールを活用し、現場から残業を減らしていきましょう。
以上(2026年3月作成)
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画像:Gemini