15年で村内総生産額が3倍! 村内起業×SDGs×DXで若者が流入し続ける村/1400人の山村のキセキ(前)

1 16%が移住者! 若者が流入する「消滅可能性都市」

日本創成会議(注1)が2014年に指摘した、将来存続できなくなる恐れがある市町村、いわゆる「消滅可能性都市」(注2)は、1799市町村(2014年当時)のうち896市町村に上ります。

ところが、消滅可能性都市の1つとされた人口約1400人の山村が、

約15年間で村内総生産額を約3倍に増やし、若者の流入が相次いで村民の16%を移住者が占めるようになった

という事実を、皆さんは信じることができますか? そんな“奇跡”のような村が、岡山県西粟倉村(にしあわくらそん)です。村内の経済を成長させ、新たな雇用を生み出し、若者の流入に成功しただけでなく、SDGsやDXの面でも先行しています。

このシリーズでは、西粟倉村の約15年間の軌跡と、地方創生の成功モデルと言われるまでの“奇跡”を遂げた理由について、西粟倉村役場の上山隆浩・地方創生特任参事へのインタビューを、前後編の2回にわたって紹介します。

(注1)日本生産性本部が2011年に発足させた民間の政策提言組織。現在は活動休止中
(注2)2010年から2040年にかけて、20~39歳の女性の人口が5割以下に減少する市町村と定義

2 「森林しかない村」が森林資源の価値に気付く

1)村単独での生き残りを決断したことが転機に

西粟倉村は、岡山県の北東端、兵庫県と鳥取県との境にある人口1361人(2023年1月末時点)の山村です。約57.97平方キロメートルの面積の約93%が森林で、このうち84%をスギやヒノキなどの人工林が占めています。

地方の他の山村と同様に、人口減と高齢化が進んでいた西粟倉村の転機となったのは、2004年の「平成の大合併」の際に、他の市町村とは合併しないと決めたことでした。村役場では合併を前提に準備をしていたのですが、住民アンケートの結果、合併反対が上回ったことを受けて、村単独でやっていくことになったのです。

とはいえ、村のかつての主力産業だった林業は衰退し、財政力指数(注3)は岡山県の市町村で最低という状況の中、村が生き残っていける見通しがあったわけではありませんでした。

(注3)市町村の財政力を示す指標で、「基準財政収入額/基準財政支出額」の過去3年間の平均値

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2)外部の視点で「負の遺産」だった森林の価値付けを目指すことに

どうしたら村が生き残っていけるのかを考えていく中で生まれたのが、「百年の森林(もり)構想」です。この構想は、人工林の管理をあと50年続けて、2058年には西粟倉村を、100年の森林に囲まれた「上質な田舎」にしようというものです。

構想が生まれたきっかけは、2004年から2007年まで、総務省の補助事業である「地域再生マネージャー事業」を導入し、村の活性化策について外部のコンサルタントなどの専門家を招いて議論をしたことでした。元々は村内の観光施設の赤字をどのように解消するかをテーマにしていたのですが、地域と都市部とを結び付けるチャネルである観光施設を活かすには、「村として、何を売っていけばよいのか」が議論されました。

村民からすると、「この村で売っていくものなんて、何もないよね」という意識でいたのですが、Iターンで西粟倉村に来られた方や、外部のコンサルタントが着目したのが、森林でした。西粟倉村では、戦後の昭和30年代に植えられたスギの人工林が50~60年たって、「これからお金になる」まで生育していました。ですが、輸入木材の普及によって木材価格が低下するとともに、高齢化によって林業の担い手がいないという状況にありました。

特に西粟倉村の場合、村有林を村民に払い下げたという経緯もあって、2ヘクタール程度しか保有していない零細な所有者が多く、個人で森林を管理することが困難になっていました。このため、森林には価値も人も付かなくなり、放置される状況があちこちで見受けられるようになっていたのです。特に住居の裏山は、大雨によって崩れることもありますから、防災面でも森林の管理が大きな課題となっていました。このため、村民の間では、「森林は負の遺産になりつつある」という考えが広がっていました。

これに対して、外部のコンサルタントの分析は、「観光施設も大切だが、一次産業は地域の資源であり、豊富にある。しっかりと管理して価値を付けていけば、非常に重要な産業になるし、西粟倉村が持続可能な地域になる」というものでした。外部の知見をもらえなければ、森林は管理が必要な「負の遺産」ではなく、ただ「森林資源が豊かである」ということだけで価値のあることだということに気付かなかったと思います。さらには、森林に価値を付け、その森林資源を活用すれば、経済効果や雇用を生み出すことができるということにも、村民の目は向かわなかったでしょう。

このような考え方に基づいて、コンサルタントの方のアドバイスを受けながら2008年に着想し、2009年に事業を開始したのが「百年の森林構想」です。

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3 森林で「稼げる村」へ!

1)役場を中心とした全村体制で森林資源の価値最大化計画がスタート

こうして始まった百年の森林構想の第一歩は、森林の管理を村役場が一括して行うことでした。村役場には元々、1300ヘクタールの村有林を管理する部署があったので、その部署を広げて個人の森林も管理する体制を取りました。

まず、村役場と森林を所有する村民とで、「森林長期施業管理に関する契約」を結びました。契約の主な内容は、

  • 事務や事業にかかる費用は村の全額負担(村の一般財源と国・県の補助金から支出)
  • 丸太の販売収益は、村と森林所有者が半分ずつ得る

というものです。

森林の管理は多くの村民が困っていましたし、自分でお金を払わない上に村役場が管理してくれて、利益の半分も手元に入ります。山崩れなどの災害リスクも減り、環境にも良いということですから、悪い話は全くありません。総論としては皆が賛成してくれました。

ただし、ただ森林を管理するだけでは費用が出ていくだけです。百年の森林構想の最初の重要ポイントは、森林に価値を付け、その森林資源を活用して「稼げる村」になることでした。小さな村ですので、何百人もが働く工場を誘致するのではなく、小規模でも林業者が増え、木材加工業を手掛けるような、身の丈に合った6次産業化を進めることを目指しました。

2)「西粟倉村の木を使いたい」というニーズをつくることで森林に価値が付く

森林に価値を付けて「外貨」を生み出す役割を担うリソースが、「ローカルベンチャー」です。地元で起業してもらう、木材加工事業のスタートアップ企業です。

ローカルベンチャーの大前提となるのが、20世紀型のビジネスモデルから外れることです。20世紀型のビジネスモデルは、基本的に森林の木を切って木材市場で売るだけです。売り上げを伸ばすには、量で勝負するしかありませんが、それでは外国産の大量かつ安価な木材には勝てません。西粟倉村の現在の木材搬出量は1万立方メートルしかありませんので、1立方メートル当たり1万円で木材を売ったとしても、1億円にしかなりません。

これに対して、林業を6次産業化して、木材を家具や内装材に加工して販売する地元の「ローカルベンチャー」を育成すれば、森林から得られる売り上げは10億円にもなりますし、雇用者も増えます。

とはいえ、ただ木材加工した製品を大量生産していては、やはり20世紀型モデルから抜け出せません。大手企業が参入しないようなニッチな市場で、しかも「西粟倉村の木を使いたい」というニーズをつくることが、西粟倉村の森林に価値を付けるために必要なことです。

例えば、西粟倉村で成功したローカルベンチャーの製品に、幼稚園の什器やマンションの内装用のタイルがあります。都市部の若い方たちの中には、国産材の木に囲まれた環境の中で子供を育てたいという人がいます。大手企業は参入しないニッチな市場かつ、製品に込められたストーリーまで含めて購入されるような市場です。

こうした市場を見つけ、広げていくには、事業を行うローカルベンチャー自体に、「西粟倉村の木を使いたい」という思いがなければ実現しません。

そのような思いや価値観を集約した「旗」になるものが、「百年の森林構想」です。そして、西粟倉村の森林資源の最大価値化というビジョンを共感・共有したいという人たちが増えるほど、森林資源の価値が高まっていくことになるのです。

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3)ビジョンにプロジェクトが一体化

とはいえ、他の市町村でも、ビジョンはあってもプロジェクトが付いていかないという話を聞くことがあります。西粟倉村の場合、ビジョンに共感してプロジェクトを実行してくれる企業と一体化することができました。

うまくいったのは、たまたまなのかもしれませんが、先駆者となってくれた数社の役割は大きかったと思います。観光施設の赤字対策のために招いた外部のコンサルタントの方が起業した「西粟倉・森の学校(およびエーゼロ)」(以下「森の学校」)や、地元の森林組合の職員が起業した「木の里工房 木薫」(以下「木薫」)、百年の森林構想に共感して西粟倉村にIターンした方が起業した「ようび」といった先駆者が、市場を開拓してくれました。森の学校や木薫は、百年の森林構想を作る前の段階から関わっているので、当然ながらビジョンを理解し、共感してくれていました。

こうした先駆者である数社のローカルベンチャーが、ビジョンと一体化したプロジェクトで実績を出してくれているので、外部の人たちにも西粟倉村の取り組みがよく分かり、共感・共有を得やすくなったのだと思います。先駆者たちの活躍を見て、同じような活動をしようと考えていた人たちが西粟倉村を選んでくれるようになりました。

西粟倉村では、新たなローカルベンチャーの育成を後押しする取り組みも行っています。2015年に、先駆者であるローカルベンチャーを主体としたローカルベンチャースクールに取り組みました。また、2016年に、西粟倉村と東京のNPO法人ETIC.の呼びかけに賛同した8つの自治体により、ローカルベンチャー協議会を発足しています。

このような取り組みによって、2022年には、西粟倉村のローカルベンチャーは50社にまで増えました。村内総生産額は百年の森林構想がスタートする2009年以前の8億円から22億円へと約3倍に増え、221人の新規雇用を実現しています。

4)移住者だけでなく「関係人口」の拡大も重要

ビジョンを共感・共有していただいたのは、ローカルベンチャーの担い手だけではありません。西粟倉村のビジョンに対する共感・共有によって、地域外の方たちにも西粟倉村の顧客やインフルエンサーになってもらい、さらに共感・共有の輪が広がるようになっています。こうした、移住はできなくても西粟倉村のビジョンに共感・共有していただいて、村と強い関係を持っている方々を、私たちは「関係人口」と呼び、特に経済面や課題解決の面での西粟倉村の発展にとって重要な存在だと考えています。

例えば、2009年と2010年には、「西粟倉村共有の森ファンド」というクラウドファンディングを立ち上げ、423人の投資家の方から約4900万円が集まりました。

関係人口を増やすために、2018年には、西粟倉村の情報を掲載し、村内の製品を購入することなどができる「アプリ村民票」のサービスを始めました。既に村の人口を上回る約1700人の方に登録していただいています。

4 脱炭素・SDGs推進で「循環型社会」へ

ローカルベンチャーによって、森林資源の価値が高まり、西粟倉村は「稼げる村」になりました。その一方で、事業を進めていくうちに、森林資源の価値をより一層高めるには、木材加工事業を行うローカルベンチャー以外の方法も必要だということが見えてきました。木材加工には使えない低質材・未利用材を活用できるようになれば、今まで無価値だった木材にも価値が生まれるからです。

そのための解決策が、脱炭素です。木材加工に使えない低質材・未利用材(薪やチップ)を使ったバイオマス発電と小型の水力発電によって、小規模分散型の再生可能エネルギー供給システムの構築を進めています。ローカルベンチャーなども募り、2014年度から事業に着手しています。

事業は、国からの補助金などを活用しています。西粟倉村は2013年に内閣府の環境モデル都市、2014年に農林水産省などのバイオマス産業都市、2019年に内閣府のSDGs未来都市に認定されていますので、こうした制度を活かしてファイナンスを行っています。

現在では、小中学校や村役場の新庁舎など村内の6カ所の公共施設に木質バイオボイラーで熱供給をし、3カ所の温泉施設に薪ボイラーを導入しています。また、2018年に西粟倉村や地元の金融機関などが出資して小型の水力発電事業会社を設立し、売電事業を始めました。

こうした取り組みにより、村内の再生可能エネルギーによる電力自給率は、約50%に達しています。目標はもちろん100%です。2022年度には環境省の脱炭素先行地域に選定されており、2030年に村有施設の電力由来の二酸化炭素の排出量をゼロにすることを目指しています。

脱炭素やSDGsは、西粟倉村にとっては、森林資源の価値を高めるためのツールです。脱炭素やSDGsというコンセプトに沿えば、国などからの補助金を活用できますし、専門的な知見を持った人材も集めやすくなります。さらには、百年の森林構想への共感・共有が広がるというメリットもあります。

5 さらなる高みへ、最新技術を活用した「構想Ver.2.0」

1)全ての森林をデータ化して用途に選別

百年の森林構想では、林業の6次産業化と脱炭素・SDGsで森林資源の価値を高めてきましたが、課題はまだまだ残っています。西粟倉村の森林の84%が人工林とはいえ、実際に林業に適している森林は、このうち6割程度しかないことが分かってきました。残りの4割程度の森林は、「生育が悪い」「人が入るのが困難な場所にある」「住居や墓地に近いので保水効果を考えると木を伐採できない」などの理由で、価値を付けられていないのです。

価値を付けられていない森林の管理は、おろそかになりがちです。しかし、管理を怠ると大雨によって山崩れが起こりかねませんし、山崩れが起きればますます管理をしなくなるという「負の連鎖」が起きてしまいます。

そこで、2020年から、百年の森林構想を新たなフェーズに移行させることとしました。百年の森林構想Ver.2.0の開始です。

Ver.2.0の最大の事業は、村内の約6700地番ある森林を全てデータ化して分析し、用途を決める作業を行う「森林 RE Design」です。例えば、生育の悪い森林や、木材の搬出が困難な場所にある森林は、環境林として観光客を呼び込み、グリーンツーリズムなどの「コト消費」につなげます。住居に近い森林は、低層木に植え替えて、シロップの生産や養蜂、山菜の育成といった「森林農業」を営む場所にして、5~6年でキャッシュフローが回るようなビジネスモデルへの転換を進めています。DXを活用した「森林 RE Design」によって、木材利用だけでない森林の価値を付け、森林資源の価値をさらに高めることができると考えています。

2)都市部に流出した森林の所有権は「森林商事信託」を活用

Ver.2.0のもう1つの大きな事業が、2020年度から開始した森林商事信託事業です。百年の森林構想の第一歩となった「森林長期施業管理に関する契約」は、村役場が対象に想定している約3000ヘクタールの森林のうち、約1800ヘクタールほどしか締結できていません。

その主な理由は、相続によって森林の所有権が、都市部の住民に流出し始めていることです。森林商事信託事業は、都市部の住民に契約を締結してもらうための手法です。都市部に住んでいる所有者が森林管理を委託しやすくするために、村役場が村内の所有者と締結したような契約を、大手信託銀行と締結するスキームです。所有者は信託契約が続く限り、森林管理の費用負担がなくなりますし、信託受益権の配当を受け取ることができます。委託した森林の管理状況については、森林管理を行っている大手企業が、信託銀行のアドバイザーとして参画していますので、遠隔地の方でも安心して信託していただける制度になっています。

3)都市部など外部企業との協働にシフト

ご紹介した2つの事業でも分かるように、百年の森林構想Ver.2.0は、Ver.1.0と比べると、活用すべきリソースが異なっています。「稼ぐ村」への転換に貢献していただいているローカルベンチャーは、DXに関するリテラシーやノウハウが必ずしもあるわけではありませんし、信託事業を行っているわけでもありません。これは脱炭素に関しても同様のことが言えます。

Ver.2.0の課題や脱炭素に取り組むには、DXや脱炭素などに関する専門的なノウハウや知見があり、さらには投資もできるファイナンス力のある事業者に参加してもらう必要があります。

これまでは、ローカルベンチャー事業のKPIを起業数に設定してきましたが、これからは起業数ではなく、生み出した事業の売り上げ規模をKPIに設定しています。1社当たり1億円や2億円の事業を生み出すことが理想です。例えば、観光事業は裾野が広い産業なので、億単位の売り上げ規模の事業を起こすこともできますし、数十人単位の若者を呼び入れることもできます。

地域資源の価値最大化のための活用すべきリソースの変化に伴って、村内で企業を育成してリソースにするという考え方から、地域内で賄えないものは外部のリソースを活用するという考え方にシフトしています。このため、これまで以上に都市部の企業などとの協働プロジェクトに取り組み、2024年に13件に、2030年までには35件に増やすことを目指しています。

2020年に設立した「一般財団法人西粟倉村まるごと研究所」は、企業や大学などの研究機関に、西粟倉村そのものを実証実験の場として提供することで、さまざまな課題を解決するための最新技術の導入を図るための受け皿になることを目的としています。

4)社会資本の充実でSDGsもバージョンアップへ

Ver.2.0では、SDGsのターゲットの拡大も目指しています。これまで西粟倉村のSDGsは、脱炭素や環境分野が中心でしたが、これからは社会資本の充実も進めていくことを目標に掲げています。このため、村内で育成するローカルベンチャーは、従来の「木材加工型」だけでなく、「ソーシャルビジネスローカルベンチャー」を増やしていきたいと考えています。

2020年には、村内の小中学生向けに、環境やSDGsに関する教育を実践し、西粟倉村のアイデンティティを高めていくことを狙った「一般社団法人Nest」を設立しました。

百年の森林構想を中心に、環境、経済、社会の3つが自立的に好循環を生んでいくような仕組みをつくっていくことが、西粟倉村の持続可能性を高めることにつながると考えています。

西粟倉村役場の上山隆浩・地方創生特任参事へのインタビューの前編は以上です。後編では、西粟倉村の取り組みの中心的な役割を担う村役場の職員たちは、どのような意識改革によって育成されたのかについて聞いています。

以上(2023年3月)

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画像:岡山県西粟倉村役場

【収支シミュレーション】デイケア(通所リハビリテーション)施設の開業収支モデル

1 通所リハビリテーションとは

1)通所リハビリテーション

通所リハビリテーションとは、

居宅の要介護者を介護老人保健施設、病院、診療所、その他の厚生労働省令で定める施設に通わせ、その心身の機能の維持回復を図り、日常生活の自立を助けるために行われる理学療法、作業療法その他必要なリハビリテーション

をいいます。また、通所リハビリテーションは一般にデイケアとも呼ばれています。

通所リハビリテーションは、介護保険法の居宅サービス事業に該当します。居宅サービス事業者となるには、都道府県知事(指定都市・中核市は各市長)の指定を受ける必要があります。

2)介護予防通所リハビリテーション

介護予防通所リハビリテーションとは、

居宅の要支援者(要介護に至っていない状態の人)を介護老人保健施設、病院、診療所、その他の厚生労働省令で定める施設に通わせ、その介護予防(要介護状態になることの予防)を目的として、厚生労働省令で定める期間にわたり行われる理学療法、作業療法その他必要なリハビリテーション

をいいます。

介護予防通所リハビリテーションは、介護保険法の介護予防サービスに該当します。介護予防サービス事業者になるには、都道府県知事(指定都市・中核市は各市長)の指定を受ける必要があります。

3)通所リハビリテーション施設の開設

通所リハビリテーション施設を開設するには

  • 法人格を取得する
  • 厚生労働省令で定められた事項を都道府県知事に届け出る
  • 厚生労働省が定める「指定居宅サービス等の事業の人員、設備及び運営に関する基準」を満たす
  • 施設の所在地の都道府県知事(指定都市・中核市は各市長)から介護保険法の「通所介護」に係る「指定居宅サービス事業者」の指定を受ける

なお、市区町村によって基準が異なる場合や、設置を計画していた施設の数を満たしているといった理由で申請を受け付けていない場合があるため、事前に市区町村の担当部署に確認しましょう。

また、市区町村によって施設整備費や設備整備費などに補助金を出していることもあるので、併せて確認するとよいでしょう。

2 開業収支を考える

1)前提条件

1.売上高

売上高は、施設定員を90人として年間5870万円とします。算出式は次の通りです。

(介護サービス費8万3800円+日常生活費等6800円)×定員90人×12カ月×稼働率60%≒5870万円

通所リハビリテーションの売上高は、介護サービス費と日常生活費等から成ります。

厚生労働省「介護給付費等実態統計月報(令和3年4月審査分)第5表 介護サービス受給者1人当たり費用額,要介護状態区分・サービス種類別」によると、通所リハビリテーションの介護サービス受給者1人当たり費用額は8万3800円となっています。介護保険が適用されるので利用者の負担は1割(一定基準以上の所得がある場合は2割または3割)となります。

日常生活費等は、食材料費、教育娯楽費、日用品代などで、利用者が実費を負担します。

2.原価率

厚生労働省「令和2年度介護事業経営実態調査」の介護事業費用(3)その他を参考に、売上高の27.7%とします。

3.人件費

厚生労働省「令和2年度介護事業経営実態調査」の介護事業費用(1)給与費66.7%を参考に、3915万円(5870万円×66.7%)とします。

4.施設設備整備費用

一般的に、通所リハビリテーション施設は、病院や診療所、他の介護サービス施設と併設されるケースが多いようです。そこで、このシミュレーションでは、リハビリテーションを行う専用の部屋を既存の施設に増築するものと仮定し、建物(延床面積120平方メートル。1平方メートル当たり工事単価30万円)は3600万円。建物附属設備(電気・給排水・消火設備など)は540万円とします。

その他の諸条件は次の通りとします。

損益収支計画の前提条件

2)収支シミュレーション

損益収支計画

主な財務指標

3 通所リハビリテーション施設(予防を含む)の収支

厚生労働省「令和2年度介護事業経営実態調査結果」によると、通所リハビリテーション(予防を含む)の1施設1カ月当たり収支は次の通りです。

通所リハビリテーション施設(予防を含む)の1施設1カ月当たり収支

以上(2022年12月)

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画像:Robert Kneschke-shutterstock

【収支シミュレーション】老人デイサービスセンターの開業収支モデル

1 老人デイサービスセンターとは

老人デイサービスセンターとは、

居宅要介護者および居宅要支援者に対して、日帰りで入浴、食事の提供、機能訓練、介護方法の指導などのサービスを行う施設

です。また、介護保険では、居宅要介護者に対する老人デイサービスを「通所介護」といいます(介護保険法第8条第7項)。

利用者は生活介助を受けられるだけでなく、孤立感の解消、心身機能の向上も図ることができます。また、家族などの介護者は、老人デイサービスセンターに要介護者・要支援者を預けることにより、介護による身体・精神的負担の軽減を図ることができます。

老人デイサービスセンターを開設するには、

  • 法人格を取得する
  • 厚生労働省令で定められた事項を都道府県知事に届け出る
  • 厚生労働省が定める「指定居宅サービス等の事業の人員、設備及び運営に関する基準」の人員配置基準、設備基準、運営基準を満たす
  • 施設の所在地の都道府県知事(指定都市・中核市は各市長)から介護保険法の「通所介護」に係る「指定居宅サービス事業者」の指定を受ける

必要があります。

なお、市区町村によって基準が異なる場合や、設置を計画していた施設の数を満たしているといった理由で申請を受け付けていない場合があるため、事前に市区町村の担当部署に確認しましょう。

また、市区町村によって施設整備費や設備整備費などに補助金を出していることもあるので、併せて確認するとよいでしょう。

2 開業収支を考える

1)前提条件

1.売上高

売上高は、施設定員を30人、稼働率を70%として年間2741万円とします。算出式は次の通りです。

(介護サービス9万9400円+日常生活費等9400円)×定員30人×12カ月×稼働率70%≒2741万円

老人デイサービスセンターの売上高は、介護サービス費と日常生活費等から成ります。

厚生労働省「介護給付費等実態統計月報(令和3年4月審査分)第5表 介護サービス受給者1人当たり費用額,要介護状態区分・サービス種類別」によると、通所介護の介護サービス受給者1人当たりの費用額は9万9400円となっています。介護保険が適応されるので利用者の負担は1割(一定基準以上の所得がある場合は2割または3割)となります。

日常生活費等は、食材料費、レクリエーション参加費、理美容代、おむつ代、日用品代などで、利用者が実費を負担します。

2.原価率

原価率は、後掲の図表4(通所介護の1施設1カ月当たり収支)の介護事業費用のうち(4)その他を参考に27.4%とします。

3.人件費

人件費は同じく後掲の図表4(通所介護の1施設1カ月当たり収支)の介護事業費用のうち(1)給与費63.8%を参考に2498万円(3916万円×63.8%)とします。

4.施設設備整備費

建物(延床面積400平方メートル。1平方メートル当たり工事単価30万円)は1億2000万円。建物附属設備(電気・給排水・消火設備など)は1800万円とします。

その他の諸条件は次の通りとします。

損益収支計画の前提条件

2)収支シミュレーション

損益収支計画

主な財務指標

3 通所介護施設の1施設1カ月当たり収支

厚生労働省「令和2年度介護事業経営実態調査結果」によると、通所介護施設の1施設1カ月当たり収支は次の通りです。

通所介護施設の1施設1カ月当たり収支

以上(2023年3月)

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画像:mapo-Adobe Stock

【朝礼】厳しい校則と増えるルーチン業務の共通点

おはようございます。突然ですが、皆さんが通っていた中学校や高校は、校則が厳しかったでしょうか? いきなり変な質問をしてすみません。この質問にはちゃんと理由がありますので、しばらく私の話にお付き合いください。

先日、学生時代の友人と会った際、私たちが通っていた中学校の校則の厳しさが話題になりました。当時の生徒手帳には、髪形、ズボンの太さ、スカート丈から始まる数多くの校則が細かく記載されていたのです。ただ、どうも世の中には、さらに変な校則や厳しい校則がある、もしくは、あったようです。友人と一緒にインターネットで調べてみたら、あまりの内容に驚きました。

例えば、プールではふんどし禁止、学校に出前を取ることは禁止、タトゥー禁止などがそうです。私や友人の感覚からすると、「そんなの当たり前でしょ」と思ってしまうような内容でした。逆に、髪を切るときは教師の許可を得ること、○○駅で待ち合わせをするのは禁止など、「そこまでする必要があるの?」と、疑問に感じる内容もありました。

ですが、今にして思うと、こうした校則を作った学校側も、私や友人と同じ気持ちだったのかもしれません。実際に、ふんどしで泳ぐ生徒や学校に出前を取る生徒、タトゥーをした生徒が出てきて、PTAを含めて問題になった結果、学校側はやむなく校則で禁止したという背景が想像できます。

また、あまりに奇抜な髪形をした生徒や、駅前で生徒が駅の利用者に迷惑を掛ける行為に対して、学校側は何度も指導したのに効果がなかったのでしょう。その結果、学校側としては、髪を切るのは許可制、駅での待ち合わせは禁止に踏み切るしかなかったのだろうと思います。

私が通っていた高校は、中学校と違って校則がほとんどありませんでしたが、奇抜な髪形や服装をする生徒は皆無でした。だから髪形や服装に関する校則が不要だったのだと思います。

これは、今の私たちにも当てはまる話ではないでしょうか。業務上、本来はあり得ないミスや、原因不明の納期遅れが続けば、当然ながら再発防止のための対策として、チェック体制を二重三重に増やし、業務の進捗を逐一、上司に報告しないといけなくなります。それは、変な校則や厳しい校則と同じように、「そんなの当たり前でしょ」「そこまでする必要があるの?」と思ってしまうようなルーチン業務です。こうした業務が増えると、本当に重要な業務を行う時間が減ってしまいます。つまり、自分たちの落ち度や怠慢によって、自分たち自身の首を絞めることになるわけです。

今、会社では業務効率化が求められていますが、その第一歩は、「そんなの当たり前でしょ」「そこまでする必要があるの?」というルーチン業務を減らしていくことだと思います。そのために私は、自分がやるべきこと、守るべきことを怠らないように努めたいと思います。

以上(2023年3月)

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画像:Mariko Mitsuda

【朝礼】丁寧さが好感を生みます。皆さんは丁寧さの基準を知っていますか

先日、取引先企業を訪問した際、言葉遣いや所作がとても丁寧な受付の方(女性)がいました。本当に丁寧に応対してくれたので、なんとなく気持ちがよくなりました。そのときは、その後の商談がうまく運ぶような気さえしました。また昨日、急ぎの要件で電話をかけたとき、相手の女性の受け答えが、とても丁寧でした。そのせいか、私の気のあせりは少し和らぎました。丁寧に応対されると、とても心が落ち着くだけでなく、嬉しくなるものです。

高級ホテルや高級レストランでは、皆さんはとても丁寧な接客を受けると思います。もちろん、彼らは接客のプロフェッショナルですので、言葉遣いや所作が丁寧なのは当然のことといえます。こうしたことが分かっていても、丁寧に応対してもらうと、悪い気はしません。

ここで逆のことを考えてみましょう。仮に、高級ホテルで、雑な応対をされたらどうでしょう。嫌な気持ちになるに違いありません。程度によっては、そのホテルを利用するのをやめようとさえ思うでしょう。

日常のビジネスシーンでも、同じようなことが起きているかもしれません。ここで、皆さんと取引先様との電話応対を思い出してください、常日ごろ、すべての取引先様に丁寧に応対していますか。

ポイントは「すべての取引先様」です。一口に取引先様といっても、大口のお客様、小口のお客様、これからお客様になってくれるかもしれない見込み客、仕入先様などさまざまです。皆さんの中に、大口のお客様にはとても丁寧に接している一方で、小口のお客様には丁寧さに欠ける応対をしている人はいませんか。仕入先様に対しては、「うちが商品を買ってやっている」という態度や物言いになっていませんか。

ビジネスシーンにおける応対の基本は、お客様の大小や、お客様か仕入先様かで、変わっていては混乱します。なぜなら、小口のお客様は大口のお客様になるかもしれないからです。それに、仕入先様がお客様になるかもしれません。もう少し分かりやすく説明しましょう。小口のお客様が大口のお客様になった場合、相手に有利に契約条件などを変更するのは、ビジネスとしてよくあることです。逆に、大口のお客様が小口になることも少なくありません。取引の大きさに応じて、取引条件が変更するのはビジネス上、問題はありません。しかし、相手の立場や取引額によって、応対を変えるようでは、皆さんだけでなく、会社の信用にもかかわります。

今後、皆さんはどのような立場の相手の方でも、社外はもちろん社内でも、上司と部下の関係であっても、丁寧に接してください。丁寧過ぎるぐらいでかまいません。丁寧な応対は間違いなく、好感を生みます。仮に、厳しい交渉でも、丁寧な言葉遣いで行うと、相手は感情的になりません。部下を厳しい言葉で叱責する際も、丁寧な口調でいうと、部下は納得します。

丁寧さは言葉遣いと口調、そして所作に表れます。皆さんの敬語が多少間違っていても、ゆっくりと優しい口調であれば、丁寧さは伝わります。

そして、肝心なことですが、丁寧さにも基準があります。分かりますか。よく、「相手に不快感を与えないようにすればいい」という方がいますが、これはマナーの問題であって、丁寧さの基準ではありません。

私が考える丁寧さの基準を皆さんに教えましょう。その基準は「相手よりも」です。相手を上回る丁寧さで応対すれば、相手は好感を抱いてくれるでしょう。今日から、相手よりも丁寧に応対してください。

以上(2023年3月)

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日本の歴史人物(徳川家康)

1 徳川時代を築いた「徳川家康」

天文11年(1542年)、徳川家康は、三河岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれました。幼少のときに今川家の人質として駿府へ向かう途中、織田軍に拉致されてしまいます。

今川家から独立した後の家康は、織田信長と清洲城で同盟を結びます。以後、信長と共に転戦し、長篠の合戦では、織田家と共同で武田の騎馬隊を破っています。

本能寺の変後は、信長亡き後の主導権を巡り、豊臣の大軍相手に善戦しました。その後は秀吉に降(くだ)り、豊臣政権の有力大名として五大老の一人に任じられています。

秀吉の死後は、天下の覇権を得るべく東軍の総大将として関ヶ原で石田三成と決戦、勝利します。慶長8年(1603年)、朝廷に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣秀頼を滅ぼし、戦国の乱世に終止符を打ったのです。

徳川家康の生涯

2 家康の有名エピソード

1)不遇な生活を余儀なくされた幼少時代

家康が生まれた当時、三河の松平氏は東の今川義元、西の織田信秀に攻め込まれ、滅亡の危機にありました。そこで、家康の父、三河岡崎城主松平広忠は、この危機を乗り越えるために、今川氏の支援を受けて織田氏と対決しようと決意します。今川氏の支援を受けるために、家康は駿府に人質として差し出されることになります。まだ幼く、竹千代と呼ばれていた頃でした。

しかし、家康は、今川氏のもとへ護送される途中で、織田軍に拉致されてしまいます。尾張の織田信秀の人質として数年を過ごした後は、再度人質として、駿府の今川義元のもとへ移ります。

こうして、家康は長期間に及ぶ不遇な生活を余儀なくされることとなります。

2)忍耐の人、家康

家康は、幼い頃から人質として過ごしたせいか、非常に慎重で、忍耐強い人でした。「悪賢い」などというイメージが付きまといますが、長い間の人質生活は、人を慎重にさせるには十分な試練だったのでしょう。

家康は、戦国の乱世に終止符を打ち、明治維新まで約300年もの間続く江戸幕府の創始者となりました。

しかし、その覇業の道のりは、決して楽なものではありませんでした。死を覚悟したことも幾度となくあったようで、むしろ、苦難の連続だったといえます。

3)家康の危機

長い家康の人生のなかで、生命の危険にさらされたことは一度や二度ではありません。例えば、次のような出来事があります。

  • 桶狭間の合戦で、今川義元が織田信長に討たれて、岡崎まで引き揚げるとき。
  • 三方ケ原の戦いで、武田信玄に手痛い敗戦を喫し、城まで追って来た信玄の兵に迫られたとき。
  • 本能寺で、織田信長が明智光秀に討たれて、あわてて伊賀越えを敢行し、地侍や土民の一揆や敵の兵士に出会ったとき。
  • 小牧山で、豊臣秀吉と対戦したとき、裏から三河に兵を出されて、追いかけて討ち取ったとき。
  • 関ヶ原の合戦で、小早川秀秋との駆け引きで、鉄砲を撃って脅したとき。
  • 大坂夏の陣で、真田信繁(幸村)に本陣を突かれて後退したとき。

4)家康をささえた武将

家康が生き長らえたのは、冷静な判断力と並外れた運だけではありません。団結力の強い三河武士の家臣の存在が非常に大きかったといわれています。

具体的には、徳川四天王といわれた、井伊直政 、酒井忠次 、榊原康政 、本多忠勝などの存在です。これほどいい家臣に恵まれた諸大名も少なく、あの織田信長でさえ褒めたたえたといわれています。

家康は、重要なポストはすべて譜代の大名で固め、仕官してきた人を、あまり雇わなかったことでも有名です。逆に、織田信長や豊臣秀吉は平素から仕官してくれば雇っていました。

家康は家臣を自分で育てるタイプだったのです。軍評を開くときでも家臣に意見を言わせて、最後は自分で結論を出す方式をとっていたようです。

このような家康の人材育成の手腕は、現在でも立派に通用するでしょう。

徳川家康

5)家臣は至極の宝

家康には家臣を非常に大切にしていたことを表す、さまざまなエピソードが残っています。

あるとき豊臣秀吉が、家康をはじめ諸大名を集めて、自分の宝物などを自慢して、「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と尋ねたことがありました。

このとき家康は、「ご存じのように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、何も珍しいものは持っておりません。しかしそれがしのためには、水の中、火の中へも飛び入り、命を惜しまない士を500騎ほど配下にしております。これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」と答えたといいます。これに対し秀吉は、赤面して「そのような宝は自分も欲しいものだ」と言った逸話が残っています。

家康は自慢をしたというより皮肉を言ったという感じですが、家臣を大切に思っていることがよく伝わります。

実際、豊臣秀吉はさまざまな方法で家康の家臣を引き抜こうとしたようです。家康が家臣を宝のように思っていたことは、家臣にもよく伝わり、家臣もまた家康のために命をなげうったのでしょう。

6)家康の“ウラ話”

家康の人生のなかで、面白いエピソードが残っています。それは、次のような話です。

三方ケ原の戦いでは、負けて逃げる途中、追っ手の姿も見えなくなった家康はおなかがすいてきました。そこで一軒の茶屋で小豆餅を食べることにします。そこへ追っ手が迫り、驚いた家康は金を払わずに一目散に逃げ出してしまうのです。今でいう“食い逃げ”です。

それを茶屋の女主人が追いかけてきて、家康を捕まえ、餅代を受け取ったという逸話が残っています。

この話が本当かどうかは定かではありませんが、静岡県浜松市内には、茶屋があったところは「小豆餅」、家康を捕まえたところは「銭取」と、それぞれ地名になっています。

以上(2023年4月)

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日本の歴史人物(豊臣秀吉)

1 出世に次ぐ出世で天下統一を成し遂げた「秀吉」

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、百姓の生まれですが、織田信長の小姓として取り立てられてより、自身の才能一つで次々と出世を重ね、織田家の武将、信長の後継者となり、そして天下統一を成し遂げました。

信長に取り立てられ、天下統一を成し遂げるまでの秀吉の生い立ちには、秀吉がいかに知略に優れていたかを示すさまざまなエピソードがあります。

豊臣秀吉の生涯

2 秀吉の有名エピソード

1)草履を温める気配り上手

秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた信長の草履取りの時代には、次のようなエピソードがあります。

ある雪の夜、信長が草履を履くと、温かくなっていた。「おまえは腰掛けていたな、不届き者め」と怒ると、秀吉は「凍るような日でございますゆえ、草履を胸に抱いて、温めておりました」といい、服の懐を開けて、草履の土がまだ付いているところを見せました。これに感心した信長は、すぐさま秀吉を草履取りの頭にしたといいます。

信長が秀吉に一目置くようになったきっかけは、この草履取りのエピソードにあるように信長に「気が利く」と思わせた点にあるのかもしれません。

2)プロジェクトリーダーとしての才能は抜群

藤吉郎が草履取りとして信長に仕えた清洲城(愛知県)では、ある時、地震で石垣が100間(約180メートル)ほど崩壊しました。藤吉郎は清洲城の修築工事の指揮を買って出ます。この工事は前任者がずいぶん時間を掛けても、なかなか進捗が思わしくなかったものです。

藤吉郎は職人たちを集めると、10組に分けました。そして100間ある城壁を10間ずつに分け、それぞれの担当として「これから競争で修復作業をするように。一番に仕上げた組には殿様からたくさんご褒美が出るぞ」と言い渡します。

職人たちも、100間は長い距離に見えますが、10間(約18メートル)なら、頑張れば何とか1週間でできそうな気がします。職人たちは昼夜を徹して働き続け、やがてどの組も1週間後、ほぼ修復を完了させました。

この仕事ぶりに信長は驚き、藤吉郎は出世の糸口をつかんだとされています。秀吉は現代でいうプロジェクトリーダーとして抜群の才能を持っていたのです。

豊臣秀吉

3)知略にたけた戦術家

秀吉がいかに知略にたけた戦術家であったかのエピソードはたくさんあります。その一つが天正9年(1581年)の鳥取城攻めです。

秀吉は、敵の兵糧の蓄えが多く戦が長期化しそうだと読むと、周到な作戦を練りました。まずは、城の兵糧を減らすために、商人を動員して鳥取城近辺の米を相場より高値で買いあさらせました。また、付近の村々を襲い、村人を鳥取城へと逃げ込ませたのです。城内の人口を増やし、早く食糧をなくす作戦です。

秀吉に完全に包囲された鳥取城の城内では、食糧が底を突き、木やねずみを食べたり、食糧を巡っての殺し合いも起きたりしました。そしてついに、城内の人間の助命と引き換えに城は秀吉に明け渡されたのです。

4)転機にとった素早い行動力

明智光秀が中国地方の毛利氏攻めの命を受けて大軍を率いて出発したものの、京都の本能寺で織田信長を襲撃した「本能寺の変」は秀吉の人生を大きく変える出来事でした。

そのとき、高松城で毛利方の勇将・清水宗治と対峙していた秀吉は、「本能寺の変」により信長死すの報を受け取るやいなや大急ぎで和睦に持ち込み、弔い合戦として後にいわれる「中国大返し」を敢行します。

光秀はまさか秀吉がそんなに早く引き返してくるとは思っておらず、「山崎の戦い」に敗れて退却中に命を落としました。わずか10日あまりの「天下」でした。この後、秀吉は光秀を倒したという実績もあり、信長の実質的な後継者となり、天下統一へ向かうことになります。

このように、転機にとった素早い行動力が、秀吉を天下人にしたのです。

5)秀吉のライバル家康

信長の実質的な後継者となった秀吉ですが、徳川家康という最大のライバルが存在することになります。

天正12年(1584年)3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍は互いに兵をあげることになります。この戦が「小牧・長久手の戦い」です。小牧でにらみ合いを続けた両者のうち、先に動いたのは秀吉軍でした。家康の本拠地岡崎を攻めるために三好秀次を総大将とした別動隊を送りましたが、その動きを察知した家康も行動を開始し、4月9日に長久手で激しい戦闘が起こりました。

結局、この戦いは、家康軍の勝利に終わりましたが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立しました。天下統一を果たした秀吉ですが、唯一戦で勝つことができなかった相手が家康なのです。

6)豪華絢爛(けんらん)な金を好んだ秀吉

天下統一を成し遂げた秀吉は、大坂(近代以降は「大阪」と表記)を本拠地と定め、日本の政治・経済の中心地としました。その象徴となったのが大坂城です。

大坂城は石山本願寺の跡地に、天正11年(1583年)より築城が開始された巨大で豪華絢爛な城です。初代の天守閣は金箔押しの屋根瓦で飾られ、天下人・秀吉の栄華の象徴でした。

秀吉の趣味は、茶の湯、能、鷹(たか)狩りであったといわれますが、なかでも、壁がすべて金でつくられた「黄金の茶室」は有名です。そのほかに、身の回りの品にもふんだんに黄金を使用するなど、秀吉は統治者としての威厳を誇示するために金を好みました。一代で大出世を果たした秀吉らしい好みといえるでしょう。

以上(2023年4月)

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日本の歴史人物(織田信長)

1 日本人離れした先見性と合理性を併せ持った「織田信長」

尾張地方の一城主の長男に生まれた信長は、小さい頃は粗野でうつけ者と評判でしたが、成長してひとたび戦場で指揮を執ると天才的なひらめきを見せ、天下取りを目指して武将たちがしのぎを削る下克上の世の中でめきめき頭角を現していきました。

信長が大勢の戦国武将たちの中から抜きんでたのは、時代の一歩も二歩も先をゆく先見性と日本人離れした合理性によるものでした。

織田信長の生涯

2 信長の有名エピソード

信長にまつわるエピソードは多くありますが、この記事では代表的なものを紹介します。

1)能力ある家臣を積極的に登用

信長は家臣の登用も型破りでした。能力があり、自分の天下統一に役に立つと思えば、貧農出身の豊臣秀吉や新参者の明智光秀をも重臣に抜てきしました。人材は器量に応じて登用し、一族・肉親といえどもそれだけでは重用しませんでした。

半面、「能力がない」と判断した家臣に対しては、それまでの功績や身分に関係なく厳しい処罰をすることもありました。例えば、佐久間信盛は信長の父・信秀に仕え、後に信長に従った重鎮でしたが、戦果がはかばかしくない責任を取らせ、追放しました。ただし、このような厳しい処罰はメリットだけではなく、明智光秀の離反を招く一因になったと考えられています。

織田信長

2)誰でも商売ができるようにした「楽市楽座」

「天下布武」を目指した信長は、安土の地を自らの王国の建設地に選びました。その理由は諸説ありますが、琵琶湖が近く、水陸交通の要衝であったこと、生まれ故郷の尾張と旧勢力の中心地である京都とのちょうど中間にあったことなどが大きいとされています。信長は安土に戦国時代の覇者にふさわしい壮麗な安土城を建設し、城内に秀吉や前田利家などの重臣の邸宅を建てて住まわせました。

城下には楽市楽座を設けたため、全国から商人や職人たちが集まってきました。それまでは「座」という商人の組合に入らなければ、商売をすることが許されませんでした。信長は独占的な組織の「座」を廃止し、誰でも商売ができる世の中に変えたのです。また、貨幣の交換レートを定め、商品流通を促しました。こうした経済自由化の結果、国内産業は近代化への一歩を大きく踏み出したのです。

3)宗教と政治を切り離すことに力を傾ける

信長は宗教と政治を切り離すことにも力を傾けました。信長の天下統一の前には戦国大名だけでなく何人もの強大な戦国大名が立ち塞がり、そのたびに信長は合戦で勝利を収めてきましたが、そんな信長でも苦戦を強いられたのは一向宗や比叡山といった宗教集団でした。当時、彼らは僧侶でありながらも、巨大な政治力と軍隊を持っていました。信長は僧侶たちが政治の世界に介入することを許さず、徹底的に彼らを打ちのめしました。

だからといって信長は宗教そのものを否定したわけではありません。それはその頃、日本に入ってきたキリスト教に対する信長の態度を見れば明らかです。新し物好きでもあった信長は、イエズス会の宣教師たちを手厚くもてなし、彼らの布教を保護すると同時に、西洋文化を彼らから吸収したのです。

4)信長最後の言葉「是非に及ばず」

明智光秀が本能寺にいた織田信長を襲撃した「本能寺の変」は戦国時代、あるいは日本の歴史を大きく変える大事件でした。

わずかな供回りを連れて本能寺に滞在していた信長は、夜半、人々の争う声で目を覚まします。襲撃者が光秀と知った信長の口から出たのは「是非に及ばず」という言葉だったといわれています。

この「是非に及ばず」とは普通、「仕方がない」と訳すことができます。光秀ほどの戦上手が囲んだからにはもう逃げ場はない、諦めよう、という意味にとることもできます。

しかし、別の解釈も成り立ちます。「是非」は本来「善しあし」という意味ですから、「善い悪いは関係ない、自分と同じことを今度は光秀がやろうとしているだけだ」と捉えることもできるでしょう。であるならば、善悪を超越した乱世の雄、信長らしい言葉といえるでしょう。

【参考】

  • 小学館「Jr.日本の歴史 4」(平川南、五味文彦、大石学、大門正克編 山田邦明著)
  • 山川出版社「戦国大名 歴史文化遺産」(五味文彦監修)
  • ポプラ社「織田信長(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ5)」(谷口克広監修)

以上(2023年4月)

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“行き過ぎた配慮”を卒業し、「三方よし」を実現しよう

来月から新年度ですね。今日はビジネスの鉄則「三方よし」をテーマに話をします。三方よしは、「売り手」と「買い手」がともに満足し、「世間」にも良い影響を与えられるのが本当の商売であるという、江戸時代から伝わる有名な経営哲学です。ただ、私は最近、買い手や世間への“行き過ぎた配慮”が、「三方よし」の妨げになっているのではないかと思うことがあります。

例えば、テレビ業界で使われる「コンプライアンス」という言葉です。本来は「法令遵守」という意味ですが、テレビ業界では「道徳的に守らなければならないルール」といった意味でも使われており、最近のバラエティー番組では、痛みを伴う罰ゲームが減り、人の容姿をいじることがNGになるなどの影響があるようです。

コンプライアンス自体は尊重すべきで、差別につながり得る表現などは是正されて当然です。ただ、最近はハリセンで人をたたくことさえ目にしなくなり、売り手であるテレビ局が、一部の視聴者からのクレームを避けたいだけのように思えることもあります。買い手である視聴者への配慮が“行き過ぎ”て、無難な番組しか作れなくなれば、視聴者が楽しめる番組がなくなります。表現の規制が本来必要なレベルを超えてしまうのは、世間にとっても良くありません。うがった見方をすれば、クレームを避けたいテレビ局のエゴともいえます。「三方よし」の考え方に照らすと、「売り手だけよし」の状態といったところでしょうか。

私たちのビジネスでも、同じようなことがあるでしょう。分かりやすいのは、お客さまから、提供している商品やサービスに対して「価格を下げてほしい」と言われた場合です。もちろん、お客さまの要望にある程度歩み寄ることは必要ですが、そこにとらわれすぎると、何かを犠牲にしなければならなくなってしまいます。この場合、売り手である私たちの事業継続に支障が出るほど利益を損なうことになるか、お客さまの利便性を悪化させかねないほどにまで品質を落とすしか、対応方法がないでしょう。2つの対応のいずれかを取った場合、「三方よし」の考え方に照らすと、「買い手だけよし」、もしくは「三方わるし」の状態になってしまいます。

そうではなく、本当の意味での「三方よし」を実現するためには、私は買い手や世間への“行き過ぎた配慮”を卒業する必要があると思います。それはつまり、私たちが売り手としての存在意義を自覚し、お客さまに対しても譲れない部分を明確にすることです。お客さまの不利益になったり、道徳に反したりすることは許されませんが、そうでないのなら、「私たちは、商品やサービスを通じてこんな価値を提供できる」という自分たちの強みを、自信を持ってプッシュしていくのです。お客さまや世間からそこへの共感を得てこそ、「売り手、買い手、世間よし」ではないでしょうか。まずは「自分を出す」ことから始め、エネルギッシュな新年度にしていきましょう。

以上(2023年3月)

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ご存知ですか 経営者・役員の退職金制度の基礎の基礎

役員が退職するときには、従業員退職金規程にはない「役員退職金」を支給することができる。役員退職金は、会社法上、株主総会の決議が必要なことからはじまり、支給までの流れが従業員退職金とは異なる。また、会社側では税金の負担が軽減できるメリットもあるが、株主総会の承認などを得る必要があるので、株主の説得が必要となり時間や手間がかかる。今回は、役員退職金制度の基本的なところを中心に、メリットデメリット、支給金額の決め方、支給までの流れなどをわかりやすく解説していく。

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