「一本のピンもその働きは国家につながる」(*)
出所:「心に響く名経営者の言葉 決断力と先見力を高める」(PHP研究所)
冒頭の言葉は、
「たとえどんなに小さな点であっても、決してゆるがせにしたり妥協したりしてはならない」
ということを表しています。
大学を卒業後、豊田氏は父親である豊田佐吉(とよださきち)氏が設立した豊田紡織株式会社に入社し、佐吉氏とともに自動織機の研究に取り組んでいました。こうした中、1924年、豊田佐吉氏は、画期的な自動織機(無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型)。以下「G型自動織機」)を発明しました。G型自動織機は大きな評判となり、1929年には織機の本場である英国のプラット社と特許権譲渡の契約が結ばれることとなりました。
世界的に有名なプラット社がG型自動織機を評価したのは喜ばしいことでしたが、契約のために英国を訪れた豊田氏は、かつては英国の花形産業であった紡績業がすっかり衰退している状況を目の当たりにし、将来に対する大きな不安を感じました。このため、自社の技術を生かせる新たな事業を模索し、その過程で自動車に着目しました。
日本では、1923年の関東大震災を契機として、都市交通としての自動車への注目が高まっていました。こうした中、1926年に設立された株式会社豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機。以下「豊田自動織機製作所」)で働いていた豊田氏は、1930年には小型エンジンの研究を開始し、1933年に豊田自動織機製作所に自動車部が設置されると、自身が中心となって本格的に自動車事業へ進出しました。
しかし、自動車事業への進出は困難を極めました。当時、フォードなどの海外の大手自動車メーカーは、部品の大半を社外から調達し、社内でそれらの部品を組み立てていました。しかし、日本で流通していた部品は品質が低かったため、自動車事業への参入に際しては、部品の大半を自社で製造しなくてはなりませんでした。このため、豊田氏は非常な苦労を重ねた末、1934年にはようやくA型エンジンの試作に成功し、1935年にはA1型試作乗用車およびG1型トラックを完成することができました。
その後、1937年にトヨタ自動車が設立されると豊田氏は副社長に就任し、1938年には挙母(ころも)工場が竣工して本格的な自動車製造が始まることとなりました。
ところが、挙母工場が稼働し始めると同時に、次々に問題が発生しました。試作品の生産段階では問題がなかったにもかかわらず、量産体制に入った途端に自動車の品質が低下してしまったのです。これは、政府からの指示を受け、量産体制の確立を急いだことによるものでした。
豊田氏は、すぐに問題の解決を図りました。発生した不良品は、材質や設計、製造方法など多面的かつ徹底的に見直しを行いました。また、各従業員の作業工程を書き出し、ムダを省いて合理化を図りました。さらに、工場全体の作業方法を見直し、各部署の生産量に偏りが生じないよう、進行状況を管理しました。こうした取り組みにより、品質問題は次第に改善に向かっていきました。
その後、豊田氏は同社の社長に就任し、以降は自動車事業のトップとしてさまざまな車両やエンジンの試作に取り組みました。トヨタ自動車は、挙母工場の稼働で明らかになった問題を基に製造現場の管理を充実させ、以降は自動車製造の一貫した体制整備を行うこととなります。
経営者であると同時に技術者でもあった豊田氏は、品質問題の解決に向けて、従業員に対し次のように述べています。
「豊田自動織機は本来、発明と研究をモットーとせる会社なり。そこより出立せる当社が、不良なる車を社会に送ると云ふ事は、当社として最も恥ず可きことなり」(*)
豊田氏の父親である豊田佐吉氏は、生涯を発明と研究に費やしました。そして豊田氏もまた、優れた技術者として自動織機の研究に取り組み、そして新たな分野である自動車事業へと進出しました。豊田氏は「発明と研究」という二つのモットーを佐吉氏から受け継ぎ、それを誇りとして小さな点にも妥協することなく仕事に取り組みました。その姿勢が、今日のトヨタ自動車の「お客様第一・品質第一」という理念の源流となっています。
小さな妥協は、やがて大きな妥協となります。たとえ小さな点であっても、決してゆるがせにせずに全力で取り組むことが、成功への一歩を固めるのです。
【本文脚注】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。
【経歴】
豊田喜一郎(1894~1952)。静岡県生まれ。東京帝国大学工学部卒。1929年、豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機)の技師に就任。1937年、トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車株式会社)を設立し、副社長に就任。1941年、同社社長に就任。
【参考文献】
(*)「心に響く名経営者の言葉 決断力と先見力を高める」(江上 隆夫、PHP研究所、2014年)
「トヨタウェブサイト」(トヨタ自動車株式会社)
以上(2026年7月更新)
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画像:日本情報マート


































