【朝礼】「人の話」から学ぶための、正しい聞き方

日ごろ、私は経営者同士の交流会や勉強会、セミナーなどによく招待していただきます。また、経営者の方にインタビューしたり、対談したりする機会をいただくこともあります。そうして日々、さまざまな方の話を聞いていると、本当に多くのことを考えさせられます。

中でも私が最近、改めて感じるのは、「人の話を聞き、そこから学ぼうとするときこそ、自分の思いをしっかりと持っていなければならない」ということです。

私がお会いする方々は、自分自身で考え、主体的にビジネスを動かしている方がほとんどです。そうした方は、何事についても“一家言”持っているのが通常です。将来のビジョンや会社の在り方、人とつながる方法、社員の育て方、商品の売り方など、ビジネスに関わる全てのことについて、自分なりに考え、苦労したり工夫したりして実践してきているからでしょう。

そうした方々の話は、どれも非常に力強く、示唆に富み、さまざまな気付きを得られることは間違いありません。一方で、話を聞くこちら側が自分の思いをしっかり持っていないと、「ただ表面的に感心して終わってしまう」のも事実です。それでは、自分の学びにはつながりません。

そこで私は、誰かの話を聞くときは、自分の思いと照らし合わせることにしています。私には、「自社のためだけでなく、世の中のためになることをしたい」という思いがあります。

そのため、お会いする方から、「自社のことだけでなく、世の中のことをどのように考えているか」「どうやって世の中に貢献しようとしているか」について学ぶことを一番大切にしています。

皆さんも、セミナーや勉強会などに参加し、さまざまな人の話を聞く機会があるはずです。その際、ただ「すごい!」と話に感心しているだけでは、学びにはつながりません。その人の話と照らし合わせ、実際の行動に役立てられるように、自分の思いや、何を学びたいのかをしっかりと固めた上で参加してもらいたいのです。

もう一つ注意してほしいことがあります。それは「人の話に真摯に向き合う」ことです。学びにつなげるには、人の話をとことん掘り下げて聞かなければなりません。その人の本当の思いはどのようなものか、何を大切にしている人なのか。ぜひ、そうしたことを「聞ききる」くらいの気持ちで向き合って、話を聞いてみてください。

誰かに何かを伝えようとするとき、人は「良いこと」を言うものです。それは決して悪いことではありませんが、表面的に「良いこと」を聞いているだけでは、その人の本当の思いは見えてきません。人の話は、「なぜそう考えるのか」「なぜそうするのか」をできるだけ掘り下げて聞きましょう。それが「聞ききる」ための第一歩です。

自分の思いをしっかりと持ち、話を「聞ききる」。そうすれば、人の話が皆さんの糧になり、皆さん自身の“一家言”が生まれるでしょう。

以上(2019年7月)

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真田昌幸(武将)/経営のヒントとなる言葉

「汝才智勝るとも、軍陣の数を重ねざる故、名顕はれざれば、良策なりとも用られず」(*)

出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)

冒頭の言葉は、

  • 「自分に有利な交渉の素地をつくることが大切である」

ということを表しています。

幸村の父であり、近世大名の地位を固めたことから、真田家「中興の祖」といわれる昌幸。冒頭の言葉は、昌幸が息子の幸村に贈ったアドバイスとされ、交渉や提案などの場面では、自身の要求を受け入れてもらうため、準備を怠らないよう諭していると取れます。

こうした昌幸の考え方は、自身の経験によるところが大きいのかもしれません。昌幸が真田家の地位を高めることに成功したのは、時勢を読み、自らに有利な主君に仕えてきたからです。ただし、力ある者に擦り寄っていけば、生き残っていけるというものではありません。昌幸は敵方への調略が得意だったとされます。交渉や提案などの場面で、自らの主張や有利な条件を織り交ぜながら、主君や敵方などの了解を取り付けることに長けていたからこそ、高い身分になくても一目置かれたのでしょう。

また、力ある者にかしずくだけでなく、時には立ち向かっていった点も、昌幸の特徴です。徳川家康(とくがわいえやす)が対立していた北条家と和解するために、昌幸は従前に苦労して獲得した沼田領を明け渡すように宣告されました。これに対して、昌幸は猛然と家康に反発します。そして、城下の各地に徳川勢を分断して誘い込み、その大軍を撃退しました。このときの昌幸は、対立していた上杉景勝(うえすぎかげかつ)に幸村を人質に出すことで講和を結んでいます。これは家康や北条家との対決に備えて、双方と対立関係にあった景勝の支援を取り付けようとの意図があったようです。勝利を引き寄せるために、昌幸が入念に準備していたことがうかがえるエピソードです。

状況が大きく変化する戦国時代でしたが、昌幸は変わり身の早さが突出していたためか、「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と揶揄(やゆ)されました。この言葉には、態度がころころと変わるという意味が込められています。表面的なプライドや名声を重視する人には分からないかもしれませんが、昌幸は真田家を存続させるという目的があったからこそ、表裏比興と呼ばれようとも手段を選ばなかったのであり、自社を存続させる重要性を知っている経営者には、昌幸の行動が理解できるでしょう。実質を重視する昌幸の姿は、次の言葉にも表れています。

「たとえ錦(にしき)を着ても心が愚かならば役に立たない」(**)

ビジネスでは、自社の要求をうまく提案したり、逆に相手から自社に不利な提案をされたりする交渉の場面が多々あります。重要な取引先など相手の力が大きいほど、どのように対応するか頭を悩ますのではないでしょうか。

弱い立場にありながらも、厳しい時代を生き抜いた昌幸の姿勢から、多くのことを学べます。例えば、交渉の際、相手の力が大きいほど、その要求に全面的に応えなければという考えが頭をもたげます。しかし、自社の選択肢は「譲歩」だけではありません。日ごろから誠実な対応が取れていれば、相手に強く主張することもできます。いつもは相手の要求に応えようと誠実に努力している自社が強く主張すれば、よほどの事情があるのかもしれないと、相手はこちらの状況を鑑みてくれる可能性があります。

もう1つ、力の大きな相手と対峙する場合に大切なのが、協力する姿勢です。ビジネスでは、戦国時代のように命を賭することはありません。多くの相手は自社を潰そうとしているのではなく、自らに有利な条件で交渉を進めたいという思いから、厳しい要求をしています。「相手の要求をのむ」「自社の要求をのんでもらう」というゼロサムではなく、相手も自社も現状の問題を解決し、互いのビジネスを発展させるという姿勢が大切になります。自社が相手と一緒になって解決策を出し合う雰囲気をつくることができれば、前向きな交渉へと導きやすくなるでしょう。

交渉を成功させるための前提は日ごろから誠実に対応し、価値ある商品やサービスを提供することです。この基本を徹底することで、新規の取引先であっても、既存の取引先であっても、自社を選んでもらうスタートラインに立つことができるのです。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

さなだまさゆき(1547〜1611)。出生地不明(出生年や出生地には諸説あります)。信幸(のぶゆき。後に信之)、幸村(ゆきむら。本名:信繁(のぶしげ))の父。

【参考文献】

(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
(**)「愛蔵版 戦国名将一日一言」(童門冬二、PHP研究所、2010年12月)
「産経新聞 東京朝刊(2000年10月3日付)」(産経新聞社、2000年10月)
「真田宝物館ウェブサイト」(長野市教育委員会 松代文化施設等管理事務所)

以上(2016年10月)

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画像:Josiah_S-shutterstock

真田幸村(武将)/経営のヒントとなる言葉

「およそ家臣ほど油断のならぬ者はなし。親子兄弟の間にても偽り多し。或ひは利に迷ふことあり。然るに、家人は血を分けたるにもあらず、ただ恩義に感じ、又は勢に恐れて下知に随(したが)ひ、命をもくれることあれば、よく心を用ひ察すべきことなり」(*)

出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)

冒頭の言葉は、

  • 「部下の考えを知ろうとすることが重要である」

ということを表しています。

多数いる戦国武将の中でも、高い人気を誇る幸村。それは忠義に厚い、悲劇のヒーローというイメージがあるからかもしれません。

弱小大名だった真田家は、幸村の父である昌幸(まさゆき)の活躍によって、一目置かれるようになりました。昌幸は、生涯同じ主の下に仕えたわけではなく、武田を筆頭に北条・上杉・豊臣・徳川などの強豪の中で、時勢を読み、自らに有利な主に仕えることを選びました。こうした昌幸の政略は、幸村の思想や生き方にも影響を与えていたと考えられます。

幸村は若い頃から人質として、上杉や豊臣などの元に送られており、身の上が安定しない生活を送っていました。忠義に厚かったとのイメージが定着している幸村ですが、こうした生い立ちや“ドライ”とも取れる冒頭の言葉を考えると、ひたむきに主(豊臣家)のために尽くそうと思っていたわけではないのかもしれません。

幸村は主(豊臣家)という存在に忠誠を誓っていたのではなく、自らの信念に対して忠実な人だったのではないでしょうか。大坂冬の陣では、徳川家康は強敵である幸村を調略しようと、信濃一国を与えるので、徳川方に付くようにと勧誘します。しかし、それに対して幸村は、「父である昌幸が家康に立ち向かう志を持っていたことや、不遇をかこつ自分を一軍の将に取り立ててくれた豊臣に報いるため」として、次のように答えて断ったとされます。

「一旦の約の重きことを存じて較ぶれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分賜はるとも瓢(ひるがえ)し難し」(*)

幸村は自分の能力が生かせる戦場において、活躍の場を与えてくれたという点で、豊臣方に付いたのでしょう。

部下としての幸村、一軍の将(リーダー)としての幸村、それぞれの立場の生き方から、現代のリーダーは2つのことを学ぶことができます。

1つは、幸村のような才能ある人材を用いるためには、活躍の場を与えることが欠かせないということです。

もう1つは、リーダーには強い信念が欠かせないということです。幸村が現代でも人気を誇るのは、信念を貫き通した幸村に対して憧れる人が多いからでしょう。裏を返せば、それだけ多くの人が自分の信念を貫くことや、信念を持つことに対して難しさを感じているのかもしれません。だからこそ、強い信念を持っているリーダーの存在は、メンバーを引き寄せます。

しかし、常にリーダーの信念に共感し、フォローするメンバーばかりではありません。リーダーが信念に従って、既存事業を大きく変化させたり、前例の無い新しい事業に挑戦したりすることがあれば、反発するメンバーや、離脱するメンバーが出てくることもあります。たとえメンバーの離反を招いたとしても、決断に対して責任を取るのはリーダーであり、リーダーは自らの信念を貫くことに対して遠慮は不要です。

とはいえ、離反するメンバーを放っておけば、リーダーの信念に共感しているメンバーたちにもマイナスの影響を与える恐れがあり、組織全体の結束が乱れることにもつながりかねません。リーダーには、離反するメンバーの存在を認識し、そうしたメンバーの考えを知ることで、組織にマイナスの影響が及ばないように、うまくコントロールしていくことが求められるのです。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

さなだゆきむら(本名:真田信繁(さなだのぶしげ))(1567〜1615)。出生地不明(出生年や出生地には諸説あります)。大坂冬の陣、夏の陣にて徳川家康(とくがわいえやす)を大いに悩ませ、その活躍ぶりから日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と評された。

【参考文献】

(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
「産経新聞 東京朝刊(2000年10月3日・4日・5日付)」(産経新聞社、2000年10月)
「真田宝物館ウェブサイト」(長野市教育委員会 松代文化施設等管理事務所)

以上(2016年1月)

pj15198
画像:Josiah_S-shutterstock

坂本龍馬(幕末の志士)/経営のヒントとなる言葉

「天下に事をなす者ハ ねぶともよくゝはれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候」(*)

出所:「坂本乙女宛ての手紙(『七人の龍馬 坂本龍馬名言集』)」(講談社)

冒頭の言葉は、

  • 「時機を待って行動しなければ、事はうまく運ばない」

ということを表しています。

さまざまな人の協力を引き出しながら、新しい時代を導くために奮闘した龍馬。既存の常識にとらわれず、広い視野から日本や世界を見ていた龍馬は、現代のリーダーからも敬愛される偉人の1人です。

龍馬の代表的な功績として知られるのが、日本初の株式会社である亀山社中を設立したことです。亀山社中は、薩摩藩や商人などの援助を受けて結成された貿易会社ですが、単なるモノのやり取りだけではなく、海軍や航海術研修機関などの多様な機能を持ったユニークな組織でした。また、亀山社中が英国の商人グラバーの助力を得て海外から武器の調達を行い、長州藩へ提供したことによって、長州藩と薩摩藩との対立関係が緩和され、薩長同盟の設立に一役買ったのです。この亀山社中は後に海援隊として、再編されます。

海援隊には、龍馬を慕って個性豊かな人材が各地から集まっていました。陸奥宗光(むつむねみつ)を筆頭格に、明治維新後は国や地方で重責を担うことになる人材を輩出しています。基本的に、海援隊は龍馬のリーダーシップによって強い結束力を誇ったものの、個性豊かな人材が集まっていることもあってか、時にまとまりを欠くこともあり、次のようなエピソードも残っています。

海援隊の中には、もともとは佐幕派(幕府を補佐するの意味・幕府を擁護する勢力のこと)だった隊員が加わっていました。この隊員は他の隊員との折り合いが悪く、しばしば激論を交わすこともあったようです。そのため、他の隊員は、この隊員を追い出すように龍馬に訴えました。この訴えに対して龍馬は、次のように答えたといわれています。

「海援隊は政治研究所にあらず、航海の実習を目的とするものなり。主義の異同は敢えて問はず。隊中唯一人の佐幕の士を同化する能はずしてまた何をか為さんや(注)」(**)

龍馬は「目的が同じであれば、多少意見がぶつかることがあっても、構わない」と考えていました。さまざまな意見が飛び交い、目的を達成していくためにより良い方法を模索していく組織や、意見が違う者を自らのほうに引き寄せるほど魅力ある人材が集まる組織を目指していたのかもしれません。

目的を共有しながらも、各人がユニークな能力を発揮する組織は、多くのリーダーが理想とする組織ではないでしょうか。

ただし、組織は最初から互いの違いを認め合えるわけではありません。

最初の頃は、メンバーが遠慮して活発な意見が出なかったり、意見が出たとしてもまとまらず、メンバー同士で衝突したりするようなこともあります。リーダーはこうした衝突を避けようとするのではなく、互いに遠慮せずに意見できるような関係を築いていきましょう。例えば、メンバーの組み合わせに配慮したり、衝突によって関係が悪化しすぎないよう「違ってもいい。違いを認めることが大切」といったフォローをしたりするのです。

また、あらかじめこうした紆余曲折(うよきょくせつ)を経ることをチームのメンバーとも共有しておくことで、メンバーも組織の成長の過程として、衝突などの課題を乗り越えることができます。

組織が越えなければいけないステージを意識し、それに合わせてメンバーをフォローするリーダーの心配りが、目的に向かって前進する組織を育てるのです。

(注)引用元では旧漢字で記載されています。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

さかもとりょうま(1835〜1867)。土佐国(現高知県)生まれ。1866年、薩長同盟周旋。1867年、船中八策起草。

【参考文献】

(*)「七人の龍馬 坂本龍馬名言集」(出久根達郎編著、講談社、2009年12月)
(**)「坂本龍馬」(千頭清臣、博文館、1914年6月)
「高知県立坂本龍馬記念館ウェブサイト」(高知県立坂本龍馬記念館)

以上(2015年5月)

pj15197
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吉田松陰(幕末の思想家)/経営のヒントとなる言葉

「天下才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな」(*)

出所:「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(文藝春秋)

冒頭の言葉は、

  • 「優秀な人材が活躍できるか否かはリーダーの手腕によるところが大きい」

ということを表しています。

松陰は、幕末や明治維新をけん引した人材を輩出した松下村塾での指導が有名です。松陰は身分の上下や職業などを問わず塾生を受け入れ、自らも師匠というよりは学問を学ぶ同志として、塾生に接しました。

塾生を分け隔てなく扱い、謙虚に接するという松陰の姿勢は、次の言葉にも表れているでしょう。

「天の材を生ずるや、貴賤を別(わか)つなし」(*)

松陰は塾生の長所を見つけて、それを伸ばすことを旨としていました。また、「記憶力が悪く、学んだことがすぐに身に付かない」と悩む塾生に対しても、「記憶力が悪いほうが何度も復習するので、理解が深まる。事業にしろ、学問にしろ急ぐべからず」と諭すなど、寛大かつ前向きな姿勢で塾生を指導しました。

とはいえ、塾生の中でも、妹・文の夫である久坂玄瑞(くさかげんずい)や、高杉晋作など、傑出した才能を持つ塾生に対しては特別に目を掛けていたようです。そして、次のようなエピソードからは、見込みのある塾生を厳しく指導し、鍛えていたことがうかがえます。

松陰と玄瑞との出会いは、若き玄瑞が松陰に対して激しい攘夷論を訴えた手紙を送ったことがきっかけでした。松陰はこの手紙に対して、「上っ面の議論で、思慮が浅く、気骨があるように見せ掛けているが、実態は俗人と変わらない。自分はこういう人物を憎む」と厳しい口調で返信しました。松陰は玄瑞に非凡さを見いだし、気骨ある人物ならば、めげずに反論の手紙を送ってくるだろうと見込んで、わざと批判的に返信したのです。松陰の思惑通りに玄瑞は反論の手紙を送り、松下村塾に入門するに至りました。

また、高杉の場合、真剣に学問に取り組むように、高杉とは対照的な玄瑞ばかりをわざと褒めて、そのやる気に火をつけたのです。

組織には、2・6・2の法則が働くといわれています。これは、組織が2割の優秀な人たち、6割の普通の人たち、2割のあまりパッとしない人たちという、3つのグループで成り立っているというものです。そして、この中から優秀な2割の人たちやパッとしない2割の人たちを取り除いても、組織はやがては2・6・2の割合になっていきます。

2・6・2の法則を前提にすると、環境によって人は良いほうにも、悪いほうにも変わる可能性があるという見方ができます。現在はパッとしない2割の人に対しても、6割の普通の人へ、さらに2割の優秀な人へのステップアップを信じて、リーダーは諦めずに根気強く指導しなければなりません。

部下に根気強く指導する思いやりを持つ一方で、見込みのある優秀な部下だからこそ、リーダーは厳しく接する強さを持ちましょう。近ごろは「褒めて伸ばす」風潮が強いため、部下に厳しく接することに抵抗を感じるリーダーがいるかもしれません。

また、厳しく接することは大きなエネルギーを要します。単に部下を非難するのではなく、部下のことを考え、モチベーションをそがないように上手に叱ることが求められるなど、一義的には褒めることよりも、厳しく接することのほうが難しいといえるかもしれません。

しかし、リーダーが厳しく接することで、部下は責任の重さや自分の失敗について、強く認識することができます。リーダー自身も、部下時代にリーダーの厳しさに接して、悔しさやふがいなさを感じると同時に、成長の糧としてきたのではないでしょうか。

鉄は鍛えることによって不純物を取り除き、より強くしなやかに変化します。部下も同様に、リーダーに鍛えられることでビジネスの基本動作を身に付けた上で、もともと持っている自身の個性を発揮することができれば、大きく成長するはずです。

思いやりを持って根気強く指導するとともに、見込みのある塾生について厳しく接した松陰の指導スタイルは、現代のリーダーにとっても参考になるものでしょう。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

よしだしょういん(1830〜1859)。長門国(現山口県)生まれ。私塾「松下村塾」で講義を行い、高杉晋作(たかすぎしんさく)や伊藤博文(いとうひろぶみ)氏などの門下生を育成。

【参考文献】

(*)「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(関厚夫、文藝春秋、2007年8月)
「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」(一坂太郎、中央公論新社、2014年10月)
「松陰神社ウェブサイト」(松陰神社)

以上(2015年1月)

pj15191
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黒田長政(武将)/経営のヒントとなる言葉

「今夜は何事を言ひたりとも、重ねて意趣に残すべからず。又他言すべからず。勿論当座に腹を立つべからず。思ひ寄りたることを、必ず控え間敷(まじく)」(*)

出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)

冒頭の言葉は、

  • 「部下の“異見”こそがリーダーを成長させる」

ということを表しています。

知略に長け、人心掌握に優れていたとされる父親の官兵衛に比べると、長政は家臣との接し方に不器用なところがあったようです。

中でも、長政と折り合いの悪かった家臣が、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ。通称「又兵衛」)です。幼い頃、長政と又兵衛は兄弟同然に育ち、あるときまでは強い信頼関係で結ばれていましたが、2人は次第に対立するようになってしまいます。2人がいがみ合っていたエピソードには、次のようなものがあります。

朝鮮出兵の際、黒田家の陣営に大きな虎が現れ、大騒ぎになりました。又兵衛は怖気づく他の家臣を横目に、その虎を退治します。事の顛末(てんまつ)を見守っていた長政は、大勢の前で、「大将として、多くの者に手本を示す立場にもかかわらず、猛獣と勇を争うとは大人げない」と又兵衛を叱責したといわれています。

一方、又兵衛も、長政に黙って従っていたわけではありませんでした。又兵衛は、戦場において、敵将と組み合って川に落ちた長政を助けようとせず、ようやく相手を倒して岸に上がってきた長政に対して、「我らの主君は武勇に優れる人であるため、敵に引けを取るようなことはない。手出しは無用」と言い放ちました。一説には、このときのことを長政は深く恨んでおり、2人の対立は決定的なものとなったとされます。

官兵衛の死後、ついに又兵衛は黒田家を出奔します。そして、大坂の役が勃発すると、又兵衛は豊臣(とよとみ)方に加わり、家康についた長政とは敵同士として、戦うことになったのです。又兵衛は猛将の名に恥じぬ活躍を見せますが豊臣方は敗れ、又兵衛も戦場にて亡くなりました。一方、長政は太平の世で福岡藩発展の礎を築き、その名を後世に残しています。

又兵衛との仲たがいのように、時に家臣とぶつかることがあった長政ですが、家臣への接し方について、次のような言葉を残しています。

「大将は、わが家人をよく見知らざれば、わが家人によき者あれども用ゐず、かえって他所より浪人などを大祿を与へて招き寄することもあり。これまた、よき者ならば苦しからずといへども、わが家中のよき者を差し置きて、他所より招くは愚かなり」(**)

長政は家臣の声に耳を傾けようと努めており、福岡藩の藩主となった後は、「異見会」を設けました。

異見会では、「身分の上下に関係なく誰もが平等に意見を述べることができる」などの決まりの上で活発に意見が交わされ、長政も家臣の声を藩政に生かしました。冒頭の言葉も、異見会に際して発せられたものとされます。長政は家臣との接し方に苦手意識があったからこそ、このような制度を設けたのかもしれません。

いつの時代でも、リーダーと部下の間には、その立場の違いから相互のコミュニケーションに食い違いが生じるものではないでしょうか。そうした齟齬を解消するために、リーダーは部下に歩み寄り、“異見”を含めた部下の声を聞こうと、努めていると思います。

とはいえ、リーダーが歩み寄っても、必ずしも部下はそれに応えてくれるわけではありません。リーダーとしては、あまり意欲が感じられない部下よりも、意欲の高い部下に質・量の両面で仕事を任せるほうが、組織の成長に資すると考えるでしょう。その考えは間違いではありません。

ただし、特定の部下にだけ目を掛けると、他の部下が不満を抱きます。このようなとき、自分が「この部下だ!」と信じた相手に英才教育を施しつつ、その他の部下にも特別な役割を与え、リーダーと個々の部下とのコミュニケーションのバランスを上手に取る必要があります。リーダーは、全ての部下にチャンスと役割を与えますが、その内容は必ずしも平等なものではなく、部下の能力ややる気によって差をつけます。リーダーが、良い意味で“えこひいき”することが、組織の成長には必要なことがあります。

長政の「異見会」のように全員の意見に耳を傾けるのも一つ、自分が信じた部下の言葉に重点的に耳を傾けるのも一つです。いずれの場合も、リーダーは自身のマネジメントスタイルを確立し、貫かなければなりません。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

くろだながまさ(1568〜1623)。播磨国(現兵庫県)生まれ。黒田官兵衛(くろだかんべえ)の子。徳川家康(とくがわいえやす)についた関ヶ原の合戦での活躍から、筑前国(現福岡県)を与えられ、福岡藩の初代藩主に就いた。

【参考文献】

(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
(**)「名将名君に学ぶ 上司の心得」(童門冬二、PHP研究所、2007年5月)

以上(2014年12月)

pj15188
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北条氏康(武将)/経営のヒントとなる言葉

「主将の吏士を選ぶはこれ常なり。また吏士の主将を選ぶ時あり」(*)

出所:「名将名君に学ぶ 上司の心得」(PHP研究所)

冒頭の言葉は、

  • 「部下は常にリーダーの言動に注目しているものである」

ということを表しています。

氏康の名を高めた合戦に、関東管領であった上杉(うえすぎ)氏と古河公方(こがくぼう)の足利(あしかが)氏の連合軍を破った河越(かわごえ)の戦いがあります。

この時、河越城を包囲した敵兵8万に対して、北条側は8000ほどだったとされています。8万は誇張だったという説もありますが、兵力の差は明らかだったようです。

圧倒的な兵力の差を前にして、氏康は河越城の返上と降伏を申し出ることで敵を油断させ、夜襲をしかけました。敵は大軍といえども、寄り合い所帯であったこともあり、うまく連携できずに敗走し、氏康は見事勝利を手にしました。

その後、氏康は上杉謙信(うえすぎけんしん)、武田信玄(たけだしんげん)、今川義元(いまがわよしもと)などとの間で戦を交えることとなりますが、これらの強敵にも引かず、国力を拡大していきました。

氏康は常に先陣に立ち、敵に背中を向けなかったために、顔や体に複数の刀傷を負っていました。この傷は「氏康傷」と呼ばれ、その武功がたたえられました。

一方、領国経営においては、検地を徹底することで税制を簡素にしたり、いわゆる目安箱制度を設けて、領民の声に耳を傾けました。

家臣のマネジメントにおいても、用兵術で良い案があれば、身分を問わず、氏康に直接進言するよう伝えていたとされます。また、氏康は子の氏政(うじまさ)に対して、冒頭の言葉である「リーダー(主将)が部下(吏士)を選ぶのは当たり前のことだが、部下(吏士)もリーダー(主将)を選ぶことがある」として、日ごろから部下(吏士)を大切にするようにと諭しました。

氏康自身は家臣や領民の良き手本となり、名君として慕われましたが、その子である氏政の代に国運が傾きました。北条氏の居城は堅城として知られる小田原城であり、氏政も氏康からそれを引き継いでいました。氏政には小田原城に籠城することで、謙信と信玄の攻撃を退けた経験がありました。この経験が氏政の過信につながり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原攻めを招いたという見方もあるようです。

氏政は秀吉に抵抗した上、敗北を喫したため切腹を命じられました。氏政の子である氏直(うじなお)も高野山に追放された後に亡くなったことから、北条氏による関東支配は幕を閉じたのです。

氏政は、名君であった氏康に比べて主君としての能力に劣っていたとされ、氏康もその将来を案じていたようです。それは、氏康が氏政に向けて発したとされる、次の言葉からも見てとることができるでしょう。

「一度にて汁かけ飯の加減さえ出来ぬ性質にて、何とて八ヶ国の人々の善意を目利きできようぞ」(**)

これは、氏政が一回ではご飯にかける汁の量を加減できなかったことに対して、氏康がその将来を案じて発した言葉です。食事という日常でのささいなことと、領国経営を比べるのは少し大げさにも思えますが、ささいなことにも関心を持ち、気付く細やかさがなければ、リーダーは務まらないというふうに理解することもできるでしょう。

リーダーの仕事の一つに、事業を承継することが挙げられます。資金や事業を残すことに加えて、何よりも重要なのは次世代を担う後継者を選び、育成することです。

後継者には、先代(リーダー)から経営の要諦を学び、残されたものを守るとともに、情勢に機敏に反応し、柔軟に判断する能力を持っている人材がふさわしいといえるでしょう。後継者がリーダーとなる頃には、大きく自社を取り巻く環境が変化している可能性もあります。先代(リーダー)の頃にはうまくいっていたからといって、前例を踏襲するだけではなく、環境に合わせて先代(リーダー)のやり方を変えていくことも後継者には求められます。

先代(リーダー)には、自社の守るべきものを守ると同時に、そうした守るべきものを変え、自社を新たなステージへと導く能力を持った人物を後継者として選び、育成することが課せられているのです。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

ほうじょううじやす(1515〜1571)。相模国(現神奈川県)生まれ。1546年、河越の戦いに勝利。

【参考文献】

(*)「名将名君に学ぶ 上司の心得」(童門冬二、PHP研究所、2007年5月)
(**)「佐賀新聞(2001年3月1日付)」(佐賀新聞社、2001年3月)
「小田原市公式ホームページ」(神奈川県小田原市)

以上(2014年9月)

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武田信玄(武将)/経営のヒントとなる言葉

「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」(*)

出所:「歴史を動かした名言」(筑摩書房)

冒頭の言葉は、

  • 「『人』は、用い方によっては城・石垣・堀など、合戦の際に重要なものに成り得る。だからこそ、平素からの人材育成が重要となる」

ということを表しています(この言葉は後世の人によってつくられたという説もありますが、ここでは信玄の言葉とします)。

信玄が生まれた当時、甲斐国(現山梨県)ではさまざまな勢力が乱立し、争いを続けていました。こうした中、信玄の父親の守護大名・武田信虎(たけだのぶとら)は、これらの勢力を破り、甲斐国の統一を達成しました。しかし、その後、信玄や家臣団との確執が深まり、ついには信玄によって甲斐国を追放されることとなってしまいます。

信虎は、戦費の調達のために領民に重税を課していたため、領内には大きな不満がありました。このため、信虎を追放した後に武田家の当主となった信玄は、家臣と力を合わせ、領民の生活を安定させて人心を収攬(しゅうらん)することに努めました。

甲斐国は、そのほとんどが山岳地帯で占められていたため、耕地は少なく、領民は苦しい生活を余儀なくされていました。また、領内を流れる笛吹川などは水量が増える雨季には氾濫する危険をはらんでいました。そのため、信玄はろうそくや和紙などの付加価値の高い特産品の生産を奨励し、他国に販売して経済活動の活性化を図りました。また、氾濫の危険があった川には堤防をつくり、水防林を植えて洪水対策を取りました。信玄によって築かれたこれらの堤防は、現在も「信玄堤」として残っています。このように、信玄は民政に力を入れたため、領民に慕われ、甲斐国のまとまりは強固になりました。

また、信玄は、日本の歴史における武将の中でも「家臣を大切にした」ことで知られています。その一例として、部下を見た目や表面上の言葉などではなく、本質をもって評価したことが挙げられます。例えば、万事において遠慮深い家臣がいた場合について考えてみましょう。合戦の場面では、このような性格の家臣は「臆病者」と見られやすいものです。しかし、信玄はこうした家臣を「思慮深い」と判断しました。「思慮深い者は常にあらゆることに対して慎重であるため、万全の態勢を整えて事に臨むだろう」と考えたのです。このため、家臣は「信玄の下にいれば、外面ではなく本質を見抜いて判断してくれる」と考えて一層発奮しました。

信玄は、行政および軍事を効果的に運用するべく、武田家を強固な組織としてつくり上げ、合議制を採用して部下の意見を積極的に取り入れました。信玄は一軍の将でありながら、家臣とくつろいだ雰囲気で座談を行うことを好みました。その際、自身がこれまでの経験から学んだ知恵などを家臣に説いたり、逆に家臣の意見に耳を傾けたりしました。このような場を通じて信玄の肉声に触れることで、家臣はさらに武田家に対する帰属意識を高めていきました。

後に、信玄は、次のような言葉を残しています。

「いやしくも晴信(信玄)、人のつかいようは、人をばつかわず、わざをつかうぞ」(**)

これは、人を使う際には、その人の肩書や性格、見た目ではなく、その人の「わざ(才能)」を用いるべきということを表しています。

信玄は、家臣の持つ長所を見抜いてそれを活用することで、家臣の自発的なやる気を促し、組織のパフォーマンスを最大限に高めたのです。

戦国時代、武田家の家臣は、その高い戦闘力と強い団結力から「武田軍団」として他の武将たちから恐れられていました。信玄の巧みな組織づくりの手腕と部下に対する細やかな配慮が、武田家の家臣を強力にまとめ上げ、最強集団としての武田軍団をつくり上げたといえるでしょう。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

たけだしんげん(本名は武田晴信(たけだはるのぶ)。本稿では「信玄」)(1521~1573)。甲斐国(現山梨県)生まれ。治国安民を図るべく、富国政策に力を注ぐ。戦国時代を代表する戦略家として有名。

【参考文献】

(*)「歴史を動かした名言」(武光誠、筑摩書房、2005年7月)
(**)「山本七平の武田信玄論 乱世の帝王学」(山本七平、角川書店、2006年12月)
「戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く」(童門冬二、ダイヤモンド社、2011年3月)
「歴史博物館信玄公宝物館ウェブサイト」(財団法人歴史博物館信玄公宝物館)
「甲府市公式ホームページ」(山梨県甲府市)

以上(2013年3月)

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