うまく機能する組織、成員が幸せになる組織とはどのようなものか。この難問の答えを、まったく正反対の立場にある『論語』と『韓非子』を読み解きながら、守屋淳が導き出していくシリーズです。
1 覇道と王道の併用
前回、法治と徳治の円環という問題を取り上げましたが、この対処にはいくつか方法があります。
まず、こうした法治と徳治の繰り返しを「仕方がない」とあきらめ、そのなかでの最善を目指すというやり方があります。企業でいえば、
「組織が大きくなれば、業務上の創意工夫や挑戦が減ったり、部門間の協調や協働が少なくなったりといった大企業病にかかるのは、ある程度やむを得ない。ジタバタとその発病を防ごうとするよりも、万一かかってしまったときに、うまく対策を取ることを考えよう」
という感じでしょうか。これはいわば状況対応的な思考になります。
逆に、もう少し根本的なところを考えて、
「こうした法治と徳治の繰り返しに飲み込まれることのない、末永く繁栄が続く組織が作れないのだろうか」
という探求をした動きが、歴史的にはありました。そのいくつかの試みを、ご紹介したいと思います。
前漢王朝において中興の祖といわれている宣帝という皇帝がいます。一般にはあまり有名ではないのですが、かなりの名君であり、彼は皇太子とこんな問答を交わしたことがあります。
宣帝の皇太子である元帝は、やさしい性格で、儒教を好んでいました。彼からすれば、父である宣帝のやり方は、法治の官僚ばかり多く、法によって家臣を支配しているようにしか見えませんでした。
ある日、酒宴の席をかりて、皇太子は控えめな口調で宣帝にこう述べました。
「陛下は、刑罰に頼り過ぎていらっしゃるのではないでしょうか。ぜひとも儒者をもう少し登用なさってください」
宣帝は顔色を変えて、こう言いました。
「漢家、自ずから制度あり。もとより覇王の道、以ってこれを雑(まじ)う(わが漢の王家には、ふさわしい制度がある。それが覇道と王道の併用だ。どうして徳治だけで、周代の政治のまねごとなどしようか)
だいたい儒者というのは、いま何が必要なのかをまったく理解していない。『昔はよかったが、今はダメだ』というばかりで、人の価値判断を迷わせ、肝心なところをわからないようにしてしまう。どうして任せるに足るであろうか」
そして、ため息をつきながら、こう言ったのです。
「わが漢の王家を混乱に陥れるのは皇太子であろう」――
実際、前漢王朝は元帝の頃から衰えが始まり、その死後40年ほどで、いったん滅亡してしまいました。
そして、ここで述べている「覇道と王道の併用(覇王の道)」こそ、法治と徳治の繰り返しに飲み込まれない組織の形として考えられたものなのです。
時代は下り、宋王朝で宰相を務めた呂蒙正(りょもうせい)にも次のような端的な言葉があります。
- 国を治むるの道は、寛(かん)猛(もう)、中(ちゅう)を得(う)るに在り(国を治める道とは、寛大さと厳しさ、その中庸を取ることにある)『宋名臣言行録(そうめいしんげんこうろく)』
ここでいう「寛(寛大さ)」とは徳治、「猛(厳しさ)」とは法治のことをそれぞれ意味します。
では、いったい両者はどう併用すればいいのでしょう。まず単純に考えられるのは、「おどし役となだめ役」「父親役と母親役」という言葉があるように、
- 組織を引き締める厳しいタイプ
- 逆に愛情深く部下を励ますタイプ
の二人を置いて、円滑な組織運営を図るという形が考えられます。
こうした使い分けは、企業などの組織ではごく普通に見られるものであり、筆者も企業研修で「組織のまとめ方」についての課題を出すと、こうした観点からの回答を書いてくる受講者が少なくありません。
一方、歴史的に見ると、もう少し違った観点から「覇王の道」「寛猛、中を得る」の道を達成しようとした方法がありました。
それは、法治と徳治のどちらかをベースにして、一方を上に乗せるというやり方。
法治をベースにした場合、パイが広がり続けない限り、どこかで行き詰まってしまいます。そうなると、次の二通りの考え方が出てきます。
1)パイの広がりが行き詰まらない形を作って、法治をベースにする
2)パイに限界があるなら、徳治をベースにしてその問題が顕在化しない仕組みを作る
まず、1)に該当すると考えられる例が、古代ローマにあります。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でもお馴染みなように、古代ローマは共和政期から帝政期にかけて数百年にもおよぶ繁栄を誇りました。そして、そこで大きな原動力になったのが次の要素でした。
「尽きにくいパイとしての〈権利〉」
われわれはいま、投票するのも、好きなところに住めるのも、結婚相手を選べるのも、旅行するのも皆自由だと思っていますが、古代はそうではありませんでした。
そういった権利は、地位や身分が高ければ持てましたし、低ければまったく持っていないか、その一部しか持てませんでした。前者がローマ市民、後者が奴隷だと思って頂ければわかりやすいと思います。こうした権利の格差は都市にもありました。言葉を換えれば、
「自由=権利の束」
と考えられていたわけです。
そして同時に、こうした権利は、ローマに対して功績をあげていくと手に入るという仕組みにもなっていました。つまり抽象的な「権利」を賞の一つに据えた、と解釈できるのです。
だからこそ、その原資は尽きにくく、ローマ帝国は長い繁栄を享受できたという側面があります。これは中国などにも類例のない、きわめて独創的な手法だと筆者は考えています。
2 制度は性悪説、運用は性善説
さて、もう一つの2)の方です。問題となるのは徳治が必然的に孕んでしまう、
- 有徳者が続かない
- 有徳者が心変わりする
- 現場の暴走を止められない
- 先輩の悪事を表に出せない
といった問題点をどう処理していくか、という点。この問題に関しては、次のような指摘があります。
《ある程度まで「人を疑う心の制度化」が必要だ。どういう制度かというと、いざ、悪人が出たときには機能するが、普段は、人を信用している証拠として形式的にしか機能しないという、なかなかバランスが微妙な制度である》『誰のための会社にするか』ロナルド・ドーア 岩波書店
《制度は性悪説、運用は性善説》『交渉術』佐藤優 文藝春秋
後者の引用は、多額の裏金を扱う情報機関の職員が不正をしていないかを、どうチェックするのか、という内容からの指摘ですが、簡単にいえば、資金を自由に扱わせる代わりに、定期的に非常に厳しいチェックを入れるというもの。つまり、
「基本的には信用をベースとした徳治で組織を運営する。しかし、いざ問題が出たときに、それが取り除けるような法治的な制度や保険を事前に作っておき、それを発動させる」
という仕組みを作ればよい、という話なのです。
では、会社においても、これと似たような仕組みを作っておけば万事うまくいくか、といえば、残念ながらそうとは限りません。これは、次のような問題と関わってきます。
「どんな制度も、それを使う側によき人間がいなければ、うまく機能しない」
現代においては、一定規模以上の企業になれば「コンプライアンス室」や「外部取締役」といったお目付役が、当たり前ですが存在しています。しかし、和の組織特有の「なあなあ」の状態に取り込まれてしまい、
「権力者がどうしようもないため、組織がボロボロになっているが、わが身可愛さで誰も首に鈴をつけにいけない」
「本来は、組織の膿(うみ)を出し切ってしまわなければならないのに、お世話になった先輩を裏切れず、問題が先送りになってしまう」
といった状態に陥りがちなのです。実際、某大手メーカーの外部取締役のほとんどが、社長のゴルフ友達といった実例もあるわけです……
筆者は先日、会社の立て直しを専門とする方とお話をしたのですが、こんな興味深い指摘をされていました。
「業績が悪くてどうしようもなくなった会社というのは、なかに入ってみると、不思議と皆仲がよくて職場の和が保たれているんです。それは、とても不思議な光景ですよ」
繰り返しになりますが、どんな素晴らしい仕組みを作っても、それを運営する側に人を得ていなければ、残念ながら宝の持ち腐れになってしまうのです。徳治をベースにしたよき組織を構築・維持したければ、その要は人材の選抜と育成にある――これが、最終的な結論として浮かびあがってくるのです。
以上
※上記内容は、本文中に特別な断りがない限り、2019年1月8日時点のものであり、将来変更される可能性があります。
※上記内容は、株式会社日本情報マートまたは執筆者が作成したものであり、りそな銀行の見解を示しているものではございません。上記内容に関するお問い合わせなどは、お手数ですが下記の電子メールアドレスあてにご連絡をお願いいたします。
【電子メールでのお問い合わせ先】
inquiry01@jim.jp
(株式会社日本情報マートが、皆様からのお問い合わせを承ります。なお、株式会社日本情報マートの会社概要は、ウェブサイト https://www.jim.jp/company/をご覧ください)
ご回答は平日午前10:00~18:00とさせていただいておりますので、ご了承ください。