坂本龍馬(幕末の志士)/経営のヒントとなる言葉

「天下に事をなす者ハ ねぶともよくゝはれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候」(*)

出所:「坂本乙女宛ての手紙(『七人の龍馬 坂本龍馬名言集』)」(講談社)

冒頭の言葉は、

  • 「時機を待って行動しなければ、事はうまく運ばない」

ということを表しています。

さまざまな人の協力を引き出しながら、新しい時代を導くために奮闘した龍馬。既存の常識にとらわれず、広い視野から日本や世界を見ていた龍馬は、現代のリーダーからも敬愛される偉人の1人です。

龍馬の代表的な功績として知られるのが、日本初の株式会社である亀山社中を設立したことです。亀山社中は、薩摩藩や商人などの援助を受けて結成された貿易会社ですが、単なるモノのやり取りだけではなく、海軍や航海術研修機関などの多様な機能を持ったユニークな組織でした。また、亀山社中が英国の商人グラバーの助力を得て海外から武器の調達を行い、長州藩へ提供したことによって、長州藩と薩摩藩との対立関係が緩和され、薩長同盟の設立に一役買ったのです。この亀山社中は後に海援隊として、再編されます。

海援隊には、龍馬を慕って個性豊かな人材が各地から集まっていました。陸奥宗光(むつむねみつ)を筆頭格に、明治維新後は国や地方で重責を担うことになる人材を輩出しています。基本的に、海援隊は龍馬のリーダーシップによって強い結束力を誇ったものの、個性豊かな人材が集まっていることもあってか、時にまとまりを欠くこともあり、次のようなエピソードも残っています。

海援隊の中には、もともとは佐幕派(幕府を補佐するの意味・幕府を擁護する勢力のこと)だった隊員が加わっていました。この隊員は他の隊員との折り合いが悪く、しばしば激論を交わすこともあったようです。そのため、他の隊員は、この隊員を追い出すように龍馬に訴えました。この訴えに対して龍馬は、次のように答えたといわれています。

「海援隊は政治研究所にあらず、航海の実習を目的とするものなり。主義の異同は敢えて問はず。隊中唯一人の佐幕の士を同化する能はずしてまた何をか為さんや(注)」(**)

龍馬は「目的が同じであれば、多少意見がぶつかることがあっても、構わない」と考えていました。さまざまな意見が飛び交い、目的を達成していくためにより良い方法を模索していく組織や、意見が違う者を自らのほうに引き寄せるほど魅力ある人材が集まる組織を目指していたのかもしれません。

目的を共有しながらも、各人がユニークな能力を発揮する組織は、多くのリーダーが理想とする組織ではないでしょうか。

ただし、組織は最初から互いの違いを認め合えるわけではありません。

最初の頃は、メンバーが遠慮して活発な意見が出なかったり、意見が出たとしてもまとまらず、メンバー同士で衝突したりするようなこともあります。リーダーはこうした衝突を避けようとするのではなく、互いに遠慮せずに意見できるような関係を築いていきましょう。例えば、メンバーの組み合わせに配慮したり、衝突によって関係が悪化しすぎないよう「違ってもいい。違いを認めることが大切」といったフォローをしたりするのです。

また、あらかじめこうした紆余曲折(うよきょくせつ)を経ることをチームのメンバーとも共有しておくことで、メンバーも組織の成長の過程として、衝突などの課題を乗り越えることができます。

組織が越えなければいけないステージを意識し、それに合わせてメンバーをフォローするリーダーの心配りが、目的に向かって前進する組織を育てるのです。

(注)引用元では旧漢字で記載されています。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

さかもとりょうま(1835〜1867)。土佐国(現高知県)生まれ。1866年、薩長同盟周旋。1867年、船中八策起草。

【参考文献】

(*)「七人の龍馬 坂本龍馬名言集」(出久根達郎編著、講談社、2009年12月)
(**)「坂本龍馬」(千頭清臣、博文館、1914年6月)
「高知県立坂本龍馬記念館ウェブサイト」(高知県立坂本龍馬記念館)

以上(2015年5月)

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吉田松陰(幕末の思想家)/経営のヒントとなる言葉

「天下才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな」(*)

出所:「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(文藝春秋)

冒頭の言葉は、

  • 「優秀な人材が活躍できるか否かはリーダーの手腕によるところが大きい」

ということを表しています。

松陰は、幕末や明治維新をけん引した人材を輩出した松下村塾での指導が有名です。松陰は身分の上下や職業などを問わず塾生を受け入れ、自らも師匠というよりは学問を学ぶ同志として、塾生に接しました。

塾生を分け隔てなく扱い、謙虚に接するという松陰の姿勢は、次の言葉にも表れているでしょう。

「天の材を生ずるや、貴賤を別(わか)つなし」(*)

松陰は塾生の長所を見つけて、それを伸ばすことを旨としていました。また、「記憶力が悪く、学んだことがすぐに身に付かない」と悩む塾生に対しても、「記憶力が悪いほうが何度も復習するので、理解が深まる。事業にしろ、学問にしろ急ぐべからず」と諭すなど、寛大かつ前向きな姿勢で塾生を指導しました。

とはいえ、塾生の中でも、妹・文の夫である久坂玄瑞(くさかげんずい)や、高杉晋作など、傑出した才能を持つ塾生に対しては特別に目を掛けていたようです。そして、次のようなエピソードからは、見込みのある塾生を厳しく指導し、鍛えていたことがうかがえます。

松陰と玄瑞との出会いは、若き玄瑞が松陰に対して激しい攘夷論を訴えた手紙を送ったことがきっかけでした。松陰はこの手紙に対して、「上っ面の議論で、思慮が浅く、気骨があるように見せ掛けているが、実態は俗人と変わらない。自分はこういう人物を憎む」と厳しい口調で返信しました。松陰は玄瑞に非凡さを見いだし、気骨ある人物ならば、めげずに反論の手紙を送ってくるだろうと見込んで、わざと批判的に返信したのです。松陰の思惑通りに玄瑞は反論の手紙を送り、松下村塾に入門するに至りました。

また、高杉の場合、真剣に学問に取り組むように、高杉とは対照的な玄瑞ばかりをわざと褒めて、そのやる気に火をつけたのです。

組織には、2・6・2の法則が働くといわれています。これは、組織が2割の優秀な人たち、6割の普通の人たち、2割のあまりパッとしない人たちという、3つのグループで成り立っているというものです。そして、この中から優秀な2割の人たちやパッとしない2割の人たちを取り除いても、組織はやがては2・6・2の割合になっていきます。

2・6・2の法則を前提にすると、環境によって人は良いほうにも、悪いほうにも変わる可能性があるという見方ができます。現在はパッとしない2割の人に対しても、6割の普通の人へ、さらに2割の優秀な人へのステップアップを信じて、リーダーは諦めずに根気強く指導しなければなりません。

部下に根気強く指導する思いやりを持つ一方で、見込みのある優秀な部下だからこそ、リーダーは厳しく接する強さを持ちましょう。近ごろは「褒めて伸ばす」風潮が強いため、部下に厳しく接することに抵抗を感じるリーダーがいるかもしれません。

また、厳しく接することは大きなエネルギーを要します。単に部下を非難するのではなく、部下のことを考え、モチベーションをそがないように上手に叱ることが求められるなど、一義的には褒めることよりも、厳しく接することのほうが難しいといえるかもしれません。

しかし、リーダーが厳しく接することで、部下は責任の重さや自分の失敗について、強く認識することができます。リーダー自身も、部下時代にリーダーの厳しさに接して、悔しさやふがいなさを感じると同時に、成長の糧としてきたのではないでしょうか。

鉄は鍛えることによって不純物を取り除き、より強くしなやかに変化します。部下も同様に、リーダーに鍛えられることでビジネスの基本動作を身に付けた上で、もともと持っている自身の個性を発揮することができれば、大きく成長するはずです。

思いやりを持って根気強く指導するとともに、見込みのある塾生について厳しく接した松陰の指導スタイルは、現代のリーダーにとっても参考になるものでしょう。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

よしだしょういん(1830〜1859)。長門国(現山口県)生まれ。私塾「松下村塾」で講義を行い、高杉晋作(たかすぎしんさく)や伊藤博文(いとうひろぶみ)氏などの門下生を育成。

【参考文献】

(*)「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(関厚夫、文藝春秋、2007年8月)
「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」(一坂太郎、中央公論新社、2014年10月)
「松陰神社ウェブサイト」(松陰神社)

以上(2015年1月)

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黒田長政(武将)/経営のヒントとなる言葉

「今夜は何事を言ひたりとも、重ねて意趣に残すべからず。又他言すべからず。勿論当座に腹を立つべからず。思ひ寄りたることを、必ず控え間敷(まじく)」(*)

出所:「戦国武将のひとこと」(丸善)

冒頭の言葉は、

  • 「部下の“異見”こそがリーダーを成長させる」

ということを表しています。

知略に長け、人心掌握に優れていたとされる父親の官兵衛に比べると、長政は家臣との接し方に不器用なところがあったようです。

中でも、長政と折り合いの悪かった家臣が、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ。通称「又兵衛」)です。幼い頃、長政と又兵衛は兄弟同然に育ち、あるときまでは強い信頼関係で結ばれていましたが、2人は次第に対立するようになってしまいます。2人がいがみ合っていたエピソードには、次のようなものがあります。

朝鮮出兵の際、黒田家の陣営に大きな虎が現れ、大騒ぎになりました。又兵衛は怖気づく他の家臣を横目に、その虎を退治します。事の顛末(てんまつ)を見守っていた長政は、大勢の前で、「大将として、多くの者に手本を示す立場にもかかわらず、猛獣と勇を争うとは大人げない」と又兵衛を叱責したといわれています。

一方、又兵衛も、長政に黙って従っていたわけではありませんでした。又兵衛は、戦場において、敵将と組み合って川に落ちた長政を助けようとせず、ようやく相手を倒して岸に上がってきた長政に対して、「我らの主君は武勇に優れる人であるため、敵に引けを取るようなことはない。手出しは無用」と言い放ちました。一説には、このときのことを長政は深く恨んでおり、2人の対立は決定的なものとなったとされます。

官兵衛の死後、ついに又兵衛は黒田家を出奔します。そして、大坂の役が勃発すると、又兵衛は豊臣(とよとみ)方に加わり、家康についた長政とは敵同士として、戦うことになったのです。又兵衛は猛将の名に恥じぬ活躍を見せますが豊臣方は敗れ、又兵衛も戦場にて亡くなりました。一方、長政は太平の世で福岡藩発展の礎を築き、その名を後世に残しています。

又兵衛との仲たがいのように、時に家臣とぶつかることがあった長政ですが、家臣への接し方について、次のような言葉を残しています。

「大将は、わが家人をよく見知らざれば、わが家人によき者あれども用ゐず、かえって他所より浪人などを大祿を与へて招き寄することもあり。これまた、よき者ならば苦しからずといへども、わが家中のよき者を差し置きて、他所より招くは愚かなり」(**)

長政は家臣の声に耳を傾けようと努めており、福岡藩の藩主となった後は、「異見会」を設けました。

異見会では、「身分の上下に関係なく誰もが平等に意見を述べることができる」などの決まりの上で活発に意見が交わされ、長政も家臣の声を藩政に生かしました。冒頭の言葉も、異見会に際して発せられたものとされます。長政は家臣との接し方に苦手意識があったからこそ、このような制度を設けたのかもしれません。

いつの時代でも、リーダーと部下の間には、その立場の違いから相互のコミュニケーションに食い違いが生じるものではないでしょうか。そうした齟齬を解消するために、リーダーは部下に歩み寄り、“異見”を含めた部下の声を聞こうと、努めていると思います。

とはいえ、リーダーが歩み寄っても、必ずしも部下はそれに応えてくれるわけではありません。リーダーとしては、あまり意欲が感じられない部下よりも、意欲の高い部下に質・量の両面で仕事を任せるほうが、組織の成長に資すると考えるでしょう。その考えは間違いではありません。

ただし、特定の部下にだけ目を掛けると、他の部下が不満を抱きます。このようなとき、自分が「この部下だ!」と信じた相手に英才教育を施しつつ、その他の部下にも特別な役割を与え、リーダーと個々の部下とのコミュニケーションのバランスを上手に取る必要があります。リーダーは、全ての部下にチャンスと役割を与えますが、その内容は必ずしも平等なものではなく、部下の能力ややる気によって差をつけます。リーダーが、良い意味で“えこひいき”することが、組織の成長には必要なことがあります。

長政の「異見会」のように全員の意見に耳を傾けるのも一つ、自分が信じた部下の言葉に重点的に耳を傾けるのも一つです。いずれの場合も、リーダーは自身のマネジメントスタイルを確立し、貫かなければなりません。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

くろだながまさ(1568〜1623)。播磨国(現兵庫県)生まれ。黒田官兵衛(くろだかんべえ)の子。徳川家康(とくがわいえやす)についた関ヶ原の合戦での活躍から、筑前国(現福岡県)を与えられ、福岡藩の初代藩主に就いた。

【参考文献】

(*)「戦国武将のひとこと」(鳴瀬速夫、丸善、1993年6月)
(**)「名将名君に学ぶ 上司の心得」(童門冬二、PHP研究所、2007年5月)

以上(2014年12月)

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北条氏康(武将)/経営のヒントとなる言葉

「主将の吏士を選ぶはこれ常なり。また吏士の主将を選ぶ時あり」(*)

出所:「名将名君に学ぶ 上司の心得」(PHP研究所)

冒頭の言葉は、

  • 「部下は常にリーダーの言動に注目しているものである」

ということを表しています。

氏康の名を高めた合戦に、関東管領であった上杉(うえすぎ)氏と古河公方(こがくぼう)の足利(あしかが)氏の連合軍を破った河越(かわごえ)の戦いがあります。

この時、河越城を包囲した敵兵8万に対して、北条側は8000ほどだったとされています。8万は誇張だったという説もありますが、兵力の差は明らかだったようです。

圧倒的な兵力の差を前にして、氏康は河越城の返上と降伏を申し出ることで敵を油断させ、夜襲をしかけました。敵は大軍といえども、寄り合い所帯であったこともあり、うまく連携できずに敗走し、氏康は見事勝利を手にしました。

その後、氏康は上杉謙信(うえすぎけんしん)、武田信玄(たけだしんげん)、今川義元(いまがわよしもと)などとの間で戦を交えることとなりますが、これらの強敵にも引かず、国力を拡大していきました。

氏康は常に先陣に立ち、敵に背中を向けなかったために、顔や体に複数の刀傷を負っていました。この傷は「氏康傷」と呼ばれ、その武功がたたえられました。

一方、領国経営においては、検地を徹底することで税制を簡素にしたり、いわゆる目安箱制度を設けて、領民の声に耳を傾けました。

家臣のマネジメントにおいても、用兵術で良い案があれば、身分を問わず、氏康に直接進言するよう伝えていたとされます。また、氏康は子の氏政(うじまさ)に対して、冒頭の言葉である「リーダー(主将)が部下(吏士)を選ぶのは当たり前のことだが、部下(吏士)もリーダー(主将)を選ぶことがある」として、日ごろから部下(吏士)を大切にするようにと諭しました。

氏康自身は家臣や領民の良き手本となり、名君として慕われましたが、その子である氏政の代に国運が傾きました。北条氏の居城は堅城として知られる小田原城であり、氏政も氏康からそれを引き継いでいました。氏政には小田原城に籠城することで、謙信と信玄の攻撃を退けた経験がありました。この経験が氏政の過信につながり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原攻めを招いたという見方もあるようです。

氏政は秀吉に抵抗した上、敗北を喫したため切腹を命じられました。氏政の子である氏直(うじなお)も高野山に追放された後に亡くなったことから、北条氏による関東支配は幕を閉じたのです。

氏政は、名君であった氏康に比べて主君としての能力に劣っていたとされ、氏康もその将来を案じていたようです。それは、氏康が氏政に向けて発したとされる、次の言葉からも見てとることができるでしょう。

「一度にて汁かけ飯の加減さえ出来ぬ性質にて、何とて八ヶ国の人々の善意を目利きできようぞ」(**)

これは、氏政が一回ではご飯にかける汁の量を加減できなかったことに対して、氏康がその将来を案じて発した言葉です。食事という日常でのささいなことと、領国経営を比べるのは少し大げさにも思えますが、ささいなことにも関心を持ち、気付く細やかさがなければ、リーダーは務まらないというふうに理解することもできるでしょう。

リーダーの仕事の一つに、事業を承継することが挙げられます。資金や事業を残すことに加えて、何よりも重要なのは次世代を担う後継者を選び、育成することです。

後継者には、先代(リーダー)から経営の要諦を学び、残されたものを守るとともに、情勢に機敏に反応し、柔軟に判断する能力を持っている人材がふさわしいといえるでしょう。後継者がリーダーとなる頃には、大きく自社を取り巻く環境が変化している可能性もあります。先代(リーダー)の頃にはうまくいっていたからといって、前例を踏襲するだけではなく、環境に合わせて先代(リーダー)のやり方を変えていくことも後継者には求められます。

先代(リーダー)には、自社の守るべきものを守ると同時に、そうした守るべきものを変え、自社を新たなステージへと導く能力を持った人物を後継者として選び、育成することが課せられているのです。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

ほうじょううじやす(1515〜1571)。相模国(現神奈川県)生まれ。1546年、河越の戦いに勝利。

【参考文献】

(*)「名将名君に学ぶ 上司の心得」(童門冬二、PHP研究所、2007年5月)
(**)「佐賀新聞(2001年3月1日付)」(佐賀新聞社、2001年3月)
「小田原市公式ホームページ」(神奈川県小田原市)

以上(2014年9月)

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武田信玄(武将)/経営のヒントとなる言葉

「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」(*)

出所:「歴史を動かした名言」(筑摩書房)

冒頭の言葉は、

  • 「『人』は、用い方によっては城・石垣・堀など、合戦の際に重要なものに成り得る。だからこそ、平素からの人材育成が重要となる」

ということを表しています(この言葉は後世の人によってつくられたという説もありますが、ここでは信玄の言葉とします)。

信玄が生まれた当時、甲斐国(現山梨県)ではさまざまな勢力が乱立し、争いを続けていました。こうした中、信玄の父親の守護大名・武田信虎(たけだのぶとら)は、これらの勢力を破り、甲斐国の統一を達成しました。しかし、その後、信玄や家臣団との確執が深まり、ついには信玄によって甲斐国を追放されることとなってしまいます。

信虎は、戦費の調達のために領民に重税を課していたため、領内には大きな不満がありました。このため、信虎を追放した後に武田家の当主となった信玄は、家臣と力を合わせ、領民の生活を安定させて人心を収攬(しゅうらん)することに努めました。

甲斐国は、そのほとんどが山岳地帯で占められていたため、耕地は少なく、領民は苦しい生活を余儀なくされていました。また、領内を流れる笛吹川などは水量が増える雨季には氾濫する危険をはらんでいました。そのため、信玄はろうそくや和紙などの付加価値の高い特産品の生産を奨励し、他国に販売して経済活動の活性化を図りました。また、氾濫の危険があった川には堤防をつくり、水防林を植えて洪水対策を取りました。信玄によって築かれたこれらの堤防は、現在も「信玄堤」として残っています。このように、信玄は民政に力を入れたため、領民に慕われ、甲斐国のまとまりは強固になりました。

また、信玄は、日本の歴史における武将の中でも「家臣を大切にした」ことで知られています。その一例として、部下を見た目や表面上の言葉などではなく、本質をもって評価したことが挙げられます。例えば、万事において遠慮深い家臣がいた場合について考えてみましょう。合戦の場面では、このような性格の家臣は「臆病者」と見られやすいものです。しかし、信玄はこうした家臣を「思慮深い」と判断しました。「思慮深い者は常にあらゆることに対して慎重であるため、万全の態勢を整えて事に臨むだろう」と考えたのです。このため、家臣は「信玄の下にいれば、外面ではなく本質を見抜いて判断してくれる」と考えて一層発奮しました。

信玄は、行政および軍事を効果的に運用するべく、武田家を強固な組織としてつくり上げ、合議制を採用して部下の意見を積極的に取り入れました。信玄は一軍の将でありながら、家臣とくつろいだ雰囲気で座談を行うことを好みました。その際、自身がこれまでの経験から学んだ知恵などを家臣に説いたり、逆に家臣の意見に耳を傾けたりしました。このような場を通じて信玄の肉声に触れることで、家臣はさらに武田家に対する帰属意識を高めていきました。

後に、信玄は、次のような言葉を残しています。

「いやしくも晴信(信玄)、人のつかいようは、人をばつかわず、わざをつかうぞ」(**)

これは、人を使う際には、その人の肩書や性格、見た目ではなく、その人の「わざ(才能)」を用いるべきということを表しています。

信玄は、家臣の持つ長所を見抜いてそれを活用することで、家臣の自発的なやる気を促し、組織のパフォーマンスを最大限に高めたのです。

戦国時代、武田家の家臣は、その高い戦闘力と強い団結力から「武田軍団」として他の武将たちから恐れられていました。信玄の巧みな組織づくりの手腕と部下に対する細やかな配慮が、武田家の家臣を強力にまとめ上げ、最強集団としての武田軍団をつくり上げたといえるでしょう。

【本文脚注】

本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。

【経歴】

たけだしんげん(本名は武田晴信(たけだはるのぶ)。本稿では「信玄」)(1521~1573)。甲斐国(現山梨県)生まれ。治国安民を図るべく、富国政策に力を注ぐ。戦国時代を代表する戦略家として有名。

【参考文献】

(*)「歴史を動かした名言」(武光誠、筑摩書房、2005年7月)
(**)「山本七平の武田信玄論 乱世の帝王学」(山本七平、角川書店、2006年12月)
「戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く」(童門冬二、ダイヤモンド社、2011年3月)
「歴史博物館信玄公宝物館ウェブサイト」(財団法人歴史博物館信玄公宝物館)
「甲府市公式ホームページ」(山梨県甲府市)

以上(2013年3月)

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【前編】第3回 LINE株式会社 Developer Relations室 室長 砂金信一郎氏/森若幸次郎(John Kojiro Moriwaka)氏によるイノベーションフィロソフィー

かつてナポレオン・ヒルは、偉大な多くの成功者たちにインタビューすることで、成功哲学を築き、世の中に広められました。私Johnも、経営者やイノベーター支援者などとの対談を通じて、ビジョンや戦略、成功だけではなく失敗から再チャレンジに挑んだマインドを聞き出し「イノベーション哲学」を体系化し、皆様のお役に立ちたいと思います。

今回ご登場していただきましたのは、数々のイベントで登壇し、LINEの魅力を国内外で広く発信している「LINE株式会社」のプラットフォームエバンジェリスト、砂金(いさご)信一郎氏(以下インタビューでは「砂金」)です(以下の内容は、インタビューした時点のものとなります)。前後編に分けてお送りします。今回は前編です。

1 「今の砂金(いさご)は、世の中から見たらどう思われるのだろう」というのを確かめたくて(砂金)

John

今回の対談はLINEの砂金さんです。非常に幅広くご活動をされており、砂金さんをご存知の読者の方も多いと思います。本日はお忙しいところ、愛りがとう(愛+ありがとう)ございます!

さっそくですが、今日はいつもの個性的でおしゃれなファッションとは違い、スーツ姿ですが、なぜでしょうか。

砂金

実は、これ、バイト先のドレスコードなんですよ。今年(2019年)の4月から、政府CIO補佐官をさせていただいています。以前より政府のオープンデータ推進などについて、外部からの民間の有識者として支援させていただいていたところ、「砂金さん、CIO補佐官をやったら面白いんじゃないか」とお声掛けいただいたことをきっかけに、この4月から政府CIO補佐官という役職で、基本的に午前中、朝活として内閣官房へ行ってからLINEに出社しています。

John

砂金さん、大活躍素晴らしいですね! LINEでは、兼業はOKなのでしょうか?

砂金

もちろん条件にもよりますし、会社への申請が必要ですが、完全NGではないです。

John

LINEでは、どのくらいの方が兼業されていますか?

砂金

結構いるのではないでしょうか。もちろん大多数ではないですが、例えば、外部企業の技術顧問をしている人は私のチームメンバーにもいますね。あとは大学の講師や、セミナーに登壇したり、執筆したりしているメンバーなどは結構いると思います。

John

さまざまな場所でご活躍なのですね。現在、LINE株式会社には、何名の社員さんがいらっしゃいますか?

砂金

現在は2200人くらいだと覚えています。若干減りもしますが、基本的には日々増えています。

John

砂金さんの今の役職も、すごいですね。「デベロッパーリレーションズ室長 プラットフォームエバンジェリスト」。こうした役職名は、どなたが付けるのですか?

砂金

デベロッパーリレーションズ室は私が作ったチームで、CTO直下の部署です。CTOはいわば、「LINEの技術戦略をどうすべきか」を考えるトップです。LINE社内に開発組織はたくさんありますが、我々はCTO直下で、社内外の開発者との関係性を構築していこうということをやっています。

普通の会社でいう「デベロッパーリレーションチーム」とは、外部との連携です。例えば私は以前、マイクロソフトのテクニカルエバンジェリストをやっていましたが、マイクロソフトの技術を社外の方々にどうやって使ってもらうかを考え、他社のものよりマイクロソフトのほうが素晴らしいですよ、ということを伝える担当でした。

LINEの場合も同じように、プラットフォームとしての魅力を伝える技術啓発活動もやってます。LINEのアプリケーションで動くチャットボットを作ろう、ハードウェアと連携させよう、スマートスピーカー Clovaで動く音声ベースでのアプリケーションを作ろうといったことを、ハッカソンやハンズオンなどの機会も利用して、パートナー企業を含む外部の開発者のみなさまにいろいろご提案したりします。それが活動の半分くらいです。

もう半分の活動は、LINE内部のエンジニア支援です。先ほどLINEには「2200人くらい」と言いましたが、それはLINE株式会社単体での話で、グローバルを含めたLINEグループ全体だと7400人、開発者だけでも2200人くらいいます。こうしたLINEグループ内のエンジニアのサポートをするのも、我々デベロッパーリレーションズ室の大事な役回りです。

例えば、CTOが語るビジョンなどの文化継承を支援します。どれほど大きい会社や有名なアプリのサービスになっても、一人ひとりのエンジニアにLINEらしいやり方、LINEの開発文化を浸透させるために、どのような仕掛けを作ったらいいかを考え実行しています。

それから、採用も我々の大事な仕事です。同じビジョンを持って一緒に新しい世の中をつくっていけそうな、エンジニアやプロダクトマネージャーを採用する必要があります。西海岸ではないので、日本だと、とても優秀なエンジニアで、なおかつビジョンもパッションもスキルもある人は、それほど多くはないと思います。でも、そのなかでもよりすぐりで優秀な方々をLINEという会社に集めることを考える。なぜ今LINEで働くべきなのか、LINEの一員になるとこんな魅力的な成長機会がたくさんあるよ、ということをお伝えしています。

John

なるほど。砂金さんのようにスペシャルな、社内外問わずにエバンジェリストの役割ができる方の存在は、会社の成長にとっても大きいですね。このような役割を果たしている方は何人くらいいらっしゃるのですか?

砂金

デベロッパーリレーションズ室は兼務含めると30人くらいでしょうか。人事やPRなどさまざまな組織から兼務で集まって割と大きなチームになっていますが、本務で働いているメンバーは10名ほどです。

John

先ほど、以前はマイクロソフトにいらっしゃったというお話がありましたが、どのように転職されたのですか?

砂金

当時、マイクロソフト社内での部門移動を考えてました。面接などの選考もしっかりあるので社内での転職活動のようなイメージです。そのタイミングで、「せっかくだから、外の世界も見てみよう」という感じで、外の会社にも目を向けました。そのころ僕は、既にマイクロソフトに8年もいたので、さまざまなキャリアを踏んでいながらも、「ちょっと長くいすぎた」というような感覚もありました。「今の砂金(自分)は、世の中から見たらどう思われるのだろう」ということを確かめたかったのです。とはいえ、多忙だったこともあり、外部の会社は3社だけと決めて、某競合企業と某コンサルティング企業と、あともう1社ということで、LINEでした。各社からオファーをいただいて、悩んだ末に選んだのがLINEだった、という感じです。

マイクロソフトでクラウドを推進しつつ、ちょっと目立った存在だった私に対する周囲の方々の期待や推測では、おそらく似たようなことをしている他のアメリカ外資系の会社に来て、ほぼそのままの仕事内容で、横スライドするイメージだったのではないでしょうか。

しかし、クラウドの啓蒙推進などの仕事は、もう僕でなくても、他の人でもできるだろうし、と考えていました。また、僕は日本人として日本で生まれ日本で育ち、日本の食べ物も文化も言葉も嫌いじゃない。外資系企業の日本支社ではなく、日本が本社で、価値を自分たちで創り出してそれを届ける仕事をしたいという思いがありました。

そうすると選択肢は製造業などになりそうですが、中途採用者の活躍が難しそうな日本の製造業の企業ですぐさま活躍して成果を出せるイメージはありませんでした。そのような観点で考えると、LINEという会社がちょうどよかったのです。メッセージングアプリの市場をグローバルに捉えてみるとおもしろくて、韓国ではKakao Talk、中国ではWeChat、英語圏ではWhatsAppかFacebook Messengerがそれぞれ高いシェアを持っています。日本で生まれたLINEを国内で使っているユーザー、国内MAU(月間アクティブユーザー)は、8100万人です。人口およそ1億2000万人のこの国で、8000万人以上の人々が月に1回はLINEのサービスを使っているという状況なのです。しかもそのうち86%の方々は毎日LINEのサービスを利用しています。

砂金氏との対談の様子を示した画像です

2 僕らは、気持ちを送りたい(砂金)

砂金

日本で生まれたLINEが、日本でヒットしたのは、日本人のライフスタイルに徹底的に寄り添ったことにあります。我々はその手法をハイパーローカライズと呼んでいます。携帯電話のときには「ガラパゴス」な端末やサービスがたくさん生まれたかもしれないですが、我々が考えるハイパーローカライズは少し違います。日本で生まれたLINEは今、グローバルの、特にタイ、台湾、インドネシアでも、若い世代を中心とした人たちに受け入れられています。これらの国では、日本のやりかたを押しつけることなく、各国のライフスタイルに寄り添ったサービスを独自に発展しています。

タイや台湾に行くと日本以上にあちこちにLINEのキャラクターを見かけます。彼らは、日本以上にLINEというアプリを使いこなしています。このように、日本にいながら、製品を作るというよりは「文化を作る」という仕事ができてるのは、LINEという会社にいる1つの面白みですね。

John

向こう(タイや台湾、インドネシアなど)で流行る理由の1つは「かわいさ」ですよね。アニメなどのキャラクターや、それがちゃんと動くところが受け入れられているのではないかと思います。

砂金

確かに、そういうこともあると思います。それから、他のアプリケーションとの違いも関係してきます。例えば、WhatsAppを使うときには、キーボードでテキストを打ちます。略語も使いますけど、基本的にはキーボードで打ちますよね。でも、LINEの場合はスタンプが使えます。スタンプを英語圏の言葉で表現するとStickerですが、LINEでは、そのStickerで会話することが多いのです。Stickerで会話するというのは、日本人、もしくはアジア人以外にはあまり分からない文化、風習かもしれないですね。(Johnさんは)半分くらい日本人ではないお考えなので分かると思いますが。

同じようなSticker機能は、Facebook Messengerにもあるのですが、我々からみると、彼らのサービスは単に何かの絵柄や画像を送るもののように見えます。LINEのスタンプは、英語圏のサービスとは違い、「気持ちを送る」ものなのです。

John

LINEは、スタンプを「気持ち」の代わりに送っているのですね!!

砂金

例えば、「ありがとう」という気持ちをスタンプで送る。テキスト付きのもあるし、表情で表しているものもあります。

John

それは、アジア人独特の感性、ということなのですね。

砂金

そうだと思います。仕事の用件はWhatsAppのほうがいい時もあるかもしれないですけどね。

WhatsAppやFacebook Messengerは、どちらかというと用件を伝える用途に適しています。Facebook Messengerは若干、LINEをはじめとするアジアの感性に近いのですが、それでもLINEのように「気持ちを送る」ことに振り切ってはいません。LINEでは、気持ちを送るための手段はスタンプに限ることなく写真や動画、ボイスメッセージ、時にはLINE Payでの送金だったり、状況に適した伝え方を選択することができます。

John

「気持ちを送る」ということは、確かに、アプリを使う私たちにとってはいいことだと思います。ただし、(シェアや規模など)数字で見たらWhatsAppも今10億人を超えて、WeChatも11億人を超えています。そういうところに対して、どのように勝負することになりますか? 勝負していくのでしょうか?

砂金

いえ、地理的な陣地争いはやらないと決めています。我々が英語圏においてメッセンジャーアプリという形で戦っても、お互い文化が違うので「浸透しようがない」のではないでしょうか。おそらくですが、英語圏の、例えばアメリカに住んでいても中華系の方は、本土の方や、友達とはWeChatで話していますよね。そう考えれば、日本に住んでいる人、あるいは海外にいる日本人がLINEを使ってくれればいいし、先ほど言ったタイ、台湾、インドネシアなど、文化的にとても日本に近い方々には使っていただきたいと思っています。しかし、無理に広告を打ってマーケットシェアを広げて、ということは、他のエリアで行っても、誰もハッピーにはなりません。

陣地争いするより、日本もそうですが、1つの国に入り込んだら、メッセンジャーだけじゃなくて「個人の送金もしましょう」「決済もしましょう」というように、生活のさまざまな場面にLINEが浸透し、あらゆることをLINEというアプリで実現できるようにしようという形で、深く刺さっていきたいと思っています。マーケティング的に言えば、ライフタイムバリューを取りに行く方向に、今は戦略を取っています。今後も、ずっと同じ戦略であり続けるかどうかは分かりませんが、現時点ではそうですね。

例えばWeChatを運営しているテンセントから日本市場を見ると、おそらく、日本をどうにか攻略したいと思っているはずです。ただし、LINEは日本人にこれだけ愛されています。MAUどころか、DAUで見ても、奥さんや家族に毎日スタンプを送っている人たちが、急に違うアプリができたから乗り換えるかというと、そうはならないと思います。海外のメッセンジャーアプリ運営企業から日本市場をみると、ものすごく多額の投資をすれば、シェアを取れないマーケットではないかもしれないですが、現状では「ちょっと優先順位を下げる」という方向になるんじゃないでしょうか。我々LINEが生活に浸透しているので、そこには相手も攻め込まない。そして、我々も攻め入らないのです。

John

なるほど。それは、GrabがマレーシアでUBERの営業権を買ったというような感じでしょうか。「アジアはGrab」。そういった感じということですね?

砂金

はい、そうですね。

砂金氏との対談の様子を示した画像です

3 自分たちでスタートアップ的なサービスを作ってみないと、そこで働いている人たちの気持ちも分からないし、技術的な課題も分からない(砂金)

John

砂金さんは東工大を出られてから、オラクルで新規事業を始めたり、ローランドベルガーのコンサルタントをされたりしていますよね。大変華々しいご経歴だと思うのですが、これまでどのようにキャリアを選ばれてきたのでしょうか。何か、自分なりの哲学のようなものはあるのでしょうか。例えば、まず、最初に就職したのは、なぜオラクルだったのでしょう?

砂金

IT業界中心のキャリアとなったものの、東工大での所属は情報工学科(コンピュータサイエンス)ではなく、経営システム工学科というところで、世の中の仕組みを数理的なモデルに落とし込んで最適化する、今で言うAI(人工知能)のような研究をしてました。当時の経営工学科は研究分野の幅が広く、私は生産管理や品質管理を専門とする研究室の所属でしたが、金融工学を志すメンバーも多くいました。もうお亡くなりになられてしまいましたが、当時、日本における金融工学の第一人者のおひとりだった白川先生という方がいらっしゃって、彼の研究室の卒業生には、リーマンやゴールドマンサックスなど投資銀行で活躍したメンバーがたくさんいます。

ただ、当時の東工大では、研究室の先生の推薦で国内製造業の研究所に推薦で就職するか、金融系だったとしても、邦銀に行って安定したキャリアを積む人が大多数でした。そのような状況の中でも、その後流行った金融工学は、「なんだかすごいことが起こるらしいぞ」という雰囲気がありました。今でこそ金融業界で存在感のある「ゴールドマンサックス」も、まだ知る人ぞ知る存在という感じでした。

僕も金融工学の授業をいくつか取っていましたし、数理モデルや数式としては、話は分からなくはなかったのですが、「カネでカネを生む」というのが、当時の僕の美学に反するなと思い、投資銀行からのお誘いを自ら断ってしまっていました。今思えばそちらの道を選択した方が収入的にはよかったかもしれません。

私が選択したオラクルという会社は、当時まだ株式上場前のタイミングで、まだ気鋭のベンチャー企業という雰囲気でした。今でも同社で活躍されているラリー・エリソン氏が、「これからはパソコンなんか古い。ネットワークコンピュータだ!」と言っていたりして、すごく格好よく感じたわけですよ。あの世代、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツ、スコット・マクネリーなどいわゆるIT系の第一世代の創業者の皆さんは、カリスマ感がすごかったですね。ラリー・エリソンに憧れて、オラクルという会社に興味を持ちました。

よくよく調べてみると、(オラクルは)データベースの会社であり、世の中のさまざまな業務やシステムは、すべからくデータベースを使っていることが分かりました。当時、オラクルはまだ日本のIT業界で圧倒的ナンバーワンというわけではなかったのですが、どうもオラクルという製品はみんなの興味関心を集めていそうだと思いました。そういう環境で経験を積めば、いろいろなことが学べるかもしれない、そう感じたのです。大学時代に生産管理を学んでいたこともあり、僕が最初にオラクルで担当した仕事は、ERPパッケージをお客様の環境に導入したりカスタマイズを行うコンサルティング業務でした。

John

当時、オラクルは何名くらいだったのですか?

砂金

うーん、1200人くらいでしょうか。

John

すでにそんなにいたのですね!

砂金

当時、日本オラクルは1200人くらいだったのですが、僕が一緒に入社した新卒の同期が120人くらいいました。要は、10人に1人は(その時点では)右も左も分からない状態の新人がいたというわけです。

John

なるほど~!

砂金

当時社長をしていた佐野力さんは、新卒エンジニアを育てることにものすごくコミットしていて、非常によい経験をさせていただきました。中でも、.com事業開発部での新規事業立ち上げはその後の人生を左右する転換点だったかもしれません。僕はいろいろな方に「砂金さん起業しないんですか?」と言われるのですが、そのきっかけですね。

John

もうしてるみたいなものですよね。

砂金

そういっていただけると嬉しくはありますが、自分の会社を持ちリスクをとって資金調達しているわけではありません。その後のキャリアでスタートアップ企業の支援をさせていただくことになるのですが、その中でさまざまな起業家の方々を見ていると、やはり、僕ができないことをいろいろやられていて、何もないところからビジョンとパッションで事業をゼロイチで立ち上げられて、純粋にすごいな、と思います。逆に僕は、大きな組織の中にいながら新しいことをプロジェクトとして始めて、さまざまなところから資金やリソースを集めてくる。そして、世の中にインパクトある形で早く成長させる、1を10にするフェーズが客観的に見ると得意だと思ってます。

自分に不向きであることがわかっているからこそ、起業家の皆さんには最大限の敬意を持って接しているし、ご支援できることがあればできる限り対応しています。今も、いろいろな形で協業しているスタートアップの方がたくさんいます。

John

そうなのですね。新規事業をやることは、その当時、良いこととされていたのでしょうか?

砂金

う~ん、微妙でしょうね。ただ25歳前後の「砂金(いさご)青年」には、周りをベンチマークするような余裕がありませんでした。せっかくオラクルにいて新しいことをやらせてもらえるのだから、何をしようかという感じでした。

John

何をしてもよかったのですか?

砂金

何をしてもよかったですね。当時.com事業開発部でやっていたプロジェクトは大きく2つありました。1つは、スタートアップ向けのライセンスビジネスの立ち上げです。当時のオラクルデータベースは、企業内のシステム向け提供が一般的で、利用するユーザー数に比例するライセンス料金体系でした。インターネットサービスで利用する場合には、ユーザー数無制限ライセンスを利用せざるを得ず、当時の価格は1CPUあたり5000万円程度とかなり高額になってしまっていました。スタートアップが最初から利用するには不向きな価格設定です。そこで、「一回買ったらずっと使える」というライセンス形態ではなく、「2年間の期間限定ライセンスにしたらもっと安くできる」という仕組みを本社と交渉して作り、それをスタートアップ向けに提供しようということをやっていました。

ECでも掲示板でも、当時スタートアップがネット上で提供していたサービスには、大量のデータを管理するデータベースが必要でした。当時は今ほどオープンソースが発達してなかったので、有償のデータベースを利用する価値は今より高かったものの、オラクルは価格が高すぎてスタートアップには手が出せない存在でした。さらに、事業を継続しながら途中でデータベースを変更することも難しく、困っている人が多かったように思います。そこで、「2年間限定ライセンスを格安で提供します。2年経って会社が大きく成長したら、定価でライセンスを買ってくださいね」という仕組みを展開してました。今のインキュベーションプログラムの走りみたいな感じだと思います。

そしてもう1つのプロジェクトは、自分たちでスタートアップ的なサービスを作ってみようという試みでした。自分たちで作ってみないと、スタートアップで働いている人たちの気持ちや、技術的な課題も分からないから、やってみようという立て付けでしたが、スタートアップ的な考え方が大好きな人たちが集まっていたチームだったので、好きなようにサービスを作らせてもらっていたという表現の方が正しいかもしれません。

もう、とうの昔になくなっていますが、「知恵の輪ドットコム」というサービス、今でいう「ヤフー知恵袋」のような感じのQ&Aサイトを立ち上げました。サービスの立ち上げや運用がどれだけ大変なのか、実際に体験することができました。それが後に、ナレッジマネジメント系のプロダクトとして発展し、大きな規模には至りませんでしたがビジネスとして展開することができました。

John

いや~すごいですね~! それを20年前に?

砂金

20年前ですね。

John

その当時は、「スタートアップ」という言葉も、日本人は言わない時代ですよね?

砂金

そうですね。

4 ずっと続けるというより、学ぶべきものがあれば外に次のチャレンジを求める。それは、よくある選択だった(砂金)

John

オラクルの次は、戦略コンサルタント企業に転職されました。理系から文系の仕事に移るような感じですよね。しかも会社はローランドベルガー。このとき、ローランドベルガーは、どれくらいの規模だったのですか?

砂金

プロフェッショナルで50人くらいでしょうか。もちろんアシスタントのスタッフもいますが、いわゆるコンサルタントとして稼働するのは50人くらいでした。現場力が求められるプロジェクトをやっていました。プロジェクトからコンサルが去ったら(その会社が)元に戻ってしまうようなものではなくて、会社のビジネスや文化、やり方を変えるようなプロジェクトを好んでやっていたのです。

John

砂金さんがローランドベルガーにいらっしゃったのは、何歳から何歳までですか?

砂金

30歳前後で2年ほどいました。

John

クライアントは、どのようなところだったのですか?

砂金

やはり、自動車業界が多かったです。本社がドイツのファームなので、日本の完成車メーカーや部品メーカーの案件は自然と多かったように思います。

John

大企業が相手ですか?

砂金

そうですね。

実は、戦略コンサルタントとしての振る舞いが全然できてなかった頃に、割とショッキングな出来事がありました。あるとき、「このデータを分析してくれ」と依頼されまして、「そういうの、僕、得意です」ということで、「この事象を数量化Ⅲ類でクラスタリングしたら3つグループに分解できました」というような説明を、当時は今のAI分析ツールのようなものがなかったので、エクセルでやっていたのです。

そうしたら、「訳が分からない」と、プロジェクト担当のパートナー(役員)に叱られました。てっきり褒められると思っていたのですが……。「皆さんが今まで使わなかったであろうアプローチで、課題解決に一歩近づきましたよ」くらいに考えていたのですけれど。

そのとき指導されたのは、「なぜクラスタリングで3つに分解できるのか、数学の知識がないお客様に簡潔に説明できるのか」ということでした。確かに、統計的手法の中でも数量化Ⅲ類は過程を説明するのが難しくて、順々にシミュレーションを追っていくと理解できるのですが、「大量のデータを、今でいうAI的に分析したら3つに分類されました、ラベル付けをしました」と言っても、途中のプロセスが分からないし、それが正しいかどうか分からないと言われました。「仮説を作るタイミングではいいかもしれないが、そのままをお客様に説明するものではない。ロジック展開が分かりやすい演繹的なシミュレーションで分析しろ」と叱られたのです。

こうしたこともあって、やはり、戦略コンサルタントとして出さなければならない価値の出し方は、いわゆるIT業界での考え方とは違うものなのだな、ということが分かりました。そういう経験は、何度もありました。

それでも、2週間から1カ月ごとに新しいプロジェクトにどんどんアサインされていくような経験を2年ほど過ごすとなれてくるものですね。今考えてみれば、MBA留学で英語に苦しみながら一生懸命課題やディベートを行うというプロセスを経なくても、ロジカルな考え方や、課題分解をきちんとやって本質的な課題を見極めて解決するスキル、シンプルでぱっとみて分かりやすい資料を作ったり、論理立てて話したりすることは、その頃に身に付いたのかもしれません。

経験が浅いコンサルタントでも、ベテランの方々と切磋琢磨しながら、早く結果を出さなければいけない状況でした。スピード感が非常に重要で、経験のない業界での新しいプロジェクトにアサインされても1日か2日集中して取り組めば、その業界で競争優位を生み出すメカニズムがだいたい分かるようになってきました。

最近、コンサルティングファームを卒業して起業されている方がたくさんいらっしゃいますが、課題分解しながらマーケットの特性を理解してどんどん新しいことにチャレンジしながら仮説検証を繰り返すスキルは、事業会社にずっといると身に付かないかもしれません。コンサルティング時代に培ったスキルや思考体力を活用されてるのではないでしょうか。

John

素晴らしいですね。そうしたことは、途中で上司がいろいろと教えてくれるのですか?

砂金

今は分かりませんが、当時は基本的なトレーニングはあるものの、どちらかというと実際のプロジェクトで見よう見まねでやっていました。

John

ローランドベルガーの後、リアルコム(現Abalance。以降「リアルコム」)に移ったのですね。そこでは、砂金さんは製品マーケティング責任者をされていました。これは、どのようにキャリアチェンジをされたのでしょうか?

砂金

戦略ファームでは、割と、競合の会社であってもお互いに引き抜き合いがありました。

John

戦略ファームで働いているときは、「何年で辞める」と決めたりしていましたか?

砂金

だいたい2年くらいかと思っていました。

John

それは最初に上司と約束をしたのでしょうか?

砂金

いえ、明確に言ってはいません。ただ、ずっと続けるというよりは、ある一定の成果を上げるといいますか、学ぶべきものがあれば外に次のチャレンジを求めるというのは、僕だけではなく、よくある選択でした。そこに対しては、周りの皆さんに理解していただいていたと思います。

John

(上場について)砂金さんは、一番最初からやってみたかったのですね。

砂金

そうですね。自分で、いわゆる上場というプロセスを、手触り感ある形でやってみたかったというときでした。

John

ということは、リアルコムが上場する前に入ったということですか? それはすごいですね。入って何年で上場したのでしょうか?

砂金

2年くらいだと思います。いろいろなことを学び、経験させていただきました。とても感謝しています。

砂金氏の画像です

5 第一声で、「砂金さんは、エバンジェリストに向いてそうだよね」とお声掛けいただきました(砂金)

John

何年(リアルコムを)ご経験の後、マイクロソフトに行かれたのでしょうか?

砂金

周りのメンバーが抜けつつもありましたので、一時は、それを支えようと思って頑張っていました。とはいえ、他の会社の可能性を見てみようとも思っていましたので、ヘッドハンティングやエージェント経由でお話を聞いていた中の1社がマイクロソフトだったのです。僕は当時、どうしてもすぐに転職したかったわけではなく、「ちょっとお話を聞いてみようかな」というくらいでした。そして、何回かお話をしていくうちに、「今度本部長に会わせるから、ぜひ来てくれ」というようなことになりました。

そのとき、オファーいただいていたポジションは「Visual Studio」というソフトウェアを開発するためのアプリケーションのプロダクトマネージャーで、「あなたは、それができそうですね」というお話をいただきました。

John

ちょっと待ってください。すごいお話ですね。大学のとき、ソフトウェアなどは学んでいないのですよね?

砂金

最適化計算のためにプログラミングは必要でしたし、コードは書いていましたよ。

John

それでも、(コード書いていたのは)15年前になりますよね。なぜ、「砂金さん、できますよね」となるのでしょうか?

砂金

どうなんでしょうかね。自分でもよく分からないですが、中学のときであれ、大学のときであれ、あるいは社会人になってからであれ、一度、何かの技術やテクノロジーでその手のコードを書いたことがある人は、「今はAIが流行っているからPythonで」と言われたときに、自転車やスキーと一緒で、「分かるっちゃ分かる」のかもしれません。ただ、20代の頃と同じように、生産性高くコードを書いてそれを仕事にしてくれと今言われたらちょっと難しくて、「できるかもしれないけど、半年時間ください」となるでしょう。「すぐには分からないけど、何たるかは分かる」というような感じでしょうか。

(マイクロソフトの)Visual Studioのプロダクトマネージャーというポジションは、非常に面白そうでしたが、本部長の面談のときは、断ろうと思っていました。「せっかく薦めていただきましたが、まだやり残したこともあります。それを全部見届けて、やり遂げてから次のことを考えたい」という話をしに行こうと思っていました。しかし、そのとき、当時の本部長が言ってくださったのです。「砂金さんは、プロダクトマネージャーもいいけど、エバンジェリストに向いてそうだよね」と。

John

そのとき、「エバンジェリスト」という言葉は、日本にあったのでしょうか?

砂金

ありました。とにかく、本部長の第一声がそれでした。こちらから「お時間作っていただいてすみません。今日本当はあのせっかくなんですが……」と言うのを遮られて、最初からそういうお話だったのです。

John

砂金さんは、口説き落されるタイプなのですね?

砂金

そうですね。

John

エバンジェリスト。その前には、どなたかいらっしゃったのですか?

砂金

マイクロソフトには当時からエバンジェリストというタイトルで仕事をされていた方は割と多くいらっしゃいました。日本で、書籍を含めてさまざまな形で初期の頃からご活躍されていた方の代表は萩原(はぎわら)さんですかね。

John

その方は、いつごろからエバンジェリストと呼ばれ始めたのでしょうか?

砂金

う~ん、ウィンドウズ95とは言わないですが、2000くらいのタイミングだと思います。

John

それほど前から、その方はエバンジェリストだったのですね。ガイ・カワサキさんくらいからかと思っていました。

砂金

ガイ・カワサキさんなどの世代と一緒だと思います。ガイ・カワサキさんも、マイクロソフト側もそうですが、自分たちの技術を熱く語って開発者の共感を呼び覚まして、アプリを作ってもらわなければなりません。その際には、技術を教えるトレーナーのような研修担当ではなく、「この技術がなぜ素晴らしいのか」「この技術の何が良くないのか」ということを、情熱を持って伝える仕事が必要でした。特にアメリカ系の会社にはそうした肩書の方が何人かいて、だんだん成果を出してきて、増えてきたのだと思います。

先ほどお伝えした「Visual Studio」とは、まさにマイクロソフトといいますか、当時のウィンドウズ向けのアプリを作るツールです。そこで、Visual Studioが売れるためには、「その技術が好きだ!」という人たちを増やさなければなりません。ということで、その本部長の配下には、Visual Studioを販売するチームと製品を管理するプロダクトマネージャーのチームに加えて、エバンジェリストの方々が所属していたのです。加えて、私がお声掛けいただいたタイミングは、これからマイクロソフトがクラウドコンピューティングに参入する準備をしていて、本部長の見立てでは、「砂金さんは、クラウド関連技術のエバンジェリストが良そさうだね」とお声掛けをいただきました。

John

なるほど~。その方は、砂金さんのことを、よく見てくださっていたのですね。まだ、あまり会話をされていない状況ですよね?

砂金

はい、していないですね。

John

その方は、(砂金さんの)何を見てくださっていたのだと思いますか?

砂金

本部長とお会いする手前のタイミングで、僕は何人かの方々とお話をしていましたので、彼らからの推薦による影響が大きかったようです。

6 スーツを着て仕事がやりやすくなるんだったらスーツを着ますし、派手な格好をしていたほうがパフォーマンスがよければ派手な格好をします(砂金)

John

(砂金さんの)当時の写真が出ていましたが、とても真面目そうな印象を受けました。砂金さんは、どのように風貌が変わっていったのですか?

砂金

マイクロソフトに入ってからですかね。

John

それは、自由にしていいということでしょうか?

砂金

そうですね。ただ、それだけではなくて、僕が入った当時のマイクロソフトは、グーグルやアマゾン、アップルがキラキラしてる中で、少し堅い感じがしました。ビジネスとしては成功していたのかもしれませんが、開発者に愛されているか、エンジニアが「マイクロソフト大好き!」という状況かというと、そうでもない。当時はそういう雰囲気でした。

そうすると、会社のブランディングに頼って「僕の話を聞いてくれ」と社内でいくら言ってもダメなのですよね。ですので、僕一個人として、「なぜ自分(僕)の話を聞いてもらうべきなのか」というところを、要はセルフブランディングを、意識的に実践していかなければならなかったのです。

John

なるほど! それでご自身を変えていったということですね?

砂金

はい。「聞く耳を持ってもらえない」という状況を打破するためにどうしたらいいのかと、苦しみながら生まれてきた芸風。そういう感じでした。

John

面白いですね! それである意味、「ビジュアル系」になったのですね。今日はとても真面目な印象の格好ですけれど。

砂金

こういう(スーツの)格好をしていると、「砂金さん、何のコスプレですか」と聞かれます(笑)。

John

逆に、そうなのですね(笑)。いつもの個性的な服装は、会社的に大丈夫なのですか?

砂金

全然、大丈夫です。同じような「キャラ設定」というやり方をしている人が、今まだマイクロソフトにいます。

John

目立つでしょうね。他の方は普通の格好なのですよね?

砂金

普通なほうが多いです。でも、「見てくれ」だけで中身がないと、小馬鹿にされるじゃないですか。技術力なのか、プレゼンテーション能力なのか、ビジネス解決能力なのか、とにかく、何らかがベースにあった上で、それを少し飾るという観点でのセルフブランディングとして、派手な格好をするというのは、全然良いと思います。

僕は、エバンジェリストのような仕事をする人たちが派手な格好をするのは、すごく理に適っていると思います。例えば、講演会などで多くの人々を相手に話をするじゃないですか。そのとき、日本人は、「ご質問のある方は手を挙げて」と言っても、ほぼ誰も反応しないですよね。「今日は手ごたえがあまりないな」と思って檀上から降りると、とたんに皆さん、「名刺交換お願いします」となります。このとき、名刺交換の時間があればいいのですが、セッションが詰まっていて、最後の懇親会でしか名刺交換ができないとなると、他の登壇者はだいたい忘れ去られてしまいます。しかし、派手な格好をしていると、「派手な格好をしたあの人か」ということで、参加者の印象に残っていて、参加者の方から話しかけてもらいやすいのです。

僕の今日の格好(スーツ)もそうですが、自分の仕事がこの格好をしていてやりやすくなるのであればスーツを着ますし、派手な格好していたほうがパフォーマンスが良ければ派手な格好をします。僕の場合、個人のこだわりでもあると同時に、「TPOに合わせて」という幅が、普通の人より少し広いのだと思います。

John

なるほど~、すごい! とても勉強になります!! ファッションで参考にしている方はいらっしゃるのですか?

砂金

特に誰かを参考にして、ということはないです。よくあるFAQで、「その服、どこで買っているのですか」と聞かれますが、確かに、普通のお店にはあまり売っていなさそうな服を着ている自覚はあります。よく仕入れ元にしているのは、アウトレットモールの中にお店を出しているセレクトショップのサンプル品やB級品でデザイナーズブランドのもの。量産はされないし、おそらく普通のお店に定価で置いてあっても誰も買わない。けれど、ちょっと目立つ存在感。普通の人が着なさそうなもの。そういうものを選んでいると思います。

John

素晴らしいですね、セルフブランディングも、しっかり考えられているのですね! いつも独自のハイセンスで、お洒落な砂金さんは本当どこに行かれても目立ちますね。

砂金氏との対談の様子を示した画像です

7 僕の尊敬する人はシャア・アズナブル。彼がもがき苦しみながら、味方を巻き込みながら戦っていくさまに、結構、僕は自分を重ねています(砂金)

John

それで、いよいよ今のお仕事になるということですね。例えば、海外のエバンジェリストで尊敬する方や憧れる方はいますか?

砂金

皆さん、すごいですよ。エバンジェリストと名乗るのは、多分、ある意味「こっぱずかしい」ことだと思います。話を聞いている相手のほうも、ハードルを上げてしまいます。「エバンジェリストだったら、すごくためになる話、面白い話をしてくれるに違いない」「技術力がすごく高いに違いない」と。その相手が高めたハードルを、さらに超えていく人たちがエバンジェリストなので、「誰が」というよりも、エバンジェリストと名乗って活動している全ての方を、僕は尊敬しています。

プレイスタイルは芸人さんの芸風と同じで、人それぞれだと思います。僕は、例えばオラクルにいた頃に見ていたラリー・エリソンのプレゼンテーションが格好良かったという印象が残ってますし、僕もいつかそういうプロダクトを生み出せたらいい、「これで世の中変えるぜ」と言えたら素敵だなと思うことはありますが、特定の誰かをベンチマークにしてまねるというのは、あまりないですね。

John

ラリー・エリソンの演説はたくさん聞かれたのですか?

砂金

そうですね。当時オラクルにいたときは、聞く機会が多かったですし、彼の「アーティスト感」というようなところは影響を受けていると思います。

John

砂金さんは、尊敬する人はいらっしゃいますか?

砂金

尊敬する人……。あまり考えてはいませんが、架空の人物でいうと、僕はガンダムが大好きで、僕の尊敬する人は「シャア・アズナブル」です。

John

おお~! それはまた、どういう理由ですか?

砂金

まず、昔のアニメーションは勧善懲悪でしたが、ガンダムはそうではありません。主役のアムロ・レイが所属する連邦軍対敵のジオン軍とで戦っていますが、地球に残った人と宇宙に出て自治権を得ようとする人々が、どちらも自軍の正義のために戦っていて、どちらも悪者ではないのです。シャア・アズナブルは、ガンダムのパイロットであるアムロ・レイのライバルとして描かれる、敵方の「ちょっとかっこいい士官」で、影があるのです。自分が成し遂げなければならない大義に向かって一生懸命頑張るのですが、なかなかうまくいかないこともあります。

インタビューなどで「本を推薦してください」と言われたときに、僕がいつもお薦めしている本が、「評伝シャア・アズナブル」です。これは、シャアを歴史上の人物とした上で、「なぜシャアは、その場でそういう発言をしなければならなかったのか」「どういう判断があったのか」といったことを、ずっと追っていくという本です。その中で、シャア・アズナブルに対する1つの見方として、「一流の見識と二流の才能」というものがあります。

シャアは、世の中を見渡す能力としては一流だが、パイロットとして戦うということに関しては、決して一流ではない。センスはあるし、時代を見通す力はあるが、それを成し遂げる実行力の部分で、優秀ではあるものの、超一流の人たちには一歩及ばない。「一流の見識と二流の才能」とはそういう意味合いですが、その彼がもがき苦しみながら、味方を巻き込みながら戦っていくさまに、結構、僕は自分を重ねています。

John

とてもいいお話ですね~。どういったところがシャアと重なり合うのですか?

砂金

僕は今まで、さまざまなキャリアを選び、そのときどきのタイミングでいろいろな決断をしてきましたが、それは場当たり的なものではなく、割と結構先を見通して「きっとこういうことやっておくといいんだろうな」という判断をしてきた、という自信はあります。

ただし、それぞれの場面で、本当に自分が「超一流のプレイヤーだったか」と言われると、上位層にはいるものの、世界で一番ではない。その中でもがき苦しみながら、先見の明とセンスを最大限発揮して、次はどのような展開を仕掛けていくと世の中を変えられるのか、自分がやりたいことをできるのかを考え、努力し続けてきた、というところでしょうか。

John

なるほど! 自分を見ているのですね。

  • 砂金氏との対談はまだまだ続きます。
    この続きは「後編」をご確認ください!

以上

※上記内容は、本文中に特別な断りがない限り、2019年8月20日時点のものであり、将来変更される可能性があります。

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