人の巧(こう)を取って我が拙(せつ)を捨て、人の長を取って我が短(たん)を補う

木戸孝允氏は、西郷隆盛氏、大久保利通氏と共に「維新の三傑」として、幕末維新の中心に立ち活躍した人物です。薩摩藩出身の他2人に比べるとやや地味な印象がありますが、木戸氏は冷静な判断力と調整力、そして人格に優れ、長州藩の精神的支柱として多様な仲間の力を結びつけ、時代を動かした「縁の下の力持ち」でした。

冒頭の言葉は、同じく長州藩出身の先輩である吉田松陰宛ての書簡に記されたもので、「他の人の良いところを取り入れ、自分の欠点を補うことが重要」という意味があります。幕末の木戸氏の活躍を見てみると、彼の生き様は、まさにこの言葉を体現するものだったことが分かります。

1853年に米国から黒船が来航し、日本が開国すると、木戸氏の故郷である長州藩は「攘夷(外国の侵入を防ぎ、追い払うこと)」を掲げました。藩には、高杉晋作という後輩がいましたが、この後輩がかなりの過激派。イギリス公使館を焼き討ちしたり、藩の許可なく軍艦を購入したりと、無鉄砲な行いを繰り返します。

一方の木戸氏は、かなりの慎重派。幕末時代は桂小五郎という名前でしたが、剣が滅法強い一方で、敵と戦わず逃げる場面が多かったことから「逃げの小五郎」というあだ名がつくほどでした。一方で、「長い鎖国のせいで、技術や学問が西洋諸国よりも遅れている」という日本の事情をよく理解し、洋式砲術や兵学、蘭学など、新しい知識を貪欲に吸収するなど、冷静沈着に大局を見ることのできる人物でもありました。

正反対な木戸氏と高杉ですが、木戸氏は彼やその仲間と積極的に交流します。無鉄砲な高杉の尻拭いをさせられることもしばしばでしたが、木戸氏は彼の並外れた行動力を「自分にはない力」と高く評価し、彼を支えるための苦労をいとわなかったのです。木戸氏が陰で根回しをすることで、行動の幅が広がった高杉は、「奇兵隊」という軍事組織をつくり、長州征伐に来た幕府軍を退けるなど、その力をいかんなく発揮するようになります。

会社にもさまざまな社員がいて、その長所を上手に引き出すことで、会社は強くなっていきます。ただ、「過激だけど行動力がある」高杉晋作のように、長所と短所は表裏一体。そこで長所を引っ張り出せるかは、経営者の「この人は『自分にはない力』を持っている」と見抜く眼力にかかっています。激動の時代を生きた木戸氏の「人の長を取って我が短を補う」姿勢は、変化の大きい現代にも求められるリーダー像といえるでしょう。

そして、もう1つ大切なのが「人柄」。高杉をはじめ、暴走機関車のようだった長州藩の後輩たちが正反対の性格であった木戸氏を慕った理由は、ひとえに木戸氏が温厚で面倒見が良く、彼らにとっての「良い兄貴分」だったから、とも言われています。個々の能力をうまく采配する力ももちろん大切ですが、それ以上に、「部下・後輩に慕われる存在でいる」のがリーダーの秘訣であることは、いつの時代も変わらないようです。

出典:東京都神社庁Webページ『生命の言葉』

以上(2026年1月作成)

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