我々には、いかに困難で危険な工事であっても、成し遂げなければならない事情があった
笹島信義(ささじまのぶよし)氏は、1956年から1963年にかけて行われた黒部ダムの建設において、最も困難な工事といわれる「大町2号トンネル工事」を成し遂げた作業班の中心人物です。この工事が難航を極めた理由は、作業班が着工2年目に遭遇した破砕帯(はさいたい)にあります。破砕帯とは、岩盤の中で岩が細かく砕けた、通常よりもろく崩れやすい地層のことですが、1957年、その破砕帯から人が吹き飛ばされるほど大量の地下水と土砂が噴出し、トンネル工事は中断を余儀なくされたのです。
冒頭の言葉は、笹島氏が自身の著書の中で、トンネル工事の今後を検討する委員会が開かれたときのことを振り返って述べた言葉です。委員会には、学者や技術者などの有識者が招かれましたが、破砕帯の脅威が未知数だったことなどから、工事の続行については否定的な意見が飛び交いました。しかし、笹島氏は有識者の前でも、「冬になれば、水が減り、トンネルを掘れるようになると思う」と言って、工事の続行を強く望みました。
笹島氏の心の内には、ある使命感がありました。それは「戦後の荒廃と虚脱から抜け出し、日本の産業を興隆させるために、何としても電力不足を解消する」というもの。当時の日本は日常的に停電が繰り返され、工場は停電のたびに作業を休止しなければならないなど、深刻な電力不足に陥っていました。だから、笹島氏は「この工事の本当の発注者は、国家であり国民である」と考えて、文字通り命がけで工事に取り組んでいたのです。
冬になると、笹島氏の言った通り坑内の水が減少し、工事再開が可能となりました。そして、破砕帯との遭遇から7カ月後、最後まで諦めなかった作業班はついに破砕帯を突破、1958年に大町2号トンネルは無事開通したのです。
ビジネスでは、経営者が会社の進むべき道を決める際、常に何らかのリスクが付いて回ります。ノーリスクで成功を得られるケースはゼロに等しく、時には「社員に負担を強いるかもしれない」「失敗したら会社が傾くかもしれない」といった大きなリスクを背負いつつ、困難なことに挑戦しなければならないケースもあります。
そんなときに経営者を支えるのは、「わが社はこの事業を通じて、社会のためにこんなことを成し遂げるんだ」という強い使命感です。笹島氏は、破砕帯との遭遇によりトンネル工事の危険性が新聞などで取り沙汰されるようになった際、作業員たちが家族から反対されて現場を離れてしまうことを危惧しましたが、実際はほとんどの作業員が現場に残ったそうです。それは、「自分たちがトンネル工事で日本を支えるんだ」という笹島氏の使命感が、作業員たちの誇りとなり、自分事として共有されていたからです。いつの時代も、経営者の本気の思いは社員を突き動かし、困難な壁を突破する力となるのです。
出典:「おれたちは地球の開拓者:トンネル1200本をつくった男:大事にしたい日本人の生き方」(笹島信義、ベストブック、2010年10月)
以上(2023年10月作成)
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