カレーのうんちく

1 カレーのうんちく

この記事では、知っていればカレーを食べるのがより楽しくなる、カレーのうんちくについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。

2 「カレー」の語源

カレーの起源となったのは、インドとその周辺諸国の料理だといわれています。しかし、インドには「カレー」という名の料理はないようです。インド料理でカレーにあたる料理には、日本のようなカレー粉は使われません。食材や調理法に合わせ、その都度、必要なスパイスを組み合わせます。中にはあらかじめ混合されたスパイスもあり、こうしたインドの伝統的な混合香辛料は「マサラ」と呼ばれています。

カレー(Curry)の語源については、タミール語で「ソース」を意味する「Kari(カリ)」に由来するという説や、ヒンズー語で「おいしいもの」を意味する「Turcarri(ターカリー)」から来たという説など、諸説あります。

3 英国人とカレー

英国は1600年代初頭、インドにインド以東のアジア地域との貿易を独占的に行う特権会社、東インド会社を設立しました。インドの植民地支配が国家による支配に切り替えられるまで、東インド会社がインドの植民地支配の機関としての役割を担いました。これは、当時は貴重品だった香辛料を確保するために、日常の食事の中でさまざまな香辛料を取り入れているインドを支配して、英国が香辛料貿易を独占することが目的であったとされています。

1772年ごろに、東インド会社社員ヘースティングズが、英国にカレーの原料となるスパイスを伝え、このスパイスを使った料理と米を組み合わせた料理が、英国でのカレーの始まりだといわれています。なお、このヘースティングズは、のちにベンガル総督になりました。

インドのカレーは、基本的に小麦粉を使わず、他国のもののようにとろみの出るまで煮込むことはあまりありませんが、英国では小麦粉をバターなどで炒めたルーを使う煮込み料理としてアレンジされ、大人気となったようです。

4 日本に紹介されたカレー

日本に初めてカレーの作り方が紹介されたのは、明治5年(1872年)に刊行された敬学堂主人の「西洋料理指南」と仮名垣魯文の「西洋料理通」といわれています。

これらの料理書では、カレーはご飯にかけて食べるものとして紹介されていたようです。日本のカレーには、はじめからご飯がつきものだったようです。

5 ひょんなことから見直された国産カレー粉

初めての国産カレー粉は、明治36年(1903年。明治38年という説もある)に、大阪の「今村弥」(現・ハチ食品)が発売したのが最初だといわれています。その後も各社からカレー粉が発売され、日本のカレー粉は徐々にその品質を上げていきました。

しかし、当時のプロの料理人たちは国産カレー粉の質が劣ると考え、英国のC&B製カレー粉を中心に使っていたようです。ところが、自社のカレー粉の日本での流通量が出荷量に比べて多すぎるという疑いを持ったC&B社が調査を行ったところ、昭和6年(1931年)に出回っていた商品の相当数が偽物であることが判明し、騒動になりました。

ただ、結果的にはこの一件により、国産カレー粉の品質がC&Bのカレー粉に遜色ないと知れ渡りました。そして国産カレー粉が一気に普及し、家庭の食卓にカレーが並ぶようになったといわれています。

6 カレー調理に革命を起こした即席カレー

家庭で作るカレーといえば、今ではルーを割り入れて溶かすだけの即席カレーが一般的です。即席カレーの元祖とされているのは「一貫堂」の、肉も入っていて、お湯に溶くだけで食べられる「カレーライスのタネ」ですが、詳しい資料はありません。そのため、大正3年(1914年)に発売された岡本商店の「ロンドン土産即席カレー」が元祖といわれることもあります。

また、大正15年(1926年)に「浦上商店」(現・ハウス食品)が「ホームカレー」を発売するなど、現在まで続くブランドの商品が登場しています。

なお、さらに手軽に食べられるカレーとして人気の高いレトルトカレーの元祖は、昭和43年(1968年)に発売された「大塚食品」の「ボンカレー」といわれています。

カレーライス

7 カレーをもっとおいしく食べるための豆知識

1)カレーうどんやカレーパンの誕生

カレーの魅力の一つに、他の色々なメニューにアレンジできる応用力の高さがあります。例えば、カレーを使った代表的なメニューにカレーうどん(そば)やカレーパンなどがあります。カレーうどん(そば)の始まりについては詳しい記録が残っていませんが、明治41年(1908年)ごろには、大阪のそば屋で「カレー南蛮」が誕生していたようです。また、カレーパンは昭和2年(1927年)に東京のパン屋である「名花堂」(現・やきたてパン カトレア)が発売を開始しました。

2)香辛料の薬効

カレーに使われる多彩な香辛料は、その多くが漢方薬として使われるものでもあります。例えば、ターメリックは消毒効果を持ち、肝機能を高める作用のある「ウコン」、クローブは消化促進や口臭予防効果のある「チョウジ」の別名です。

以上(2023年3月更新)

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パンのうんちく

1 パンのうんちく

ここでは、パンが発見されたきっかけなどについてみていきます。なお、以下で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。

2 パンが発見されたきっかけ

現在の主流となっているたくさんの空気を含んだ「発酵パン」は、ちょっとした偶然から生まれたといわれています。定かではありませんが、一説には、4000年ほど前に、エジプトで単純に前日残ったパン種を翌日そのまま焼いたら発酵パンが出来上がったといわれます。空気中などに漂っている野生酵母が偶然にパンを発酵させたのでしょう。

3 ギリシャからローマへ

発酵パンはその後、イオニア(現在のエーゲ海沿岸地方)を経てギリシャへと伝わったとされています。ギリシャでは、レーズン、オレンジ、オリーブといった豊富な農産物と、ワイン造りの発酵技術がパンに応用されました。また、専門の職人によってパンが店売りされるようになります。

そして、古代ローマ時代には、パンの量産化がある程度できるようになっていたようです。ローマ市内には国営のパン焼き釜が設置され、パンの大量生産が行われていたといいます。

4 ヨーロッパ全土へ広がるパン

古代ローマ時代には、ローマ軍の遠征によって、ヨーロッパ各地にパン作りの技術が広まりました。しかし、5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、パン食文化は衰退していきます。パン作りは、修道院や貴族などが担うようになり、庶民は自分でパンを作ることが難しい時代となりました。

しかし、次第に庶民もパンを作ることができるようになります。14世紀ごろからイタリアで始まるルネッサンスになると、パン食文化がまた花開きます。フランスのフランスパン、東欧やロシアのライ麦パンなど、各国の素材や風土に合ったさまざまなパンが確立され、各国独自のパン文化が発達していきました。

5 長く不明だった発酵のメカニズム

それぞれの国の気候や風土に合わせたパン作りが発達し、ヨーロッパ中にパンが普及した後も、「なぜパンが発酵するか」という理由は、科学的に解明されてはいなかったようです。当時、製パンの技術は職人の経験とカンに頼る、いわば職人芸的なものだったのかもしれません。

パンが発酵するメカニズムが解明されたのは17世紀後半とされています。顕微鏡を発明したオランダのレーウェンフックが「酵母(イースト)」の存在を発見し、酵母菌を分離培養することに成功したのがきっかけとされています。

この発見によって酵母の研究は大きく進歩し、それまでの不安定な酵母から、管理された安定した酵母ができるようになったようです。長いパンの歴史の中、その原理が解明されたのはそれほど昔のことではないようです。

6 あんパンの誕生

パンが日本に伝来したのは、1543年に鉄砲がもたらされたのと同時期のようです。ポルトガルの宣教師がキリスト教の布教を行う中、パン食文化も日本に徐々に広がっていきました。しかし、その後の鎖国によって西洋風のパンは日本から姿をひそめ、長崎などで西洋人のために細々と作られていただけだったといわれています。

しかし、幕末になると、パンは「携帯食」として注目されることとなります。1840年のアヘン戦争で勝利を収めたイギリス軍が次に日本へ来襲することを恐れた幕府は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に、江戸湾の警備を命じました。この江川太郎左衛門が、携帯食としてパンに注目し、1842年4月12日にパンの試作品を焼いたのが国産パンの始まりだとされています。

明治維新を迎えると、外国人居留地のある横浜を中心に日本人経営者によるパン店も登場し始めました。また、横浜でパンの製造技術を習得した職人によるパン店も各地に少しずつ出てきたようで、文明開化の風潮につれてパン食も普及する兆しをみせ始めました。

そんな中、パンを一気に身近なものにしたのが、「あんパン」の登場でした。1869年創業の、現存するパン店で最も古い歴史を持つ銀座の老舗「木村屋」の創業者の木村安兵衛は、日本酒の酒種をパン種に使うという製造技術を考案し、この中にあんを入れた「あんパン」を売り出しました。それを明治天皇に献上したところ、非常に気に入られ、宮中で正式に取り入れられました。皇室御用達の木村屋のあんパンはあっというまに銀座名物になり、連日多くの客を集めるとともに、日本人にパンの味を伝えていきました。

あんパン

7 給食で定着したパン食文化

こうして徐々に浸透してきたパンですが、日本人の食生活にパンを普及させることになった決定的な理由は、やはり第二次世界大戦だといえるでしょう。

戦後、未曽有の食料難となった日本に対して、米国は小麦の放出を行いました。この小麦を使って焼かれたパンが配給され、パンが本格的に普及し始めるようになったのです。日本が食糧難の危機をとりあえず乗り越えた後も、米国による余剰農産物の処分という思惑もあって、学校給食にパンが導入されることになりました。ほとんどの子供が食べる学校給食で、多くの子供たちがパンと牛乳という食事のスタイルを身に付け、パン食は真に普及することになったのだといえるでしょう。

その影響で、今やパンはすっかり第二の主食として定着しています。世界中のあらゆるパンが日本で手に入り、カレーパンなど日本独自の調理パンが定着し、その人気は衰えることはありません。有機栽培の小麦を使ったパンや、高級素材を厳選したパンなど、健康志向やグルメ志向に合わせたパンも数多く登場しています。

一方で、近年は国の方針から、給食でパンが出る回数が減っているといわれています。今後日本のパン食文化がどう変化していくのかを、注目してみてはいかがでしょうか。

8 世界のさまざまなパン

1)フランスパン

砂糖や牛乳などは使わず、小麦粉・イースト・塩・水だけで作られたパンです。形によってパリジャン、バゲット、バタールなどといろいろな呼び方がありますが、いずれもパリッとした皮に特徴があります。

2)ベーグル

もともとはユダヤ教徒の食事として食べられてきたといわれるパンです。今では米国のポピュラーなパンの一つで、チーズなどの具をはさんで食べるのが一般的です。ベーグルの作り方には特徴があり、焼く直前に生地を一度ゆでます。これによって、独特のもちもちした食感が生まれます。

3)フォカッチャ

イタリア語で「火で焼いたもの」という意味のパンです。イタリア北部の郷土料理で、ピザの原型ともいわれています。生地にオリーブオイルが練り込まれ、ハーブなどで風味づけされていることが多いため、そのままでも食べられます。

以上(2023年4月)

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全社員が持てる“経営的視点”(4)~存在意義は全員で作るもの~/武田斉紀の『誰もが身に付けておきたい“経営的視点”』(8)

書いてあること

  • 主な読者:会社経営者・役員、管理職、一般社員の皆さん
  • 課題:経営幹部や管理職の方はもちろん、若手社員の方でも「経営的視点で見るように」と社長や上司から求められた経験があるのではないでしょうか。その場でうなずきはするものの、「経営的視点とは何か?」「それは社長以外の社員に必要なのか?」「会社員として働く上で、人生において価値があるのか?」「そもそもどのように身に付けていけばいいのか?」といった疑問があるのではないでしょうか
  • 解決策:課題で挙げたさまざまな質問に対して、『“経営的視点”の身に付け方』というテーマで、全国で多くの講演を行っている筆者が明快に回答します。“経営的視点”はこれからの時代において新入社員から求められる視点であって、より早く身に付けられれば、その分、仕事においても人生においてもプラスであると分かるはずです

1 「3)会社の【存在意義】」は、誰もがイメージしやすい“経営的視点”

シリーズ『武田斉紀の「誰もが身に付けておきたい“経営的視点”」』の第8回です。今回は途中にクイズ形式を盛り込んでみましたので、ぜひトライしてみてください。

社長や上司から「“経営的視点”を持て!」と求められるまでもなく、 “経営的視点”をより早く身に付けられれば、誰にとってもその分、仕事においても人生においてもプラスになります。

それ自体は何となく分かっているつもりでも、「どうすれば身に付けられるか分からない」「分かったところで自分の役割や目の前の日常業務に追われて、取り組める時間も自信もない」といったあたりが本音ではないでしょうか。

そうした声にお応えするべく、

全社員が持てる“経営的視点”の観点として、
1)会社の【成長】
2)会社の【組織力】
3)会社の【存在意義】 の3つをご紹介しています。

第5回では「1)会社の【成長】」について、第6、7回では2)「会社の【組織力】」について詳述しました。これらは“頭では理解できるけれど、視点の切り替えをかなり意識しないと経営的視点を持つのが難しい”と感じられたかもしれません。

今回からお話しする「3)会社の【存在意義】」は、多くの人にとってはそれほど強く意識しなくてもすぐに持てる視点です。一方で、それを「どのように実行すればよいのか」「そもそも共有できているのか」といった点が課題となってくるでしょう。

2 あなたの会社における「会社の【存在意義】」の状態は?

「会社の【存在意義】」とは何でしょう。最近よく耳にする「パーパス(経営)」がこれに当たるのですが、【存在意義】や「企業目的」は企業理念の一部でもあります。

「企業理念」と「パーパス」の関係、他にも「バリュー」や「ビジョン」といった英語の概念と、日本に昔からある概念との関係は分かりづらいですよね。この辺は私の専門分野ですので、またの機会に誰にも分かりやすい形に整理してお伝えしたいと思います。

ここでは「企業理念」や「パーパス」といった言葉にこだわる必要はありません。「社是」でも「綱領」でも「フィロソフィー」でも構いません。あなたの会社では、会社の【存在意義】を定めているでしょうか。それは全社で共有されているでしょうか。

各社の状態は、以下の5つのケースのどれかに当てはまると思います。

A. 会社の【存在意義】が定められていて、全社で共有されている
B. 会社の【存在意義】が定められているが、十分に共有されていない
C. 会社の【存在意義】が定められているが、絵に描いた餅
D. 会社の【存在意義】が定められているが、トップの本気の言葉ではない
E. そもそも会社の【存在意義】が定められていない

D.のケースは私に言わせれば犯罪です。本気で思ってもいないのに、さも自身の信念であるかのように掲げて、周囲を欺いているわけです。働いていればうすうす気付けるでしょうが、入社するまでは分からないでしょう。社員は転職するまでもんもんと過ごさざるをえません。まして顧客や社会は、不祥事として発覚しない限り実態を知る機会がないのです。

極端な例を挙げれば、トップは地球環境どころか地域の環境汚染すら心の中では屁(へ)とも思っておらず、悪影響を垂れ流しているのに、【存在意義】として「環境に優しい企業」とホームページに書いてある会社です。信じた顧客は事実を知らずに同社の製品を買ってしまい、意に反して環境汚染に加担してしまっているかもしれません。

E.には、会社のトップが会社の【存在意義】を意識している場合と、していない場合があり得ます。

前者には明文化こそしていないものの、実は社員全員が共有している事例があります。例えば一人ひとりが商品の品質にとことんこだわっているといったケース。老舗企業に多いのですが、トップや上司が常日ごろから口頭で「品質に妥協するな」と伝え、背中を見せてきているはずです。
後者は、トップが会社の【存在意義】を定めて共有することの重要性に気付いていないのでしょう。

A.からC.までは、トップが本気の会社の【存在意義】が定められていながらも、その共有の度合いが違うケースです。

3 「会社の【存在意義】」の共有・実行が、 “経営的視点”につながる

「会社の【存在意義】」が明文化されていたとして、その分かりやすさにもよりますが、多くの社員にとってはそれほど強く意識しなくても、すぐに持てる視点ではないかと思います。もちろんその【存在意義】に自身が共感できればという前提ではありますが。

もし共感できないのであれば、違う会社への転職を考えたほうがよいかもしれません。トップが【存在意義】に本気であれば、それに共感し、仕事を通して実行することを求められるからです。共感できないのに、毎日行動を求められるのは、精神的に苦痛でしかないでしょう。

さて、本題に戻ります。「会社の【存在意義】」を意識すれば、“経営的視点”を持つことにつながるというお話です。ここからはおのおのの伏せ字部分にどんな言葉が入るか想像しながら読んでみてください。答えは直後の「→」の後にあります。

(1)社員一人ひとりが実行した1.[〇〇〇〇]に共感するお客様は利用し続けてくださり、社会にも認められて、会社は2.[〇〇]し、3.[〇〇]していく。

→伏せ字は1.[存在意義]、2.[永続]、3.[発展]です。

【存在意義】として「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」を掲げる和菓子店があったとしましょう。【存在意義】を定めたのはトップである社長かもしれませんが、実際にお菓子を作り、届けられるのは現場の社員です。

一人ひとりが日々の仕事を通してこの【存在意義】を共有し、実行していけば、【存在意義】はお菓子の形となって、共感して購入したお客様は喜んでくださるでしょう。

お菓子との出合いが初めてで、偶然であっても、【存在意義】にひとたび共感したお客様は利用し続けてくださるはずです。もちろん同じような【存在意義】を掲げて追究している競合他社があるかもしれません。そこはどちらがより突き詰められるかの真剣勝負です。

でも、恐らくお客様の側からすれば、「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」と【存在意義】を掲げる和菓子店が2つ3つと増えたところで、むしろ大歓迎でしょう。競争によって各店の価値はさらに高まり、どのお店も手放せない存在になれるはずです。

共感するお客様に【存在意義】を感じ続けていただければ、自然と売り上げも上がりますし、正当な利益も認めてもらえるでしょう。さらには熱烈なファンとなって、企業から頼まれなくても口コミで良さを広めてくれるはずです。無理などしなくとも会社は永続し、発展していけるのです。

4 【存在意義】は社員全員で作るものだからこそ、“経営的視点”となる

(2)逆に社員の一人でも [〇〇〇〇]を見失った行動を取ってしまうと、お客様や社会から必要とされなくなる。

→伏せ字は先ほどの1.と同じ [存在意義]です。

「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」と【存在意義】を掲げていた会社が、賞味期限や消費期限を偽装していたと分かったらどうでしょう。あるいは、その日に限って素材の保管状態が良くなかったために、品質の悪いお菓子を販売していたらどうでしょう。

いずれの場合も、お客様は「素材の良さを活かす」や「安全」といった【存在意義】を信じられなくなるでしょう。誰の責任でしょうか。

一義的には、トップである社長が本気の【存在意義】を、社員に伝えきれていなかったのが原因です。しかしながら先ほども申し上げた通り、実際にお菓子を作り、届けられるのは現場の社員です。

社員の誰かが「素材の良さを活かす」や「安全」や「おいしい」のどれかで手を抜いたり、こだわりを捨ててしまったりしたらどうでしょう。社員の一人でも【存在意義】を見失った行動を取ってしまうと、お客様や社会から必要とされなくなってしまうのです。

トップの社長も現場の一社員も同じレベルで【存在意義】を共有し、実行していかなければなりません。【存在意義】は社員全員で作り上げるものであり、その意味で、一人ひとりが「会社の【存在意義】」を意識できれば、全員が同じように “経営的視点”を持てるのです。

第8回も最後までお読みいただきありがとうございました。次回も引き続き「3)会社の【存在意義】」について、さらに掘り下げてお話しします。

<ご質問を承ります>
最後まで読んでいただきありがとうございます。ご質問や疑問点などあれば以下までメールください。※個別のお問合せもこちらまで

Mail to: brightinfo@brightside.co.jp

以上(2023年2月)
(著作 ブライトサイド株式会社 代表取締役社長 武田斉紀)
https://www.brightside.co.jp/

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和菓子のうんちく

1 和菓子のうんちく

ここでは、和菓子の起源などについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解がある場合もあります。

2 和菓子の起源は果実から

農耕を始めた古代人たちは、米、あわ、麦などを主食にし、そのほかに間食として野生の果実や木の実を食べていたと考えられています。古代人にとっての菓子は、天然の果物や木の実だったということです。「菓子」という字は果物や木の実を表す「果子」という字が元とされています。

その後、穀物を加工する技術が生まれ、木の実を砕いて粉にした後、水にさらしてアクを抜き、丸めて熱を加えるなどして、いわゆる「団子」を食していたといわれています。

3 唐菓子の伝来

奈良時代になると、中国から「唐菓子(からくだもの、とうがし)」と呼ばれる食品が日本に伝わったといわれます。唐菓子は、米、麦、大豆、小豆などをこねたり、油で揚げたりしたもので、それまでの単純な穀物の加工品に比べ味や形、加工方法などが優れたものでした。多くは、祭事の供物として利用されるものだったようです。

そして平安時代になると、唐菓子が日本文化に少しずつ吸収されていきます。例えば、「源氏物語」には「椿餅(つばいもちい)」という食べものが登場しますが、これは唐菓子が日本人の好みに変化した早い例として知られています。

4 砂糖の登場

砂糖は奈良時代に唐から伝えられたと考えられています。日本にやってきた僧侶・鑑真が伝えたという説もあります。

しかし、江戸時代初頭になるまで国内で砂糖が製造されることはなく、長らく食用ではなく薬用に使われていました。菓子の甘味として一般的に使用されるようになったのも江戸時代以降といわれています。

砂糖が貴重だった時代、菓子につける甘味には、あまずら(甘蔓)と呼ばれる、ツタの汁を煮詰めたシロップが利用されていたようです。

5 お茶と和菓子

お茶は、平安時代には遣唐使によって日本に伝えられましたが、お茶と一緒にお菓子が提供されるようになったのは、鎌倉時代以後といわれています。それには、僧侶の生活が関係しており、宋へ留学した僧侶たちは、新たな教義とともに最新の食文化も持ち帰りました。

僧侶によって中国から伝来した食文化の中で、和菓子の発展に大きく影響したのは「点心」です。現在も中華料理として点心が食べられていますが、当時は食事と食事の間に食べる間食としての意味がありました。当時の点心には、わらび餅や、ようかんの原型とされるものが含まれていたようです。

その後、茶道が確立するとともに、点心は間食としての存在から茶請けとしての存在に変わっていき、茶菓子としての菓子が、現在の和菓子の源流になったと考えられています。

和菓子

6 江戸時代に発展を遂げた和菓子

安土桃山時代には、南蛮貿易でカステラなどの西洋の菓子が持ち込まれました。当時砂糖は貴重な輸入品でしたが、ポルトガルなどとの貿易で、輸入量も拡大していきました。そのため、甘い和菓子の発展には、ポルトガルの存在が欠かせなかったといわれます。

江戸時代に入るころになると、茶道とともに発展した和菓子はさらに進化を遂げていったようです。

それまでの間、文化の中心地は江戸に移りましたが、京都からの伝来物は「下りもの」として尊ばれ、和菓子もその例にもれませんでした。一方で、このころには江戸らしい庶民的でさっぱりとした菓子も登場したようです。例えば、桜餅、金つば、大福餅、おこし、せんべいなどがその代表だといわれています。

現在に至る和菓子の基本形は、この江戸時代までにほぼ完成したとされています。その後、洋菓子の登場とともに菓子への嗜好も変わり、和菓子も洋菓子の影響や嗜好の変化を受けて進化を続けながら現在に至っています。

7 和菓子を楽しく食べるための豆知識

1)6月16日は和菓子の日

和菓子の日は、和菓子の良さを見直そうと、全国和菓子協会によって創設されました。6月16日とした理由は、平安時代に国内に疫病がまん延したことから、仁明天皇が元号を「嘉祥」と改め、6月16日に16の数にちなんだ菓子や餅を神前に供えて疫病よけ、健康招福を祈ったためといわれています。

2)和菓子の保存法

生和菓子は、できるだけ早く食べることがおいしく食べる秘訣です。できれば、買ったその日のうちに食べきってしまうほうがよいでしょう。

食べきれずに保存する場合、冷蔵庫で保存すると乾燥したり固くなったりしやすいので、冷蔵庫では保管しないほうがよいでしょう。和菓子を保存する場合は、冷蔵庫よりも、冷凍用のビニール袋や、密閉容器などに入れてから冷凍保存したほうが味は落ちません。

蒸し菓子や干菓子なども、生菓子同様にできれば早めに食べきってしまうほうがおいしく食べられますが、保存する場合は冷凍保存のほうが風味を損ないません。

3)和菓子の栄養

種類にもよりますが、和菓子は洋菓子に比べてカロリーが低いものが多いようです。これは、洋菓子のようにバターやクリームを使っていないことが理由となっています。また、和菓子に使われる材料で代表的な小豆などの豆類は、繊維質が多く含まれる食材として知られています。

以上(2023年3月)

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すしのうんちく

1 すしのうんちく

この記事では、知っていればすしを食べるのがより楽しくなる、すしのうんちくについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。

2 すしの起源

すしは、東南アジア起源の外来の魚の加工法で、日本へは稲作の伝来とともに中国から伝わったとされています。もともとは漁期に捕れた魚を保存しておくために考えられたもので、魚を塩で味付けし、炊いたご飯やあわなどの穀物に漬け込むという方法で作られたとされています。この作り方は、魚を穀物と塩に漬け込むことで乳酸発酵が起こり、魚が腐敗することを防ぐ効果を利用したもので、「なれずし」といわれるものだそうです。このすしは、魚を保存することを目的としているため、魚と一緒に漬け込んだ穀物類は食べずに、魚だけを食べます。

なお、なれずしは奈良時代から平安時代ごろにかけて朝廷への貢ぎ物として利用されていました。

3 なれずしから生なれずしへ

この伝統的ななれずしで、今なお現存するものとしては、琵琶湖周辺の人たちが家庭で作っている「鮒(ふな)ずし」があります。鮒ずしは、ニゴロブナと塩とご飯のみを乳酸発酵させて作り、漬け込んだすし飯は食べずに魚だけを食べる最も古い形式のすしです。

室町時代になると、出来上がるまでに時間がかかるなれずしにかわり、なれずしよりも漬ける期間が短い「生なれずし」と呼ばれるすしが作られるようになりました。生なれずしであれば、魚などは生々しいものの、当時の貴重な食料であったご飯も魚肉とともに食べるようになります。ここでやっと米の料理としてのすしが現れることになります。


鮒ずし

4 早ずし、押しずしの登場

生なれずしが誕生すると、塩味と酸味の付いた飯そのものが楽しまれるようになり、漬け込む材料も魚介以外に野菜や山菜など、いろいろな種類に広がってきました。すしおけに塩をまぶした魚と飯を交互に重ね、ふたをして重しをすると数日で軽い酸味がしみ込みます。これが、「押しずし」や「箱ずし」の原型となりました。

江戸時代には、米酢が広く販売されるようになり、生なれずしをさらに手早く作れるように工夫されたのが「早ずし」です。早ずしは簡単に酸味が付き、一晩ほどで食べられるようになります。

5 革命的だった「握り」の発明

早ずしよりもさらに早くすしが食べたい。その願いをかなえるために改良されたのが、握りずしです。握りずしの出現は、江戸後期の文政年間ごろであろうといわれています。その考案者はすし売りから身をおこし、両国に「与兵衛ずし」を開店した華(花)屋与兵衛(以下「華屋与兵衛」)とも、深川六間堀に店を構えていた「松が鮨(すし)」ともいわれていますが、諸説があり、正確なところははっきりしていません。ただ、すしといえば関西生まれの押しずしや箱ずしが主流だった時代に、屋台や歩き売りのすし売りたちが、もっと手軽に食べられる新しいすしを求めて、創意工夫を重ねた成果だったということは有力な説となっています。

すしの世界に突如として登場した握りずしは、あっという間に庶民の間に一大ブームを巻き起こしました。多くの店がこれまでの押しずしをやめて握りずしを商い始め、すしの売り歩きから商売を始めた華屋与兵衛の店は、一躍江戸中に名前の鳴り響く超高級店に成り上がったそうです。

長い時間をかけて出来上がるなれずしに始まり、生なれずし、早ずし、押しずしと徐々に作り方が簡略化されていったすしですが、握りずしの登場によって、庶民のためのファストフードとしての地位を確立したと考えられています。

握りずし

6 「江戸前」ってなんだろう

すしは「江戸前」といいますが、もともと江戸前という言葉を使い出したのはうなぎ屋のようです。彼らは、江戸近辺で捕れるうなぎを「江戸城の前にある沼で捕れた」という意味で江戸城前、すなわち江戸前と称して串に刺して商っていました。やがて、それが江戸の前の海(東京湾)で捕れる魚介類を指すようになり、握りずしの普及に伴って江戸前ずしと称されることになったといわれています。

江戸前ずしが登場した当時は、魚の鮮度を保つため、コハダのように塩や酢で締めたり、穴子やハマグリのようにゆでて味付けしたりといった下ごしらえが必要でした。そのため、本来の意味での江戸前ずしとは、現在の東京湾で捕れた魚に「仕事」と呼ばれる何らかの下ごしらえをした上で握ったものを指すことになるといえるかもしれません。

7 すしをもっとおいしく食べるための豆知識

1)ネタを食べる順番は?

すしネタは、自分の好きな順に食べるのが一番おいしく食べられるのではないでしょうか。ただし、食べたいものを一通り食べるのならば、最初のうちに白身などの淡白なネタを食べ、それから濃いネタを頼んだほうがそれぞれの味を楽しめます。そして、最後はかっぱ巻きや新香巻きなどのさっぱりした巻物でしめるとよいかもしれません。

2)すしは手づかみ? はし?

すしを食べるときに、手づかみとはし、どちらで食べるか考えたことはありませんか?

握りずしが誕生したころは、屋台は立ったまま手づかみですしをつまむのが普通でした。しかし、カウンターで椅子に座って食べるようになると、はしを使うようになりました。

つまり、すしは手づかみでもはしでもどちらでもよいのですが、手づかみで食べるときは普段よりもよく手を洗うようにしましょう。

以上(2023年3月)

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日常生活で運動量を増やすコツ

ウォーキング

1 ちょっとしたことで運動量UP!

外にでるのは面倒…。運動は嫌いだし、時間がないし…。そんな方は、日常生活の中で運動量を増やす工夫をしてみるのはいかがでしょうか?

坂道や会社内や駅での階段等、傾斜を上り下りするのも立派な運動になります。

【傾斜の上り下りのメリット】

(1)合間の時間をみつけて出来る。
(2)筋力が鍛えられ、心肺機能の改善につながる。
(3)屋内で行えば雨の日にもできる。天候や気温に左右されない。

階段や坂道の上り下りは、平地を歩くのに比べ足腰の筋肉にかかる負荷が大きくなり、運動強度は平地の2~3倍です。そのぶん、下半身の筋肉を鍛える運動によって基礎代謝量を高める効果も期待できます。坂道で実施するなら、まずは角度が5度から10度の場所を選ぶのがお勧めです。たいした坂ではないように思われますが、実は自転車で上るのもきつい角度。最初は緩やかな角度を選び、少しずつ距離や時間を増やしていったり、角度を上げていくと無理なくできるでしょう。

【注意点】

傾斜の上り下りはゆっくりでも負荷の強い運動になりますので、階段等では手すりが付いている場所を選べば安心です。
自分の体力に応じて、何階までなら階段を使うべきかなど、決めておくのがお勧め。
現在通院中の方は、主治医へ確認をしてから実行しましょう。
また、血圧が高めの方も医師へ確認後、無理はしないようにしましょう。

2 江戸時代の運動量

265年間(諸説あり)栄えた江戸時代。
国内・海外を問わず、様々な場面で注目されています。
古き良き日本人の格好良さは世界が認めるところ。
さて、皆さんはこの時代の人々が、どのくらい歩いていたと思いますか?

当時は交通や流通が発達しておらず、自らの脚が頼りです。
例えば、最も早い飛脚は東海道(江戸-京都、約550km)を3日で駆けたそうです。
1日12時間走ったとすると、なんと時速15km!
さすがに一般の人はそれ程速くはなく、現代人とさほど変わらない4~5km/時くらい。
しかし、その移動距離はかなりのもの。
庶民の人気レジャーであったお伊勢参りでは、男性は10里、女性は8里(1里=4km)を1日で移動し、何日もかけて伊勢に向かったそうです。もちろん道路は整備されておらず、足場も悪かったので、総じて健脚だったと言えるでしょう。
加えて江戸時代は椅子が普及しておらず、室内では立ったり座ったりを繰り返す生活でした。自然とスクワットをしているようなものですね。

およそ150年を経た今、便利な時代に生きる我々も是非見習いたいものですね。

飛脚

以上(2023年3月)

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画像:photo-ac

日本人とつながりの深い「桜」の基礎知識

1 日本人に愛されてきた「桜」

日本に現存する最古の歌集である万葉集にも桜を詠んだ歌が残されており、古くから人々の生活の中に桜があったことが分かります。

しかし、当時、桜より好まれていたのは、現在の中国より伝来した梅でした。

平安時代に入ると、支配者階級の儀式などで桜が好まれるようになりました。そして812年、嵯峨天皇(さがてんのう)が行幸した平安京の神泉苑において、日本で初めて天皇の観桜の宴が行われたといわれます。その後、桜をめでるという習慣は宮中から公家や武家、そして庶民へと広がり、桜は春の花の代名詞となります。

以来、日本人と桜の間には特別な関係があります。この記事では、桜の基礎知識として「桜の種類」について紹介します。

2 意外と知らない「桜の種類」

桜は、主に北半球の温帯に広く分布しており、中でも日本列島には多くの種類が見られます。

植物学上、サクラはバラ科サクラ亜科サクラ属に分類されます。日本には、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラなど9種を基本にして、変種を合わせると100種以上のサクラが自生しているといわれます。

ソメイヨシノ

日本における桜の保存、育成、普及などを目的として設立された「日本さくらの会」によると、桜の種類は次の通りです。

サクラの種類

これらを基に、さまざまな桜が誕生しました。例えば、現在、全国の至る所で見ることのできるソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの交配によって誕生したと考えられており、江戸時代末期から明治時代にかけて生み出されたといわれます。

なお、冒頭に述べたように、一般的に桜は春に咲くイメージが強いですが、中には秋から冬にかけて咲く桜もあります。例えば、フユザクラは9月〜12月と2〜3月の2度にわたって花を咲かせます。

以上(2023年3月)

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画像:Shunji Yoshimi-Adobe Stock
画像:pixabay

増加傾向にある従業員退職型倒産

景況はようやく回復の兆しが見えつつあるものの、ウクライナ情勢の影響による原材料費高騰など、中小企業にとってはまだまだ予断を許さぬ状況といえます。

そのような中、政府が「インフレ率を超える賃上げの実現を目指す」とし、経済界に対し、物価上昇分を超える賃上げ要請をしました。これに呼応した大手企業が賃上げをする一方、業績が厳しい中小企業は、賃上げが難しく、それにより「人材流出」が顕著になり始めています。

本稿では、満足に賃上げできないことで従業員が退職し、経営破綻をした倒産(「従業員退職型倒産」)について、ご紹介いたします。

1 「従業員退職型」の人手不足倒産の推移

帝国データバンクの調査によると、2022年に判明した人手不足倒産140件のうち、従業員や経営幹部などの退職・離職が直接・間接的に起因した「従業員退職型」の人手不足倒産は、少なくとも57件判明しました。

「従業員退職型」人手不足倒産件数推移

(帝国データバンク「従業員退職型:人手不足倒産の推移」)

本年はコロナ禍以前の集計となる2019年以降、3年ぶりに増加に転じました。また、2022年の人手不足倒産に占める「従業員退職型」の割合は40.7%となっており、2021年に続き高水準で推移しています。

2 「従業員退職型」の人手不足倒産の業種別割合

2022年の「従業員退職型」の倒産を業種別にみると、人手不足倒産に占める割合が最も高いのは建設業でした。業務遂行に不可欠な資格を持つ従業員の離職が響いた企業などが目立っているようです。また、人手不足感が高止まっている業種、人材の獲得競争が激しい業種が多くなっているようです。

2022年の「従業員退職型」では建設業で割合が高い

(帝国データバンク「従業員退職型:業種別割合」)

・調査企業:帝国データバンク
・調査期間:2023年2月時点まで
・調査対象:負債1000万円以上の法的整理企業

3 さいごに

コロナ禍からの経済再開が進むなか、企業による「人材獲得競争」は、ふたたび激化しています。従業員や求職者にとって賃金は、職場を選ぶ重要な要素の1つとなることは間違いありません。しかしながら、企業がアピールすべきは必ずしも「賃金の高さ」である必要はありません。

社内の労働環境や人間関係、福利厚生、コンプライアンスなど、従業員や求職者のニーズは多種多様です。単純に賃金アップに着手するのではなく、自社の優れた点を洗い出し、他社との差別化を図る戦略を今一度考える努力をしていきましょう。

※本内容は2023年2月13日時点での内容です

(監修 社会保険労務士法人 中企団総研)

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画像:photo-ac

増加傾向にある従業員退職型倒産

景況はようやく回復の兆しが見えつつあるものの、ウクライナ情勢の影響による原材料費高騰など、中小企業にとってはまだまだ予断を許さぬ状況といえます。

そのような中、政府が「インフレ率を超える賃上げの実現を目指す」とし、経済界に対し、物価上昇分を超える賃上げ要請をしました。これに呼応した大手企業が賃上げをする一方、業績が厳しい中小企業は、賃上げが難しく、それにより「人材流出」が顕著になり始めています。

本稿では、満足に賃上げできないことで従業員が退職し、経営破綻をした倒産(「従業員退職型倒産」)について、ご紹介いたします。

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「桜」のあれこれ

1 日本人に愛されてきた「桜」

日本に現存する最古の歌集である万葉集にも桜を詠んだ歌が残されており、古くから人々の生活の中に桜があったことが分かります。

しかし、当時、桜より好まれていたのは、現在の中国より伝来した梅でした。

平安時代に入ると、支配者階級の儀式などで桜が好まれるようになりました。そして812年、嵯峨天皇(さがてんのう)が行幸した平安京の神泉苑において、日本で初めて天皇の観桜の宴が行われたといわれます。その後、桜をめでるという習慣は宮中から公家や武家、そして庶民へと広がり、桜は春の花の代名詞となります。

以来、日本人と桜の間には特別な関係があります。本稿では、「花見」のほか、「和歌」「絵画」など桜にまつわる文化について紹介します。

2 桜といえば、やはり「花見」

1年のうち、わずかな時間しか花を咲かせない桜。その桜を眺めながら、家族や仲間などが集まり、食事やお酒を楽しむ花見は、春のイベントの中では一番のメジャーどころかもしれません。

かつて、花見を行うのは貴族や武士など特権階級に限られていました。しかし、江戸時代になると、庶民の間にも花見を行う風習が広まります。江戸の代表的な桜の名所といえば上野でしたが、徳川家の菩提寺・寛永寺の境内であるため、酒を飲んで大騒ぎする場所としては不適切でした。そこで、8代将軍徳川吉宗は飛鳥山(現在の東京都北区にある飛鳥山公園)に千株以上の桜を植樹させ、行楽地として庶民に開放しました。

飛鳥山での花見では飲酒、仮装、唄、踊りなどが許可されたため、多くの庶民が集い、思い思いに花見を楽しんだといわれています。

3 「和歌」「絵画」「食文化」

1)和歌

古来、桜は多くの和歌に詠まれてきました。それらの中でも有名な歌としては、以下のものなどが挙げられます。なお、訳には諸説があります。

・「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
(訳:もし世の中に桜がなければ、春はどんなにのどかに過ごせるだろう(桜があれば、散ってしまうことが心配になるため))(在原業平)

・「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
(訳:満開の桜の下、釈迦が入滅した2月15日頃に死にたいものだ) (西行)

桜の柔らかく、儚(はかな)い美しさには、日本人の美意識に強く訴えかける「もののあわれ」があります。このため、多くの歌人に好まれました。また、「潔く散る姿」には、武士の生き方の理想が表れているとされ、武士にも愛されました。

2)絵画

絵画の分野では、我が国独自の大衆美術として、江戸時代前期に浮世絵が誕生しました。当初、浮世絵は、役者を描いたものが多く見られましたが、その後、旅の様子や風景など、さまざまな光景が描かれるようになりました。

のちに大家といわれるようになった作家の作品にも、「八重桜に小鳥」(歌川広重) 、「鷽(うそ)に垂桜(しだれざくら)」(葛飾北斎) といった桜をモチーフとした作品が残されています。しかし、浮世絵と桜の結びつきはそれにとどまりません。実は、浮世絵の版木は桜の木から作られているのです。江戸時代より、浮世絵版画を制作する際の板は、通常、ヤマザクラの木が用いられています。ヤマザクラの木はとても堅いため、細い線を彫ることができ、また大量に刷っても摩耗しにくいという性質があります。このため、浮世絵の制作にはヤマザクラが欠かせないものとなっています。

3)食文化

桜は食文化とも深いつながりを持っています。桜を用いた食べ物といえば、塩漬けの桜の葉で餡(あん)入りの餅をくるんだ桜餅が有名です。また、塩漬けにした桜の花に湯を注いだ桜湯は、主に祝いの席などで飲まれます。最近では、桜を使ったアイスクリームやゼリー、ジャムなども登場しています。

多くの場合、桜に関する食べ物は、桜の持つ気品ある明るい色合いから祝いの象徴として用いられます。

桜餅

以上(2023年3月)

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画像:eakarat-Adobe Stock
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