サイバー攻撃等による情報セキュリティ事故は、自社のみならず、関係先・関与先まで影響を与え、企業の存続にかかわる問題にまで発展する。しかしながら、サイバー攻撃で最も弱いところは、IT機器を操作する人の部分であり、漫然とIT機器を使用することが会社を危険にさらすことになる。まさに情報セキュリティ事故は、「人災」と言っても過言ではない。今回は、サイバー攻撃の種類や、サイバー攻撃を受けた時のリスクから、事故が発生した時の対応策や社内における訓練などを、わかりやすく解説していく。
中小企業の経営者が知っておきたいサイバーセキュリティ対策
1 サイバー攻撃とは
(1)業務効率化のためのIT機器
いまや、パソコン、スマートフォン、インターネット(以下「IT機器」とします)を利用せずに業務を行うことは考えられず、それらIT機器をツールとして使う事で業務を効率的におこなう事ができます。
IT機器以外にも業務で用いるツールには様々ありますが、誤った使い方をすると逆にダメージを受けることになります。
例えば、自動車。とても便利ですが、事故は避けたいものです。
製品製造のための機器も安く大量に生産するには必要ですが、場合によっては巻き込まれ事故などが発生することもあります。
IT機器なども業務を効率化するためには必須ですが、その使い方を誤れば、情報漏えいや、サイバー攻撃の的となり、業務停止や、損害賠償の責任を負うような事にもなりかねません。
IT機器を正しく使用し、サイバー攻撃から会社を守ることはこれからの業務を行っていく上で大変重要になってきます。
(2)サイバー攻撃とは
サイバー攻撃とは、インターネットやIT機器を用い、個人や組織を対象に、金銭の窃取や個人情報の詐取、あるいはシステムの機能停止などを目的として行われる攻撃です。例えば以下の様な目的があります。
- 不正アクセスにより企業が保有する機密情報や顧客情報を窃取する
- ホームページやシステムをダウンさせるなどして何かしらの被害を与える
- IDやパスワードを入手し、不正ログインやなりすましによるクレジットカードの不正利用、預金口座から送金する
(3)サイバー攻撃の目的
サイバー攻撃を行う目的はさまざまです。
- 愉快犯的な犯行や自身が持つ技術力を見せつけたいというもの
- 金銭の収奪を目的とするもの
- 特定組織の機密情報を窃取するもの
- 企業活動の停止を目的とするもの
- ある特定の相手を攻撃するための踏み台としてパソコン等を乗っ取るもの
いずれにしても、ひとたび攻撃に遭ってしまえば、企業活動に様々な影響があり、場合によっては企業存続の危機に陥ることになります。
(4)セキュリティインシデントの発生状況
IPA情報処理推進機構発行の「情報セキュリティ白書2022」によれば、国内の2021年のセキュリティインシデントの発生状況は769件となり、2020年の537件から43%増加しています。毎日2件程度、情報セキュリティ事故が発生していることになります。
また、割合が最も多いのは「不正アクセス」で、37.2% でした。
前年比では、「不正アクセス」が 141.6%、「改ざん」が 242.9%、「情報流出」が 135.6%、「その他」が 129.9% でした。
https://www.ipa.go.jp/security/publications/hakusyo/2022.html
(5)サイバー攻撃の種類
主なものについて説明します。
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【朝礼】少し春めいてきました。散歩に出かけましょう
今日は、散歩についてお話しします。歩くことは健康にいいのはもちろんのこと、そのほかにもメリットがあります。
散歩といっても、もっぱら運動目的で歩く場合はウォーキングになります。ウォーキングは1分間で100メートル、時速にすると6キロメートルのスピードです。これは、男性の急ぎ足、例えば、忘れ物に気が付いて、少し急いで戻るときのペースです。こうした歩き方をするにはトレーニングウエアにウォーキングシューズが必要です。ビジネススーツ・ビジネスシューズで歩くには無理があります。
私がお勧めするのは、時速4キロメートル程度の速すぎず遅すぎずというペースで、少し長めの距離を歩くことです。要は長めの散歩と考えてください。
散歩は、健康であれば誰でもできることです。散歩にはたくさんの効用があります。腕を振って歩くので、筋肉運動になります。長く歩けば有酸素運動となり、ダイエットにもわずかながら効果があるでしょう。汗をかくので代謝がよくなります。街を歩けば、そこには新しい発見があります。私の場合、最も効果があると感じているのは、脳が活性化されるのか、よいアイデアが浮かんだり、不安が解消されたりすることです。
歩いていると、考えたくなくても次から次へと考えが浮かんでくるのです。机に向かって熟慮していると、思考が煮詰まった状態になりがちです。そうしたとき、私は散歩に出かけるようにしています。
すると霧が晴れたように、混乱していた思考の整理ができるのです。例えば、「今後の経営方針」「仕事の具体的な進め方」「取引先への提案内容」「部下への指導方法」など机に向かっているだけでは、思い浮かばなかったようなことに気が付きます。皆さんも、思考がまとまらないときには、会社の周りを散歩してください。
お昼休みを利用して20~30分散歩するだけでも、効果はあるでしょう。より長い距離を歩くのであれば、通勤を利用し、1~2駅を歩いてください。
私は仕事の壁にぶつかって悩んでいる社員に「よく考えなさい」とアドバイスしてきました。それでも壁を破れない社員には「もう一度よく考えなさい」と言ってきました。しかし、これは間違っていたのかもしれません。壁にぶつかって悩んでいる社員の多くは、実はよく考え抜いたものの、結果がうまくいかなかったのです。
今の私のアドバイスは「よく考えなさい」、それで駄目なら「散歩に出かけなさい」と言います。何より、気分転換になりますし、思考が整理でき、気持ちが前向きになるからです。
散歩は体に大きな負担にならず、気分を爽快にしてくれます。皆さんの心と体の健康のため、仕事のためにも、散歩をお勧めします。
少し春めいてきて、暖かくなってきました。皆さん(私といっしょに)、散歩に出かけましょう。
以上(2023年3月)
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そばのうんちく
1 そばのうんちく
この記事では、知っていればそばを食べるのがより楽しくなる、そばのうんちくについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。
2 縄文時代から栽培されていたそば
そばの発祥の地は諸説ありますが、中国雲南省周辺などといわれています。
日本への伝来は早く、縄文時代とされています。高知県の当時の地層から、そばの花粉が発見されています。また、そばの花粉増加や石器の存在などから、縄文時代から弥生時代には、すでにそばの栽培も行われていたという説もあります。
3 そば切りの誕生
そうめんやうどんなど、日本の伝統的な麺類に比べ、現在のような細長い形のそば、すなわち「そば切り」が誕生したのは、比較的最近のことのようです。
そうめんやうどんのもととなったのは、「索餅(さくべい)」と呼ばれる中国伝来の麺だといわれています。索餅は、奈良時代遣唐使によって日本に伝わり、食べられるようになったそうです。
その後、詳細は不明ですが、平安時代から室町時代にかけて麺を伸ばして糸状にするそうめんが奈良県で誕生したといわれます。また、粉を練って細長く切って食べるという調理方法も中国から伝来し、室町時代初期にはすでに現在の製法に近いうどんが登場していたといわれています。
一方、本格的にそば切りが普及し出したのは、江戸中期以降のことです。この頃、そばに小麦粉のつなぎを2割ほど加えた「二八そば」が登場したといわれています。喉ごしが良くて安価なことから、これがそば人気の定着を後押ししたようです。
4 全国の名物そば
1)津軽そば(青森県・津軽)
大豆を水に浸してそば粉に混ぜ込んだものです。甘みのあるそばで、日持ちがよいとされています。
2)わんこそば(岩手県)
大食いのイメージが定着しているわんこそばですが、もともとは大切なお客さんにたくさんそばを食べてもらうためのもてなし料理だったといわれています。素早く椀(わん)に投げ入れられるそばと一緒に、刺し身や鶏肉そぼろなどの豪華な薬味が添えられます。
3)大根そば(栃木県・佐野)
刺し身のつまのように細く切った大根を、そばと盛り合わせるのが大根そばです。明治時代から郷土料理として食べられているようです。
4)深大寺そば(東京都)
その昔、江戸(現・東京都)にある深大寺の住職が、まわりの人々や全国の大名に深大寺そばのおいしさを言い広め、その味の良さが広まったことから有名になったのが深大寺そばです。
5)富倉そば(長野県・富倉)
山ごぼうの葉を干して取った繊維をつなぎにしたそばです。そばの色は濃く、シコシコとした独特の食感と豊かな香りに特徴があるといわれています。
6)へぎそば(新潟県・小千谷)
衣類ののりづけにも使われる「フノリ」という海草をつなぎにして打ったそばです。口に広がる磯の香りが特徴です。なお、へぎというのはそばを盛る細長い木箱のことです。一箸分ずつを、波紋のように美しく並べる盛りつけも、へぎそば独特のものです。
7)割子そば(島根県・出雲)
何段にも重なった器に、とりどりの薬味をのせたそばを盛るのが割子そばです。出雲そばは甘皮の部分まで粉にひくので、色が黒く、香りが高いのが特徴だといわれています。
5 そばをもっとおいしく食べるための豆知識
1)関東のそばと関西のうどん
一般的に、関東ではそばが好まれる地域が多く、関西ではうどんが好まれる地域が多くなっています。なぜこうなったか、はっきりとしたことは分からないものの、理由の一つとしてよく挙げられるのは「気候風土の違い」です。小麦の栽培には、年間を通して温暖な気候が必要ですが、そばは寒冷地に強いという特徴があります。そのため、気温の低い関東以北ではそばを栽培する地域が多く、これが食文化の違いになっていったと考えられています。
2)そばの栄養
そばには多くのビタミン類が含まれています。例えば、心臓病の予防や、食欲不振の解消といった効果が期待できるとされるビタミンBl、高血圧や動脈硬化の予防効果が期待できるとされるビタミンB2などが含まれています。また、ポリフェノールの一種であるルチンも豊富に含まれており、毛細血管の強化や膵臓(すいぞう)機能の活性化などの効果が期待できるといわれています。
以上(2023年3月)
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カレーのうんちく
1 カレーのうんちく
この記事では、知っていればカレーを食べるのがより楽しくなる、カレーのうんちくについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。
2 「カレー」の語源
カレーの起源となったのは、インドとその周辺諸国の料理だといわれています。しかし、インドには「カレー」という名の料理はないようです。インド料理でカレーにあたる料理には、日本のようなカレー粉は使われません。食材や調理法に合わせ、その都度、必要なスパイスを組み合わせます。中にはあらかじめ混合されたスパイスもあり、こうしたインドの伝統的な混合香辛料は「マサラ」と呼ばれています。
カレー(Curry)の語源については、タミール語で「ソース」を意味する「Kari(カリ)」に由来するという説や、ヒンズー語で「おいしいもの」を意味する「Turcarri(ターカリー)」から来たという説など、諸説あります。
3 英国人とカレー
英国は1600年代初頭、インドにインド以東のアジア地域との貿易を独占的に行う特権会社、東インド会社を設立しました。インドの植民地支配が国家による支配に切り替えられるまで、東インド会社がインドの植民地支配の機関としての役割を担いました。これは、当時は貴重品だった香辛料を確保するために、日常の食事の中でさまざまな香辛料を取り入れているインドを支配して、英国が香辛料貿易を独占することが目的であったとされています。
1772年ごろに、東インド会社社員ヘースティングズが、英国にカレーの原料となるスパイスを伝え、このスパイスを使った料理と米を組み合わせた料理が、英国でのカレーの始まりだといわれています。なお、このヘースティングズは、のちにベンガル総督になりました。
インドのカレーは、基本的に小麦粉を使わず、他国のもののようにとろみの出るまで煮込むことはあまりありませんが、英国では小麦粉をバターなどで炒めたルーを使う煮込み料理としてアレンジされ、大人気となったようです。
4 日本に紹介されたカレー
日本に初めてカレーの作り方が紹介されたのは、明治5年(1872年)に刊行された敬学堂主人の「西洋料理指南」と仮名垣魯文の「西洋料理通」といわれています。
これらの料理書では、カレーはご飯にかけて食べるものとして紹介されていたようです。日本のカレーには、はじめからご飯がつきものだったようです。
5 ひょんなことから見直された国産カレー粉
初めての国産カレー粉は、明治36年(1903年。明治38年という説もある)に、大阪の「今村弥」(現・ハチ食品)が発売したのが最初だといわれています。その後も各社からカレー粉が発売され、日本のカレー粉は徐々にその品質を上げていきました。
しかし、当時のプロの料理人たちは国産カレー粉の質が劣ると考え、英国のC&B製カレー粉を中心に使っていたようです。ところが、自社のカレー粉の日本での流通量が出荷量に比べて多すぎるという疑いを持ったC&B社が調査を行ったところ、昭和6年(1931年)に出回っていた商品の相当数が偽物であることが判明し、騒動になりました。
ただ、結果的にはこの一件により、国産カレー粉の品質がC&Bのカレー粉に遜色ないと知れ渡りました。そして国産カレー粉が一気に普及し、家庭の食卓にカレーが並ぶようになったといわれています。
6 カレー調理に革命を起こした即席カレー
家庭で作るカレーといえば、今ではルーを割り入れて溶かすだけの即席カレーが一般的です。即席カレーの元祖とされているのは「一貫堂」の、肉も入っていて、お湯に溶くだけで食べられる「カレーライスのタネ」ですが、詳しい資料はありません。そのため、大正3年(1914年)に発売された岡本商店の「ロンドン土産即席カレー」が元祖といわれることもあります。
また、大正15年(1926年)に「浦上商店」(現・ハウス食品)が「ホームカレー」を発売するなど、現在まで続くブランドの商品が登場しています。
なお、さらに手軽に食べられるカレーとして人気の高いレトルトカレーの元祖は、昭和43年(1968年)に発売された「大塚食品」の「ボンカレー」といわれています。
7 カレーをもっとおいしく食べるための豆知識
1)カレーうどんやカレーパンの誕生
カレーの魅力の一つに、他の色々なメニューにアレンジできる応用力の高さがあります。例えば、カレーを使った代表的なメニューにカレーうどん(そば)やカレーパンなどがあります。カレーうどん(そば)の始まりについては詳しい記録が残っていませんが、明治41年(1908年)ごろには、大阪のそば屋で「カレー南蛮」が誕生していたようです。また、カレーパンは昭和2年(1927年)に東京のパン屋である「名花堂」(現・やきたてパン カトレア)が発売を開始しました。
2)香辛料の薬効
カレーに使われる多彩な香辛料は、その多くが漢方薬として使われるものでもあります。例えば、ターメリックは消毒効果を持ち、肝機能を高める作用のある「ウコン」、クローブは消化促進や口臭予防効果のある「チョウジ」の別名です。
以上(2023年3月更新)
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パンのうんちく
1 パンのうんちく
ここでは、パンが発見されたきっかけなどについてみていきます。なお、以下で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。
2 パンが発見されたきっかけ
現在の主流となっているたくさんの空気を含んだ「発酵パン」は、ちょっとした偶然から生まれたといわれています。定かではありませんが、一説には、4000年ほど前に、エジプトで単純に前日残ったパン種を翌日そのまま焼いたら発酵パンが出来上がったといわれます。空気中などに漂っている野生酵母が偶然にパンを発酵させたのでしょう。
3 ギリシャからローマへ
発酵パンはその後、イオニア(現在のエーゲ海沿岸地方)を経てギリシャへと伝わったとされています。ギリシャでは、レーズン、オレンジ、オリーブといった豊富な農産物と、ワイン造りの発酵技術がパンに応用されました。また、専門の職人によってパンが店売りされるようになります。
そして、古代ローマ時代には、パンの量産化がある程度できるようになっていたようです。ローマ市内には国営のパン焼き釜が設置され、パンの大量生産が行われていたといいます。
4 ヨーロッパ全土へ広がるパン
古代ローマ時代には、ローマ軍の遠征によって、ヨーロッパ各地にパン作りの技術が広まりました。しかし、5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、パン食文化は衰退していきます。パン作りは、修道院や貴族などが担うようになり、庶民は自分でパンを作ることが難しい時代となりました。
しかし、次第に庶民もパンを作ることができるようになります。14世紀ごろからイタリアで始まるルネッサンスになると、パン食文化がまた花開きます。フランスのフランスパン、東欧やロシアのライ麦パンなど、各国の素材や風土に合ったさまざまなパンが確立され、各国独自のパン文化が発達していきました。
5 長く不明だった発酵のメカニズム
それぞれの国の気候や風土に合わせたパン作りが発達し、ヨーロッパ中にパンが普及した後も、「なぜパンが発酵するか」という理由は、科学的に解明されてはいなかったようです。当時、製パンの技術は職人の経験とカンに頼る、いわば職人芸的なものだったのかもしれません。
パンが発酵するメカニズムが解明されたのは17世紀後半とされています。顕微鏡を発明したオランダのレーウェンフックが「酵母(イースト)」の存在を発見し、酵母菌を分離培養することに成功したのがきっかけとされています。
この発見によって酵母の研究は大きく進歩し、それまでの不安定な酵母から、管理された安定した酵母ができるようになったようです。長いパンの歴史の中、その原理が解明されたのはそれほど昔のことではないようです。
6 あんパンの誕生
パンが日本に伝来したのは、1543年に鉄砲がもたらされたのと同時期のようです。ポルトガルの宣教師がキリスト教の布教を行う中、パン食文化も日本に徐々に広がっていきました。しかし、その後の鎖国によって西洋風のパンは日本から姿をひそめ、長崎などで西洋人のために細々と作られていただけだったといわれています。
しかし、幕末になると、パンは「携帯食」として注目されることとなります。1840年のアヘン戦争で勝利を収めたイギリス軍が次に日本へ来襲することを恐れた幕府は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に、江戸湾の警備を命じました。この江川太郎左衛門が、携帯食としてパンに注目し、1842年4月12日にパンの試作品を焼いたのが国産パンの始まりだとされています。
明治維新を迎えると、外国人居留地のある横浜を中心に日本人経営者によるパン店も登場し始めました。また、横浜でパンの製造技術を習得した職人によるパン店も各地に少しずつ出てきたようで、文明開化の風潮につれてパン食も普及する兆しをみせ始めました。
そんな中、パンを一気に身近なものにしたのが、「あんパン」の登場でした。1869年創業の、現存するパン店で最も古い歴史を持つ銀座の老舗「木村屋」の創業者の木村安兵衛は、日本酒の酒種をパン種に使うという製造技術を考案し、この中にあんを入れた「あんパン」を売り出しました。それを明治天皇に献上したところ、非常に気に入られ、宮中で正式に取り入れられました。皇室御用達の木村屋のあんパンはあっというまに銀座名物になり、連日多くの客を集めるとともに、日本人にパンの味を伝えていきました。
7 給食で定着したパン食文化
こうして徐々に浸透してきたパンですが、日本人の食生活にパンを普及させることになった決定的な理由は、やはり第二次世界大戦だといえるでしょう。
戦後、未曽有の食料難となった日本に対して、米国は小麦の放出を行いました。この小麦を使って焼かれたパンが配給され、パンが本格的に普及し始めるようになったのです。日本が食糧難の危機をとりあえず乗り越えた後も、米国による余剰農産物の処分という思惑もあって、学校給食にパンが導入されることになりました。ほとんどの子供が食べる学校給食で、多くの子供たちがパンと牛乳という食事のスタイルを身に付け、パン食は真に普及することになったのだといえるでしょう。
その影響で、今やパンはすっかり第二の主食として定着しています。世界中のあらゆるパンが日本で手に入り、カレーパンなど日本独自の調理パンが定着し、その人気は衰えることはありません。有機栽培の小麦を使ったパンや、高級素材を厳選したパンなど、健康志向やグルメ志向に合わせたパンも数多く登場しています。
一方で、近年は国の方針から、給食でパンが出る回数が減っているといわれています。今後日本のパン食文化がどう変化していくのかを、注目してみてはいかがでしょうか。
8 世界のさまざまなパン
1)フランスパン
砂糖や牛乳などは使わず、小麦粉・イースト・塩・水だけで作られたパンです。形によってパリジャン、バゲット、バタールなどといろいろな呼び方がありますが、いずれもパリッとした皮に特徴があります。
2)ベーグル
もともとはユダヤ教徒の食事として食べられてきたといわれるパンです。今では米国のポピュラーなパンの一つで、チーズなどの具をはさんで食べるのが一般的です。ベーグルの作り方には特徴があり、焼く直前に生地を一度ゆでます。これによって、独特のもちもちした食感が生まれます。
3)フォカッチャ
イタリア語で「火で焼いたもの」という意味のパンです。イタリア北部の郷土料理で、ピザの原型ともいわれています。生地にオリーブオイルが練り込まれ、ハーブなどで風味づけされていることが多いため、そのままでも食べられます。
以上(2023年4月)
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全社員が持てる“経営的視点”(4)~存在意義は全員で作るもの~/武田斉紀の『誰もが身に付けておきたい“経営的視点”』(8)
書いてあること
- 主な読者:会社経営者・役員、管理職、一般社員の皆さん
- 課題:経営幹部や管理職の方はもちろん、若手社員の方でも「経営的視点で見るように」と社長や上司から求められた経験があるのではないでしょうか。その場でうなずきはするものの、「経営的視点とは何か?」「それは社長以外の社員に必要なのか?」「会社員として働く上で、人生において価値があるのか?」「そもそもどのように身に付けていけばいいのか?」といった疑問があるのではないでしょうか
- 解決策:課題で挙げたさまざまな質問に対して、『“経営的視点”の身に付け方』というテーマで、全国で多くの講演を行っている筆者が明快に回答します。“経営的視点”はこれからの時代において新入社員から求められる視点であって、より早く身に付けられれば、その分、仕事においても人生においてもプラスであると分かるはずです
1 「3)会社の【存在意義】」は、誰もがイメージしやすい“経営的視点”
シリーズ『武田斉紀の「誰もが身に付けておきたい“経営的視点”」』の第8回です。今回は途中にクイズ形式を盛り込んでみましたので、ぜひトライしてみてください。
社長や上司から「“経営的視点”を持て!」と求められるまでもなく、 “経営的視点”をより早く身に付けられれば、誰にとってもその分、仕事においても人生においてもプラスになります。
それ自体は何となく分かっているつもりでも、「どうすれば身に付けられるか分からない」「分かったところで自分の役割や目の前の日常業務に追われて、取り組める時間も自信もない」といったあたりが本音ではないでしょうか。
そうした声にお応えするべく、
全社員が持てる“経営的視点”の観点として、
1)会社の【成長】
2)会社の【組織力】
3)会社の【存在意義】 の3つをご紹介しています。
第5回では「1)会社の【成長】」について、第6、7回では2)「会社の【組織力】」について詳述しました。これらは“頭では理解できるけれど、視点の切り替えをかなり意識しないと経営的視点を持つのが難しい”と感じられたかもしれません。
今回からお話しする「3)会社の【存在意義】」は、多くの人にとってはそれほど強く意識しなくてもすぐに持てる視点です。一方で、それを「どのように実行すればよいのか」「そもそも共有できているのか」といった点が課題となってくるでしょう。
2 あなたの会社における「会社の【存在意義】」の状態は?
「会社の【存在意義】」とは何でしょう。最近よく耳にする「パーパス(経営)」がこれに当たるのですが、【存在意義】や「企業目的」は企業理念の一部でもあります。
「企業理念」と「パーパス」の関係、他にも「バリュー」や「ビジョン」といった英語の概念と、日本に昔からある概念との関係は分かりづらいですよね。この辺は私の専門分野ですので、またの機会に誰にも分かりやすい形に整理してお伝えしたいと思います。
ここでは「企業理念」や「パーパス」といった言葉にこだわる必要はありません。「社是」でも「綱領」でも「フィロソフィー」でも構いません。あなたの会社では、会社の【存在意義】を定めているでしょうか。それは全社で共有されているでしょうか。
各社の状態は、以下の5つのケースのどれかに当てはまると思います。
A. 会社の【存在意義】が定められていて、全社で共有されている
B. 会社の【存在意義】が定められているが、十分に共有されていない
C. 会社の【存在意義】が定められているが、絵に描いた餅
D. 会社の【存在意義】が定められているが、トップの本気の言葉ではない
E. そもそも会社の【存在意義】が定められていない
D.のケースは私に言わせれば犯罪です。本気で思ってもいないのに、さも自身の信念であるかのように掲げて、周囲を欺いているわけです。働いていればうすうす気付けるでしょうが、入社するまでは分からないでしょう。社員は転職するまでもんもんと過ごさざるをえません。まして顧客や社会は、不祥事として発覚しない限り実態を知る機会がないのです。
極端な例を挙げれば、トップは地球環境どころか地域の環境汚染すら心の中では屁(へ)とも思っておらず、悪影響を垂れ流しているのに、【存在意義】として「環境に優しい企業」とホームページに書いてある会社です。信じた顧客は事実を知らずに同社の製品を買ってしまい、意に反して環境汚染に加担してしまっているかもしれません。
E.には、会社のトップが会社の【存在意義】を意識している場合と、していない場合があり得ます。
前者には明文化こそしていないものの、実は社員全員が共有している事例があります。例えば一人ひとりが商品の品質にとことんこだわっているといったケース。老舗企業に多いのですが、トップや上司が常日ごろから口頭で「品質に妥協するな」と伝え、背中を見せてきているはずです。
後者は、トップが会社の【存在意義】を定めて共有することの重要性に気付いていないのでしょう。
A.からC.までは、トップが本気の会社の【存在意義】が定められていながらも、その共有の度合いが違うケースです。
3 「会社の【存在意義】」の共有・実行が、 “経営的視点”につながる
「会社の【存在意義】」が明文化されていたとして、その分かりやすさにもよりますが、多くの社員にとってはそれほど強く意識しなくても、すぐに持てる視点ではないかと思います。もちろんその【存在意義】に自身が共感できればという前提ではありますが。
もし共感できないのであれば、違う会社への転職を考えたほうがよいかもしれません。トップが【存在意義】に本気であれば、それに共感し、仕事を通して実行することを求められるからです。共感できないのに、毎日行動を求められるのは、精神的に苦痛でしかないでしょう。
さて、本題に戻ります。「会社の【存在意義】」を意識すれば、“経営的視点”を持つことにつながるというお話です。ここからはおのおのの伏せ字部分にどんな言葉が入るか想像しながら読んでみてください。答えは直後の「→」の後にあります。
(1)社員一人ひとりが実行した1.[〇〇〇〇]に共感するお客様は利用し続けてくださり、社会にも認められて、会社は2.[〇〇]し、3.[〇〇]していく。
→伏せ字は1.[存在意義]、2.[永続]、3.[発展]です。
【存在意義】として「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」を掲げる和菓子店があったとしましょう。【存在意義】を定めたのはトップである社長かもしれませんが、実際にお菓子を作り、届けられるのは現場の社員です。
一人ひとりが日々の仕事を通してこの【存在意義】を共有し、実行していけば、【存在意義】はお菓子の形となって、共感して購入したお客様は喜んでくださるでしょう。
お菓子との出合いが初めてで、偶然であっても、【存在意義】にひとたび共感したお客様は利用し続けてくださるはずです。もちろん同じような【存在意義】を掲げて追究している競合他社があるかもしれません。そこはどちらがより突き詰められるかの真剣勝負です。
でも、恐らくお客様の側からすれば、「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」と【存在意義】を掲げる和菓子店が2つ3つと増えたところで、むしろ大歓迎でしょう。競争によって各店の価値はさらに高まり、どのお店も手放せない存在になれるはずです。
共感するお客様に【存在意義】を感じ続けていただければ、自然と売り上げも上がりますし、正当な利益も認めてもらえるでしょう。さらには熱烈なファンとなって、企業から頼まれなくても口コミで良さを広めてくれるはずです。無理などしなくとも会社は永続し、発展していけるのです。
4 【存在意義】は社員全員で作るものだからこそ、“経営的視点”となる
(2)逆に社員の一人でも [〇〇〇〇]を見失った行動を取ってしまうと、お客様や社会から必要とされなくなる。
→伏せ字は先ほどの1.と同じ [存在意義]です。
「素材の良さを活かした安全でおいしいお菓子を届ける」と【存在意義】を掲げていた会社が、賞味期限や消費期限を偽装していたと分かったらどうでしょう。あるいは、その日に限って素材の保管状態が良くなかったために、品質の悪いお菓子を販売していたらどうでしょう。
いずれの場合も、お客様は「素材の良さを活かす」や「安全」といった【存在意義】を信じられなくなるでしょう。誰の責任でしょうか。
一義的には、トップである社長が本気の【存在意義】を、社員に伝えきれていなかったのが原因です。しかしながら先ほども申し上げた通り、実際にお菓子を作り、届けられるのは現場の社員です。
社員の誰かが「素材の良さを活かす」や「安全」や「おいしい」のどれかで手を抜いたり、こだわりを捨ててしまったりしたらどうでしょう。社員の一人でも【存在意義】を見失った行動を取ってしまうと、お客様や社会から必要とされなくなってしまうのです。
トップの社長も現場の一社員も同じレベルで【存在意義】を共有し、実行していかなければなりません。【存在意義】は社員全員で作り上げるものであり、その意味で、一人ひとりが「会社の【存在意義】」を意識できれば、全員が同じように “経営的視点”を持てるのです。
第8回も最後までお読みいただきありがとうございました。次回も引き続き「3)会社の【存在意義】」について、さらに掘り下げてお話しします。
<ご質問を承ります>
最後まで読んでいただきありがとうございます。ご質問や疑問点などあれば以下までメールください。※個別のお問合せもこちらまで
Mail to: brightinfo@brightside.co.jp
以上(2023年2月)
(著作 ブライトサイド株式会社 代表取締役社長 武田斉紀)
https://www.brightside.co.jp/
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和菓子のうんちく
1 和菓子のうんちく
ここでは、和菓子の起源などについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解がある場合もあります。
2 和菓子の起源は果実から
農耕を始めた古代人たちは、米、あわ、麦などを主食にし、そのほかに間食として野生の果実や木の実を食べていたと考えられています。古代人にとっての菓子は、天然の果物や木の実だったということです。「菓子」という字は果物や木の実を表す「果子」という字が元とされています。
その後、穀物を加工する技術が生まれ、木の実を砕いて粉にした後、水にさらしてアクを抜き、丸めて熱を加えるなどして、いわゆる「団子」を食していたといわれています。
3 唐菓子の伝来
奈良時代になると、中国から「唐菓子(からくだもの、とうがし)」と呼ばれる食品が日本に伝わったといわれます。唐菓子は、米、麦、大豆、小豆などをこねたり、油で揚げたりしたもので、それまでの単純な穀物の加工品に比べ味や形、加工方法などが優れたものでした。多くは、祭事の供物として利用されるものだったようです。
そして平安時代になると、唐菓子が日本文化に少しずつ吸収されていきます。例えば、「源氏物語」には「椿餅(つばいもちい)」という食べものが登場しますが、これは唐菓子が日本人の好みに変化した早い例として知られています。
4 砂糖の登場
砂糖は奈良時代に唐から伝えられたと考えられています。日本にやってきた僧侶・鑑真が伝えたという説もあります。
しかし、江戸時代初頭になるまで国内で砂糖が製造されることはなく、長らく食用ではなく薬用に使われていました。菓子の甘味として一般的に使用されるようになったのも江戸時代以降といわれています。
砂糖が貴重だった時代、菓子につける甘味には、あまずら(甘蔓)と呼ばれる、ツタの汁を煮詰めたシロップが利用されていたようです。
5 お茶と和菓子
お茶は、平安時代には遣唐使によって日本に伝えられましたが、お茶と一緒にお菓子が提供されるようになったのは、鎌倉時代以後といわれています。それには、僧侶の生活が関係しており、宋へ留学した僧侶たちは、新たな教義とともに最新の食文化も持ち帰りました。
僧侶によって中国から伝来した食文化の中で、和菓子の発展に大きく影響したのは「点心」です。現在も中華料理として点心が食べられていますが、当時は食事と食事の間に食べる間食としての意味がありました。当時の点心には、わらび餅や、ようかんの原型とされるものが含まれていたようです。
その後、茶道が確立するとともに、点心は間食としての存在から茶請けとしての存在に変わっていき、茶菓子としての菓子が、現在の和菓子の源流になったと考えられています。
6 江戸時代に発展を遂げた和菓子
安土桃山時代には、南蛮貿易でカステラなどの西洋の菓子が持ち込まれました。当時砂糖は貴重な輸入品でしたが、ポルトガルなどとの貿易で、輸入量も拡大していきました。そのため、甘い和菓子の発展には、ポルトガルの存在が欠かせなかったといわれます。
江戸時代に入るころになると、茶道とともに発展した和菓子はさらに進化を遂げていったようです。
それまでの間、文化の中心地は江戸に移りましたが、京都からの伝来物は「下りもの」として尊ばれ、和菓子もその例にもれませんでした。一方で、このころには江戸らしい庶民的でさっぱりとした菓子も登場したようです。例えば、桜餅、金つば、大福餅、おこし、せんべいなどがその代表だといわれています。
現在に至る和菓子の基本形は、この江戸時代までにほぼ完成したとされています。その後、洋菓子の登場とともに菓子への嗜好も変わり、和菓子も洋菓子の影響や嗜好の変化を受けて進化を続けながら現在に至っています。
7 和菓子を楽しく食べるための豆知識
1)6月16日は和菓子の日
和菓子の日は、和菓子の良さを見直そうと、全国和菓子協会によって創設されました。6月16日とした理由は、平安時代に国内に疫病がまん延したことから、仁明天皇が元号を「嘉祥」と改め、6月16日に16の数にちなんだ菓子や餅を神前に供えて疫病よけ、健康招福を祈ったためといわれています。
2)和菓子の保存法
生和菓子は、できるだけ早く食べることがおいしく食べる秘訣です。できれば、買ったその日のうちに食べきってしまうほうがよいでしょう。
食べきれずに保存する場合、冷蔵庫で保存すると乾燥したり固くなったりしやすいので、冷蔵庫では保管しないほうがよいでしょう。和菓子を保存する場合は、冷蔵庫よりも、冷凍用のビニール袋や、密閉容器などに入れてから冷凍保存したほうが味は落ちません。
蒸し菓子や干菓子なども、生菓子同様にできれば早めに食べきってしまうほうがおいしく食べられますが、保存する場合は冷凍保存のほうが風味を損ないません。
3)和菓子の栄養
種類にもよりますが、和菓子は洋菓子に比べてカロリーが低いものが多いようです。これは、洋菓子のようにバターやクリームを使っていないことが理由となっています。また、和菓子に使われる材料で代表的な小豆などの豆類は、繊維質が多く含まれる食材として知られています。
以上(2023年3月)
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すしのうんちく
1 すしのうんちく
この記事では、知っていればすしを食べるのがより楽しくなる、すしのうんちくについてみていきます。なお、以降で紹介するのは諸説あるうちの一説であり、異なる見解があることをご了承ください。
2 すしの起源
すしは、東南アジア起源の外来の魚の加工法で、日本へは稲作の伝来とともに中国から伝わったとされています。もともとは漁期に捕れた魚を保存しておくために考えられたもので、魚を塩で味付けし、炊いたご飯やあわなどの穀物に漬け込むという方法で作られたとされています。この作り方は、魚を穀物と塩に漬け込むことで乳酸発酵が起こり、魚が腐敗することを防ぐ効果を利用したもので、「なれずし」といわれるものだそうです。このすしは、魚を保存することを目的としているため、魚と一緒に漬け込んだ穀物類は食べずに、魚だけを食べます。
なお、なれずしは奈良時代から平安時代ごろにかけて朝廷への貢ぎ物として利用されていました。
3 なれずしから生なれずしへ
この伝統的ななれずしで、今なお現存するものとしては、琵琶湖周辺の人たちが家庭で作っている「鮒(ふな)ずし」があります。鮒ずしは、ニゴロブナと塩とご飯のみを乳酸発酵させて作り、漬け込んだすし飯は食べずに魚だけを食べる最も古い形式のすしです。
室町時代になると、出来上がるまでに時間がかかるなれずしにかわり、なれずしよりも漬ける期間が短い「生なれずし」と呼ばれるすしが作られるようになりました。生なれずしであれば、魚などは生々しいものの、当時の貴重な食料であったご飯も魚肉とともに食べるようになります。ここでやっと米の料理としてのすしが現れることになります。
4 早ずし、押しずしの登場
生なれずしが誕生すると、塩味と酸味の付いた飯そのものが楽しまれるようになり、漬け込む材料も魚介以外に野菜や山菜など、いろいろな種類に広がってきました。すしおけに塩をまぶした魚と飯を交互に重ね、ふたをして重しをすると数日で軽い酸味がしみ込みます。これが、「押しずし」や「箱ずし」の原型となりました。
江戸時代には、米酢が広く販売されるようになり、生なれずしをさらに手早く作れるように工夫されたのが「早ずし」です。早ずしは簡単に酸味が付き、一晩ほどで食べられるようになります。
5 革命的だった「握り」の発明
早ずしよりもさらに早くすしが食べたい。その願いをかなえるために改良されたのが、握りずしです。握りずしの出現は、江戸後期の文政年間ごろであろうといわれています。その考案者はすし売りから身をおこし、両国に「与兵衛ずし」を開店した華(花)屋与兵衛(以下「華屋与兵衛」)とも、深川六間堀に店を構えていた「松が鮨(すし)」ともいわれていますが、諸説があり、正確なところははっきりしていません。ただ、すしといえば関西生まれの押しずしや箱ずしが主流だった時代に、屋台や歩き売りのすし売りたちが、もっと手軽に食べられる新しいすしを求めて、創意工夫を重ねた成果だったということは有力な説となっています。
すしの世界に突如として登場した握りずしは、あっという間に庶民の間に一大ブームを巻き起こしました。多くの店がこれまでの押しずしをやめて握りずしを商い始め、すしの売り歩きから商売を始めた華屋与兵衛の店は、一躍江戸中に名前の鳴り響く超高級店に成り上がったそうです。
長い時間をかけて出来上がるなれずしに始まり、生なれずし、早ずし、押しずしと徐々に作り方が簡略化されていったすしですが、握りずしの登場によって、庶民のためのファストフードとしての地位を確立したと考えられています。
6 「江戸前」ってなんだろう
すしは「江戸前」といいますが、もともと江戸前という言葉を使い出したのはうなぎ屋のようです。彼らは、江戸近辺で捕れるうなぎを「江戸城の前にある沼で捕れた」という意味で江戸城前、すなわち江戸前と称して串に刺して商っていました。やがて、それが江戸の前の海(東京湾)で捕れる魚介類を指すようになり、握りずしの普及に伴って江戸前ずしと称されることになったといわれています。
江戸前ずしが登場した当時は、魚の鮮度を保つため、コハダのように塩や酢で締めたり、穴子やハマグリのようにゆでて味付けしたりといった下ごしらえが必要でした。そのため、本来の意味での江戸前ずしとは、現在の東京湾で捕れた魚に「仕事」と呼ばれる何らかの下ごしらえをした上で握ったものを指すことになるといえるかもしれません。
7 すしをもっとおいしく食べるための豆知識
1)ネタを食べる順番は?
すしネタは、自分の好きな順に食べるのが一番おいしく食べられるのではないでしょうか。ただし、食べたいものを一通り食べるのならば、最初のうちに白身などの淡白なネタを食べ、それから濃いネタを頼んだほうがそれぞれの味を楽しめます。そして、最後はかっぱ巻きや新香巻きなどのさっぱりした巻物でしめるとよいかもしれません。
2)すしは手づかみ? はし?
すしを食べるときに、手づかみとはし、どちらで食べるか考えたことはありませんか?
握りずしが誕生したころは、屋台は立ったまま手づかみですしをつまむのが普通でした。しかし、カウンターで椅子に座って食べるようになると、はしを使うようになりました。
つまり、すしは手づかみでもはしでもどちらでもよいのですが、手づかみで食べるときは普段よりもよく手を洗うようにしましょう。
以上(2023年3月)
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日常生活で運動量を増やすコツ
1 ちょっとしたことで運動量UP!
外にでるのは面倒…。運動は嫌いだし、時間がないし…。そんな方は、日常生活の中で運動量を増やす工夫をしてみるのはいかがでしょうか?
坂道や会社内や駅での階段等、傾斜を上り下りするのも立派な運動になります。
【傾斜の上り下りのメリット】
(1)合間の時間をみつけて出来る。
(2)筋力が鍛えられ、心肺機能の改善につながる。
(3)屋内で行えば雨の日にもできる。天候や気温に左右されない。
階段や坂道の上り下りは、平地を歩くのに比べ足腰の筋肉にかかる負荷が大きくなり、運動強度は平地の2~3倍です。そのぶん、下半身の筋肉を鍛える運動によって基礎代謝量を高める効果も期待できます。坂道で実施するなら、まずは角度が5度から10度の場所を選ぶのがお勧めです。たいした坂ではないように思われますが、実は自転車で上るのもきつい角度。最初は緩やかな角度を選び、少しずつ距離や時間を増やしていったり、角度を上げていくと無理なくできるでしょう。
【注意点】
傾斜の上り下りはゆっくりでも負荷の強い運動になりますので、階段等では手すりが付いている場所を選べば安心です。
自分の体力に応じて、何階までなら階段を使うべきかなど、決めておくのがお勧め。
現在通院中の方は、主治医へ確認をしてから実行しましょう。
また、血圧が高めの方も医師へ確認後、無理はしないようにしましょう。
2 江戸時代の運動量
265年間(諸説あり)栄えた江戸時代。
国内・海外を問わず、様々な場面で注目されています。
古き良き日本人の格好良さは世界が認めるところ。
さて、皆さんはこの時代の人々が、どのくらい歩いていたと思いますか?
当時は交通や流通が発達しておらず、自らの脚が頼りです。
例えば、最も早い飛脚は東海道(江戸-京都、約550km)を3日で駆けたそうです。
1日12時間走ったとすると、なんと時速15km!
さすがに一般の人はそれ程速くはなく、現代人とさほど変わらない4~5km/時くらい。
しかし、その移動距離はかなりのもの。
庶民の人気レジャーであったお伊勢参りでは、男性は10里、女性は8里(1里=4km)を1日で移動し、何日もかけて伊勢に向かったそうです。もちろん道路は整備されておらず、足場も悪かったので、総じて健脚だったと言えるでしょう。
加えて江戸時代は椅子が普及しておらず、室内では立ったり座ったりを繰り返す生活でした。自然とスクワットをしているようなものですね。
およそ150年を経た今、便利な時代に生きる我々も是非見習いたいものですね。
以上(2023年3月)
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