2代目に内定した34歳社員、社長急逝で奮闘/社長が語る 私はこうして後継者不在の問題を解決した(後編)

書いてあること

  • 主な読者:後継者不在の問題で悩んでいる50代以上の社長
  • 課題:社員のためにもできれば廃業したくないが、M&Aによる事業譲渡や社員への承継にもやや抵抗感がある。他社の社長がどう考え、行動したのかを参考にしたい
  • 解決策:事業譲渡、社員への承継のいずれも、成功の秘訣はとにかく早く動き出すこと

前編では、悩んだ末に会社の譲渡を決断し、自らが事業のお手本としていた同業大手の社長に、会社を譲り受けてもらうための「直談判」をした、山下ミツ商店の山下浩希さんへのインタビューを紹介しました。

1 社長が急逝! 跡を継いだ最年少・出戻り社員が奮闘

「廃業しようかとも思っているんだけど、どうしようか」。親族に跡継ぎ候補が見当たらず、健康に不安を抱えていた社長。会社の行く末を社内の幹部や地元の商工会議所に相談する日々が続いていました。将来の廃業の危機を免れるために、後継者として手を挙げたのは、社内でほぼ最年少の「出戻り」社員。ところが、社長夫人と全社員の賛同を得て引き継ぎを始めようとした矢先に、社長が急逝してしまいます。

2 健康不安を抱えていた社長は、廃業も意識

機械の整備やメンテナンスのための金属加工を行う高田組(北海道苫小牧市)は、1976年に故・高田勝義社長が創業しました。社員は10人弱と多くありませんが、電力会社などからの受注を強みに、ほぼ無借金経営を続ける優良企業でした。

その高田組の唯一といってもよい悩みが、後継者問題でした。還暦を過ぎた高田社長の子供は別の会社に就職して跡を継ぐつもりがなく、社員も職人気質の人ばかりで、尻込みする専務も含め経営者を目指すタイプの人材はいませんでした。

社員の間では、「高田社長の血圧が高いようだ。薬もいろいろ飲んでいる」「この会社は高田社長の代で終わるんじゃないか」といった会話が交わされ、高田社長自身も幹部の社員に、「何年か後にはやめようかとも思っているんだけど、どうしようか」と相談することがあったといいます。

高田社長の相談先は、社外にまで広がっていきました。2015年11月、66歳になっていた高田社長は地元の苫小牧商工会議所に、「年齢、体力的に厳しい。取引先に迷惑を掛ける前にやめたい」と相談します。高田組の経営状況をよく知る商工会議所では、「業績も良く、廃業するような会社ではない」と、事業承継の道を探るよう説得したといいます。

「このままでは、会社がなくなってしまう」

そんな危機感を募らせ、勇気を振り絞って後継者として手を挙げたのが、後に2代目社長に就任することになる、社員の高橋純さんでした。社内でほぼ最年少の34歳。しかも、入社3年余りで高田組を一度退職し、その後再入社したという経歴でもありました。

3 後継者に名乗りを上げた、出戻りの最年少社員

高橋さんが最初に高田組に入社したのは2000年。同じく金属加工の職人だった父親の影響を受け、ものづくりへの興味から高田組に入社したといいます。

高橋さんの入社当時の高田組には、昔ながらの「仕事は盗んで覚える」という職人の世界が残っていました。20代前半だった高橋さんは、作業現場で先輩たちの仕事を見よう見まねで覚えていきました。

金属加工職人として3年余りが過ぎた頃、徐々に腕を上げていた高橋さんに転機が訪れます。苫小牧市に隣接する高橋さんの地元・白老町の大手金属加工会社が中途募集を開始し、大手企業に憧れて応募した高橋さんが採用されたのです。

退職を申し出た高橋さんに対し、高田社長は「一度、そういう経験をするのもいいことだ」と気持ちよく送り出してくれたといいます。その後も高田社長はたまに高橋さんに連絡しては、「そっちのほうはどうだい?」「こっちに戻ってきてもいいんだぞ」と声を掛けてくれました。高橋さんも、何度か高田組の事務所に顔を出して挨拶する関係が続いていました。

大手に就職して安定した人生がスタートしたと思ったのもつかの間、高橋さんは、転職先の会社の経営が傾いているのを知ることになります。3年ほど勤めたものの、「この会社にいても将来は厳しい」と見切りをつけた高橋さんは、高田社長に「もしよければまた使っていただけますか」と相談します。事務所を訪ねた高橋さんを、高田社長は「いいよ、また来なよ」と快く受け入れてくれました。

「何でも言える、第二の親父(おやじ)のような存在」。いつしか高橋さんと高田社長との関係は、会社の社長と部下から、親子のような絆が生まれていました。

4 前職での経験を活かし頭角を現す

高田組に戻った高橋さんは、メキメキと頭角を現します。その基礎になったのは、前職の大手金属加工会社での経験でした。

経営難には陥っていたものの、現場の技術のレベルは同業他社からも見学者が来るほどの水準にあり、そこで高橋さんは鍛えられました。機械加工技能士の資格がないとできないような難易度の高い作業もこなすようになり、「できる仕事の幅が広がって、『その仕事はできません』と言わない自信がついた」と言います。

高田組にはなかった高い技術が認められた高橋さんは、徐々に事務所に呼ばれる頻度が増え、工事の見積もりや営業なども任されるようになります。「営業の経験はなかったのに、やってみたらお客さんとのコミュニケーションが苦にならなかった」という高橋さん。自力で仕事を取ってくるまでに成長し、高田組は発注が少ない冬場の仕事も埋まるようになりました。会社を支えるエースとなった高橋さんは、再入社しておよそ3年後には社内で実質ナンバー4に当たる部長に抜てきされました。

高橋さんの活躍で高田組に勢いがついていただけに、後継者問題は一層深刻でした。「会社は利益を出しているのだから、なくなる必要はないじゃないか。前回の会社のように、将来の不安で転職することは繰り返したくない」。高橋さんは専務などと相談し、自ら後継者候補に手を挙げることにします。

5 社長夫人と全社員が高橋さんの承継に賛同

高橋さんの申し出に対して、「任せるから、頼むな」と高田社長が喜んだのは言うまでもありません。高田社長の妻で事務を担当していた百合子さんも、「高橋さんしかいない」と歓迎してくれたといいます。

社員に対しては、高田社長と高橋さんが全社員を休憩室に集めて、一人ひとりに意見を聞くことにしました。ほぼ全社員が高橋さんより年長で社歴も長く、専務に至っては上司という立場でしたが、そこは実力がモノをいう職人の世界。皆が「高橋さんに付いていきます」と賛同してくれたといいます。高橋さんは、「もしずっと高田組にいたら、仕事でそこまで成長できず、後継者候補になろうと思わなかったかもしれない」と振り返ります。

高田社長は高橋さんに、「会社を赤字にしてはいけない。そのためにも、社員を遊ばせないように仕事を取ってくることが、社長にとって一番重要だ」と伝授したそうです。

後継者問題に決着がつき、高田組の将来は安泰と思えた瞬間でした。

6 まさかの社長急逝

後継者が決まった高田組は、高橋さんが社長として一本立ちできるまで、まずは高田社長が会長となって、数年かけて引き継ぎを行うことになりました。

ところが、思いもよらなかったことが起きます。

「お疲れさまです」

「明日もよろしく頼むな」

それが、高橋さんと高田社長が交わした最後の会話だったといいます。2017年3月、新体制への移行を直前に控えて、高田社長が急逝してしまったのです。

右も左も分からないまま社長に就くことになった高橋さん。最初は給与計算のやり方も分からず、夜中の2時、3時まで事務所に残って仕事をする日々が続きました。「なるべくお客さんには迷惑を掛けたくない。社員の家族まで守らないといけない」。気が張っていたためか、自分でも不思議なほど疲れを感じず、がむしゃらに1年、2年を過ごしたといいます。同業の社長や営業で培った取引先などが親身になってアドバイスしてくれたことも、高橋さんの支えになりました。

「できれば、高田社長にもう少し長生きしてもらうか、もっと早く引き継ぐ準備ができていればよかったという気持ちはあります。早めに後継者を決めて育てるのは、難しいことも分かっているのですが」。高橋さんは当時を振り返って、こう話します。

長らく後継者が決まっていなかった問題は、今でも別の形で影響が表れています。設備などの更新が滞っていた問題が、高橋さんが社長の代になって出てきたのです。高田組がほぼ無借金でやってこられたのは、高田社長が廃業の可能性も考えて、投資を控えてきたからでもありました。高橋さんは新たな投資のための資金手当に奔走することになりました。

7 株式譲渡で名実ともに新体制に

会社の引き継ぎでのもう一つの懸念材料は、会社の株式の扱いでした。

高田組にとって幸運だったのは、高田社長夫人の百合子さんが高橋さんへの株式の譲渡に好意的だったことと、当初から第三者のアドバイスを受けられたことでした。アドバイスを行ったのは、高田社長が事前に相談していた苫小牧商工会議所から連絡を受けた、札幌商工会議所の北海道事業承継・引継ぎ支援センター(以下「引継ぎ支援センター」)です。

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高田社長の急逝後、高田組の株式は高田社長夫人とその子供が所有していましたが、当初は無償で株式を譲渡するという話もあったそうです。これに対して引継ぎ支援センターは、「取引先や社員に対しても、雇われ社長にならず名実ともに社長になるためにも、株式を買い取って社長としての覚悟を示すほうがよい」と、MBO(マネジメントバイアウト)によって高橋さんが全株式を取得することを勧めました。会社の資産を基に引継ぎ支援センターがアドバイスし、同センターが紹介した税理士が株価を算出して譲渡価格を決定。2018年10月、高橋さんは銀行融資を元手に、一部贈与、残りを買い取りという形で株式を譲り受けました。

8 社内の人間関係は焦らずゆっくりと

社長就任後、高橋さんにとって最大の課題は、なんといっても高橋さんを取り巻く人間関係が大きく変化した社内の融和でした。残された社員は、ほぼ全員が高橋さんより年長で、社歴も長い先輩ばかり。10歳近い年上の専務とは、上司と部下の関係も逆転しました。

高橋さんは、40歳になった今でも、この問題に焦って対処する考えはないといいます。「一緒に働いている仲間という関係性は、ほとんど変わっていません。『社長』という呼び方も、皆さんなかなか呼びづらそうなので、名前で呼んでもらったりもしています。だんだん、というか、お互いに気を使いながら、少しずつ慣れていくという感じです」と話します。

「自分は敵を作りたくない性格。社員を強く引っ張るタイプではないので、あまり社長に向かないのかもしれない」と話す高橋さんのモットーは、「なるべく丸く収めること」だと言います。「あまり社員とぶつかることもないですし、社員がなにか問題を起こしたり失敗したりしたときも、次の日には引きずらないようにしています。本当に危ないことをしたときぐらいしか厳しいことは言いません。なるべく社員を尊重し、働きやすい環境を作っていくことを心掛けています」という高橋さん。温和で純朴な性格の高橋さんだからこそ、社長急逝後の混乱状態でも社内融和を進められたのかもしれません。

高橋さんが社長になってから会社を辞めたのは、かつての高橋さんのように、念願かなって大手企業に転職していった若い社員1人だけだといいます。朴訥(ぼくとつ)な話ぶりの高橋さんが自信を持って語ったのは、この一言でした。

「高田社長に胸を張って言えることは、社員が抜けずにやっていけているということです。これは、私にとっても一番うれしいことです」

(取材協力 北海道事業承継・引継ぎ支援センター)

9 とにかくスピード第一。早い動き出しが成功につながる

希望の相手に会社を譲渡できた山下ミツ商店の山下さんは、会社のブランドを残す価値があるうちに話を持ちかけたことが成功の秘訣でした。高田組の高田社長も、事前に社内外に相談をしていたことで、急逝する直前に後継者を決めることができました。2人に共通するのは、後継者不在という問題をいち早く自覚し、行動に移したことです。その際、特に外部などさまざまな人に相談したり、話を聞いたりしていたことも共通しています。

後継者不在の問題で悩んでいる際には、外部の人(機関)が入ったほうが、冷静かつ客観的に判断でき、スムーズに話が進むようにみえます。

心血を注いできた会社を手放すことは断腸の思いであり、悩みに悩むのは当然のことです。ですが、誰か一人が永遠に社長ではいられないのも変わらない事実です。会社を大切に思うのであれば、会社の存続や発展を最優先することも大切なのではないでしょうか。

以上(2022年2月)

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画像:北海道事業承継・引継ぎ支援センター提供

飲酒運転対策における企業の責任

昨年、勤務中の飲酒運転による事故で児童が死傷する事故が起こりましたが、事故を起こした自動車は自家用車であったことから、事業用自動車と異なり企業に対してアルコール検査の義務がありませんでした。

このことを受けて、道路交通法施行規則などが改正され、自家用車にも安全運転管理者制度が適用される企業に対してアルコール検査の義務が適用されます。本稿ではその改正の内容、および企業の責任について概説いたします。

1 対象

今回の改正は、安全運転管理者の選任義務がある事業所が対象となります。

<安全運転管理者の選任対象となる事業所>

  • 自動車5台以上、または定員11人の車両を1台以上使用している事業所。
    ※自動二輪車は0.5台で計算。
  • 自動車運転代行業者は、台数に関係なく営業所ごとに選任事業所(自動車使用の本拠)ごとに1人を選任

対象は、令和2年3月末時点で約34万事業所、管理下運転者数は約769万人に上っています。

2 改正点

安全運転管理者の業務内容について、以下の業務が段階的に追加されます。

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なお、道路交通法では、次の通り使用者の責任を明示しており、今回の改正はその責任の履行について明確化したものと捉えられます。

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3 交通事故時における企業の賠償責任について

交通事故により、企業が被害者に対して負う民事上の責任は、従業員が業務中などに起こした事故について、企業が従業員とともに損害賠償義務を負うという「使用者責任」と、自動車の運行により利益を得て、その運行について直接または間接に指揮・監督しうる場合に損害賠償義務を負う「運行供用者責任」の2つがあります。

一例として、危険運転致死傷罪の成立のきっかけとなった、1999年の飲酒運転による交通事故では、企業は適切な調査を行っていれば、被告の常習的な飲酒運転を把握することができ、本件事故の発生を未然に防止することが可能であったと認定し、裁判所は被告のみならず企業らに対しても約2億5000万円を連帯して支払うよう命じています。

4 さいごに

今回の改正により、飲酒運転に対する社会の目はますます厳しいものになるでしょう。改正としては、安全運転管理者制度が適用される事業所に課せられる義務ではありますが、適用されていない事業所であっても、飲酒運転による事故が発生した場合の企業のリスクは莫大なものとなります。

自社の業務に供されている自動車がある場合には、今一度安全に運行される体制は整っているのか、服務規律や車両管理規定を確認するとともに、運行状況などを定期的に確認してみることをお勧めします。

※本内容は2022年1月12日時点での内容です

(監修 社会保険労務士法人 中企団総研)

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画像:photo-ac

【朝礼】ムダな競争がムダな進化を促し、生存能力を弱める

皆さんは、極楽鳥をご存じでしょうか。極楽鳥のオスは、派手な色をしていたり、メスへの求愛ダンスをしたりすることで知られる鳥です。色が派手なオスや、ダンスが上手なオスが、メスとつがいになれるといいます。クジャクの羽やカエルの鳴き声なども同様に、メスへのアピールが目的の「モテ形質」の進化なのだそうです。

こういった進化は、その生物からすると、厳しい競争下で時間をかけて獲得したものといえます。ですが、人間の目から見ると、その姿は異様で、ある意味、滑稽にも見えます。それに見た目が派手というのは、獲物を捕らえたり、天敵から身を守ったりするのには不利です。種全体としての個体数の増加という基準で見た場合、全くムダな進化をしていることになります。

同じような生物のムダな進化に、「裏切り行動」があります。アリの中には、ある時期から集団のための労働をやめて、自分の卵を産むことに専念し始める種があるそうです。種全体のためでなく、自分だけの利益のために行動するわけです。

こうしたムダな進化は、生物界全体で見ると、同種間の競争というムダな方向に進化することで、絶対的に生存能力の高い生物を存在させず、生物の多様性を生み出す点で重要だといいます。

ですが、勝つか負けるかのビジネスでは、そうはいきません。会社として、絶対的な生存能力の高さを追求するのが当然です。会社が生き残るために、ムダな競争をしている余裕はありません。

新聞や雑誌などを見ると、一部の大企業でも、ムダな競争が行われているようです。社内での出世争いや足の引っ張り合い、派閥争いに終始し、トップになる人は社内政治の勝者。そのような人はこの困難な時代を乗り切るリーダーシップを持ち合わせていない、ということも耳にします。

一方、必要な競争もあります。例えば、社内で商品に関する提案のレベルが上がり、議論が活発化すれば、社外でも通用する商品の開発につながります。また、ライバル同士が切磋琢磨(せっさたくま)するのも、売り上げを伸ばしたり、仕事のレベルを上げたりするために必要な競争です。

難しいのは、一見、必要な競争をしているようで、実はムダな競争をしているケースがあることです。例えば、商品開発のための議論で、ただ相手を蹴落とすためだけに、長所を認めず小さな欠点ばかりを指摘するような行為は、無意味です。また、ライバル関係は歓迎ですが、会社にとって必要な連携が取れなくなっては本末転倒です。

ムダな競争と必要な競争との見分け方は簡単です。その競争が、会社にとって利益になっているかどうか、それだけです。ただし、会社にとっての利益が目先だけのものか、長い目で見た利益なのかは見極める必要があります。

皆さんの中にある競争心は、会社を成長させるために貴重なものです。ですが、その競争心が、会社にとってムダか必要かを、常に顧みるようにしてください。

以上(2022年2月)

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画像:Mariko Mitsuda

【朝礼】「バイアス」は百害あって一利なし

今日は私の失敗談をお話しします。若い頃、大きなプロジェクトを任されたときのことです。

新規ビジネス立ち上げのプロジェクトだったので、さまざまな苦労がありましたが、一番難航したのは、社内外の関係者との調整でした。特に、社外のあるベンダーとは仲がこじれてしまったのです。

正直なところ、私はそのベンダーの窓口担当者が苦手でした。初めのうちは意見を積極的に出してくれる頼れる存在と思っていましたが、途中からは、自己主張が強過ぎて、プロジェクトの進行を妨げる“厄介なやつ”だと感じていました。

当時、とにかくプロジェクトを前に進めたかった私は、その窓口担当者の言うことに耳を傾けなくなり、提示された懸念もあまり考慮しませんでした。結果的にその懸念が現実のものとなってトラブルが発生し、プロジェクトの進行が大幅に遅れてしまったのです。そのときになって初めて「ああ、あの人の言う通りだった。私が間違っていた」と思いましたが、後の祭りでした。今でも、とても苦い思い出として心に残っています。

この失敗に関する反省点はさまざまありますが、最も良くなかったのは、私の中で、ベンダーの窓口担当者に対して大きなバイアスがかかっていたことです。「あの人は進行の邪魔ばかりする。進めたくないに違いない」と強く思い込んでいた私は、何を言われても素直に聞けず、意見の内容を真剣に考えることができませんでした。

皆さんも似たような経験がないでしょうか。「きっとあの人なら反対するだろう」「あの人のことだから、何か裏があるに違いない」。日ごろ、皆さんが社内外の人についてそう言っているのを耳にすると、私は心配になります。ネガティブな思い込みが強過ぎて、バイアスがかかった状態で相手を見ているのではないかと思うからです。

ビジネスにおいてバイアスはとても危険です。物事を客観的に捉えられなくなり、大きなトラブルを招いてしまうかもしれません。そこで、できるだけバイアスを取り除くために、私が心掛けていることを2つお伝えしますので、皆さんも参考にしてください。

1つ目は「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」に注目することです。本当にその意見は正しいのか、あるいは間違っているか。「何を」という、内容にだけ集中して考えるのです。

とはいえ、私も感情的になり、どうしても「誰が言っているか」が引っ掛かるときがあります。そこで2つ目として実践しているのは、周りの意見を聞いてみることです。できるだけ私の主観を交えずに周りに状況を伝え、どのように感じるか聞いてみると、意外と私自身のバイアスに気付かされることが少なくありません。

こちらにバイアスがかかっていると、相手もそうなります。互いの理解なくして、ビジネスは前に進めません。バイアスは百害あって一利なし。今日から肝に銘じてください。

以上(2022年2月)

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画像:Mariko Mitsuda

安全運転義務違反(2022/02号)【交通安全ニュース】

活用する機会の例

  • 月次や週次などの定例ミーティング時の事故防止勉強会
  • 毎日の朝礼や点呼の際の安全運転意識向上のためのスピーチ
  • マイカー通勤者、新入社員、事故発生者への安全運転指導 など

交通ルールの遵守は、交通安全を確保するために必要なことですが、様々な交通違反により交通事故が発生しています。

特に安全運転義務違反は、多くの交通事故の背景に潜んでおり、重大事故につながりかねないたいへん危険な行為です。安全運転の義務を理解し、安全運転に努めることで交通事故の発生を防止しましょう。

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1.安全運転義務違反とは

(1)安全運転義務違反とは

ドライバーには、自動車の装置を確実に操作する義務と、周囲の状況を適切に確認・判断し安全に運転する義務があります。

つまり、ハンドル等の操作を誤ったり、相手への注意や状況判断が十分でないことで、事故を起こしたような場合、安全運転義務違反となります。

参考:道路交通法第70条(安全運転の義務)
「車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない」

(2)安全運転義務違反の割合

警察庁の統計(下のグラフ)によると、令和2年中に発生した原付以上の車両による交通事故のうち、安全運転義務違反が72%を占めており、いかに危険であるかが分かります。

逆にいうと、もしも安全運転義務に留意していれば、未然に防げた交通事故も多くあったということになります。

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(3)交通違反点数と反則金

安全運転義務違反には下表の違反点数と反則金が課せられます。反則金は車種別で異なりますが、大型車であっても原付であっても歩行者からすると危険であることに変わりありません。

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2.安全運転義務違反の内訳

令和2年中の安全運転義務違反の内訳を見ると、「安全不確認」、「脇見運転」、「動静不注視」、「漫然運転」、「運転操作不適」の5つが大半を占めています。

これを運転の「認知」、「判断」、「操作」のプロセスにあてはめて考えると以下の通りです。

①安全不確認(45%)・・・「認知」
前方、後方、左右の確認不十分で他車や歩行者等を見落とし事故に至るケース

②脇見運転(19%)・・・「認知」
脇見をして、前方への注意が不十分となり事故に至るケース

③動静不注視(14%)・・・「判断」
他車や歩行者等を認識しつつも、その動静への注意を怠ることで事故に至るケース

④漫然運転(11%)・・・「認知」
考えごと等をして運転への注意が緩慢になり事故に至るケース

⑤運転操作不適(9%)・・・「操作」
ブレーキの踏み間違え、ウィンカーの不使用、片手運転等で事故に至るケース

「認知」に関するものを合計すると75%を占めています。これは、誰にでもあるちょっとした油断や慢心が運転への注意をおろそかにし、事故の原因になりやすいことを表していると考えられます。

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3.安全運転を実践するための対策

安全運転義務違反での事故はすべてのドライバーに起こり得ると言えます。今まで大丈夫だったからといって油断や慢心は禁物です。絶対に事故を起こさないという心構えをしっかり持って、安全運転意識の維持向上に努めましょう。

  • 運転中は適度に緊張感を持ちながら運転に集中するよう心がけましょう。
  • 周りの自動車や歩行者等の動きを常に意識し、「かもしれない」の危険予測運転を心がけましょう。
  • 冷静な判断を持続できるよう体調に気を配り、十分な睡眠時間・休憩時間をとりましょう。

交通事故の加害者・被害者にならないよう、いま一度「安全運転義務」の観点から「運転」について振り返り、交通安全につなげてください。

以上(2022年2月)

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画像:amanaimages

【管理会計】当期の業績に変化はありましたか?

書いてあること

  • 主な読者:感覚だけでなく、定量的な基準や根拠を持ってビジネスの判断をしたい人
  • 課題:当期の業績の変化をどう見たらいいのか分からない
  • 解決策:当期の月次推移表を確認する。数値の整理後に、変動結果になった理由や状況について把握する

1 質問:月次推移表から変化を読み取れますか?

月次決算では「月次推移表」を作成します。月次推移表は、毎月の数字を勘定科目ごとに並べたもので、これを見ていると数字の小さな変化にも敏感になれます。経営者はその変化が「一時的なものか、継続的なものか」ということだったり、その後の業績への影響を考慮して、戦略を見直したりします。

早速、月次推移表を見てみましょう。次の月次推移表は人件費と地代家賃を示したものですが、どのような業績の変化がありそうでしょうか。自分なりの仮説を立てた上で、読み進めてみてください。

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2 数字の変化の理由を探る

4月から8月までを見ると、

  • 人件費:8月だけ2500千円と、他の月より1000千円多い
  • 地代家賃:7月だけ500千円と、他の月より500千円少ない

ことが分かります。大切なのは、そのような変化をしている理由ですが、例えば、次のような仮説が立てられます。

  • 会計仕訳を入れ忘れたか、二重に入れてしまった
  • 季節的な要因で増減している
  • 特別なイベントがあった

この仮説を検証するためには、次のような確認をすることになります。

  • 経理の仕訳にミスがないかを確認する
  • 前年同月の数字を確認する
  • 経営者が把握していないイベントなどを確認する

また、このような変動の原因となるイベントを確認するために一覧表に記録しておきましょう。エクセルにまとめてもよいですし、Googleカレンダーなどを使うこともできます。例えば、工場の新設など多額のコストが発生する出来事があった場合、その時期、内容、会計上の影響を記録しておきます。

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よくあることですが、起こった年はよく覚えているのですが、翌年になるとみんな記憶が曖昧になってきます。出来事カレンダーを作成すると、思い出す時間の無駄がなくなります。

3 月次推移表は自社用にカスタマイズする

月次推移表は、多くの会社で使っている会計システムの標準メニューにあります。まずは貸借対照表と損益計算書の月次推移表を使ってみましょう。

そのときに、勘定科目を補助科目に細分化するなど切り口を変えてみると、業績の変化が見えてきます。さらに詳細に管理したい“重要な”勘定科目が出てきたら、Excelで資料を作成することを検討してもよいでしょう。ここで“重要な”と書いたのは、すべてにおいて細かく管理する必要はないからです。業績に重要な影響がある勘定科目を抜粋することで作成にかかる時間や検索する時間を短縮し、より効率的な管理会計の仕組みを自社に取り入れることに繋がります。

以上(2022年2月)
(執筆 管理会計ラボ株式会社 取締役・公認会計士 福原俊)

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画像:apinan-Adobe Stock

「お手本」だった同業大手に会社発展の夢を託す/社長が語る 私はこうして後継者不在の問題を解決した(前編)

書いてあること

  • 主な読者:後継者不在の問題で悩んでいる50代以上の社長
  • 課題:社員のためにもできれば廃業したくないが、M&Aによる事業譲渡や社員への承継にもやや抵抗感がある。他社の社長がどう考え、行動したのかを参考にしたい
  • 解決策:事業譲渡、社員への承継のいずれも、成功の秘訣はとにかく早く動き出すこと

1 事業譲渡とは、会社の発展という「自分の夢」を託すこと

悩んだ末に会社の譲渡を決断して社長が最初に行ったのは、自らが事業のお手本としていた同業大手の社長に、会社を譲り受けてもらうための「直談判」。それは、「会社を存続、発展、成長させるという、自分の夢を実現してくれる人に会社を託したい」という思いからでした。希望がかなった今では、会社の明るい将来にワクワクする日々を過ごしています。

2 このまま「座して死を待つ」のは嫌だ!

「社長、サインしてください。会社の譲渡先を仲介するための契約書です」
「はい、します……。ちょっと待ってください」

後継者のいない自社の譲渡先探しをM&A仲介会社に依頼する契約書類。それらを目の前にして、豆腐の製造販売「山下ミツ商店」(石川県白山市)の山下浩希社長は、どうしてもサインができませんでした。結局、この問答はこの後、2年間繰り返されることになります。

「頭の中では、会社がこれからも続いていくには、この方法しかないのは分かっていた。しかし、やはり、他人に会社を渡すということに抵抗があったのかもしれない」。約3年前の自分を振り返って、山下さんは苦笑いします。

契約書類にサインをしたきっかけは、山下さんが人生の節目と考えていた60歳目前の59歳になった2020年秋、本を読んでいた際に目に留まった、ある言葉でした。

座して死を待つ

「これは、今の自分のことだ」。自分が高齢になって豆腐が作れなくなり、会社が誰にも見向きをされないまま消えていく。そんな光景が頭に浮かび、山下さんは決断しました。

サインをした後、山下さんはM&A仲介会社に1つの希望を伝えます。それは、まず山下さん自身が1社だけ、自社を譲り受けてくれないか相談してみることでした。その1社とは、山下さんが豆腐の移動販売のお手本にしていた同業大手「染野屋」(茨城県取手市)です。山下さんが染野屋の小野篤人社長に直接メールを送ったことで、山下ミツ商店の運命は大きく変わりました。

3 豆腐の製造販売に特化して急成長と挫折を経験

今から130年以上前の明治20年(1887年)、山下ミツ商店は食料・雑貨店として石川県白峰村(現・白山市)で創業しました。山下家が代々営んできた、当時は名前も特にない個人商店で、朝は豆腐作り、昼は食品や酒類販売など、朝6時半から夜8時まで開いている店でした。

店を長年切り盛りしていたのは、山下さんの祖母、ミツさんです。子供の頃からかわいがられ、大好きだったという祖母が80歳を過ぎ、「もう年だし疲れたからやめる」という言葉を口にしたことから、山下さんは家業の承継を決意。1985年10月、1年半勤めたスーパーマーケットを24歳で退職して6代目となり、社名には祖母の名前を付けました。「山下ミツ商店」です。

会社を成長、発展させるため、試行錯誤の末に山下さんが取った戦略は、自社で製造していた豆腐事業への特化でした。埼玉県内の同業者に教えを請い、国産大豆と天然ニガリを使った豆腐を学び、2年ほどかけて独自の製法を開発。1992年2月に完成した1丁1000円の豆腐「記まじめ!」シリーズのヒットにより、会社は急成長します。1995年4月に金沢市内のデパ地下に進出し、1997年12月の法人化を機に社員の雇用を開始します。2001年11月に増産のために工場を新設すると、売り上げは1億6000万円に達しました。「絶対に俺は伸び続ける」と、寝る間も惜しんで働いた30~40代でした。

ところが、2000年代後半になると、急成長の影の部分が表面化します。契約農家の大豆の不作と価格高騰、社員の待遇改善の必要性、そのための価格転嫁。最もダメージを受けたのは、デパ地下の店舗の売り上げが、デパート改装に伴う場所替えにより4割も減ってしまったことです。

社内の組織にもヒビが入っていました。「社員に対して、自営業者上がりだった自分たちと同じような、朝から晩までというむちゃな働き方を当たり前のように要求してしまった」ことで、後継者候補と見込んで頼りにしていた社員が、相次いで辞めていってしまったのです。

追い詰められた山下さんが選択したのは、以前から空いた時間に試して手応えを感じていた、トラックで豆腐を移動販売することへの「事業転換」でした。50歳を目前にした山下さんは、「もう他のものには目移りせず、あと10年を移動販売に懸ける」と腹をくくりました。

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4 残された最大の問題は後継者不在

倒産の危機を免れた山下さんにとって、残された最大の問題が、後継者不在でした。

問題を意識したきっかけは、50歳となった2011年に、やはり後継者が不在で悩んでいた6歳年長の知り合いの社長から、「自分の会社を、どのようにして周りの方に迷惑を掛けずに畳もうか考えている」と聞かされたことでした。山下さんは、「うちにも後継者がいない。自分も60歳くらいになったら、同じことを考えなくてはいけなくなる」と危機感を持ったといいます。

子供のいなかった山下さんにとって、後継者の最後の希望は妹の息子(甥(おい))でした。高校生の夏休みに小遣い稼ぎに移動販売を手伝っていた甥が楽しそうにお客さんと話す姿を見て、ひそかな期待をしていた山下さん。ですが、大学3年生になって就職活動を始めた甥に声を掛けることはできませんでした。当初は手応えがあった移動販売ですが、トラックの台数は2台のままで、新しい社員を雇っても、職場に定着しなかったり、交通事故などのトラブルを起こしたり。「成長している会社であれば誘えたのでしょうが、業績を伸ばす手段が分からない状態で、甥に背負わせることはできなかった」

5 何もしなければ、会社はなくなってしまう

山下さんが会社の譲渡に向けて動き出す決め手となったのは、2017年ごろ、親しかった金沢市内の同年代の社長が会社を譲渡して、同業大手の傘下に入ったことでした。

山下さんにとって、彼の会社は「仕事ができる社員がそろっていて羨ましい」存在でした。ところが、その社長から、「店長は育てられたけれど、跡を継げる経営者は育てられなかった。会社を存続させ、成長させるには、M&Aの話に乗るべきだと考えた」と打ち明けられ、ショックを受けます。当初は「M&Aで会社を譲渡することには、買収されるとか身売りするとかいうイメージがあり、彼の決断がすぐには理解できなかった」と言いますが、1年ほど考えるうちに、同様の選択をする会社が意外と多いことも分かりました。その頃には、毎日欠かさず行う祖母の墓参りの行き帰りに、「自分には子供がいないので、山下家はこれで終わる。会社もこのまま何も手を打たなければ終わってしまう。自分は何も残せなかったことになる」との思いが頭をよぎるようになっていました。

こうして山下さんは2018年、顧問税理士が所属する会計事務所のグループだったM&A仲介会社に、顧問税理士を通じて連絡しました。顧問税理士の全面協力の下、仲介会社の担当者は山下ミツ商店の強みや弱みまで子細に記した資料を、すぐに作成してきました。後は山下さんのサインを待つばかり。そして話は、2020年秋の「染野屋の小野社長に宛てたメール」につながっていきます。

6 「お手本」にしていた同業大手に傘下入りを直談判

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M&A仲介会社に譲渡先を仲介してもらう契約を結んだ山下さんは2020年11月、同業の染野屋の小野社長に、山下ミツ商店での半生と、後継者のいない会社の将来に対する不安をつづったメールを送りました。

山下さんにとって染野屋は、山下ミツ商店と同じコンセプトで、国産大豆と天然ニガリを使った豆腐を作り移動販売で成長を続けている、いわば移動販売のお手本というべき存在でした。山下さんは、まず染野屋の小野社長に相談した理由を、こう語ります。

「ただ会社と社員、工場を守るだけなら、譲渡先はどんな会社でもいい。でも、どういう会社に譲りたいかを考えたときに、その答えは染野屋さんでした。移動販売で多くの人にこの豆腐を食べてもらうという、自分ができなかったことを実現してくれるのは、染野屋さんしかないと思ったからです」

7 トントン拍子で譲渡が決まる

山下さんの思いは、小野社長の心を動かしました。約1週間後に2人で直接会って話すと、小野社長は最後に「真剣に検討します」と受け合ってくれました。

コロナ禍のため、小野社長をはじめとする染野屋の幹部が山下ミツ商店のオフィス、工場、移動販売のトラックなどをくまなく視察したのは、2021年5月になりました。ですが、その数日後に染野屋から「前向きに進めます」との連絡があると、トントン拍子で譲渡交渉が進みます。

譲渡に関する条件は、株式の譲渡額も含めて、染野屋が全て山下さんの希望をのんでくれたといいます。山下さんは、「染野屋に譲渡できたのは本当に運が良かった。もし小野社長に断られていたら、どんどん希望のハードルを下げることになって、豆腐のこだわりやブランド、会社そのものもなくなっていたかもしれない。まだ山下ミツ商店に価値があるうちに譲渡の話をしたことが重要だった」と語ります。

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8 「能力のある人材が来てくれた」

2021年10月、山下ミツ商店は染野屋の完全子会社となりました。山下さんは社長を退いて取締役会長となり、小野社長が山下ミツ商店の社長を兼務、染野屋の幹部が新たな役員に就きました。

調印を終えた直後に山下さんが自社の社員に説明した、「山下ミツ商店は、今までよりも、良い会社になります」という言葉は、山下さんの本心でした。「小野社長もトラックが10台になるまでは苦労したと聞きました。販売員を採用したら次の日に来なかったとか、毎月のようにトラックの交通事故のために警察署に行ったとか、小野社長は全部経験済みで、それをどのように克服するかも分かっているんです。そのノウハウを注入してもらえるのは、本当にありがたいと思っています」

説明の後、山下さんはある社員から、「社長も年を取っていき、いつまで豆腐が作れるのか心配していました」と告げられました。それを聞いて山下さんは、「社員に安心して働いてもらえていなかったことを知り、社長としての自分の鈍さ、無神経さ、至らなさにへこんだ」と言います。

染野屋の傘下となった山下ミツ商店では、社名も社員の待遇も豆腐の製法もブランドも変わっていません。その一方で、事務管理業務などは、副社長などが毎月来社して染野屋方式に変更しているといいます。また、売り上げに応じて販売員にインセンティブを付けたり、染野屋が開発した商品を販売したりするための準備も進めています。

染野屋が作成した「山下ミツ商店5カ年計画」には、3年で北陸3県、5年で新潟県も含めた全北陸地方をカバーする方針が記載されているそうです。「やはり、スケールが違う。勘違いなのかもしれませんが、会社を譲渡したので染野屋の能力のある人材が山下ミツ商店に関わってくれて、これから会社として発展していくのだろうという気持ちでいます。私自身もワクワクしていますし、頑張らないといけないと思っています。なにより、小野社長が自信満々なのが心強い」。山下さんは目を輝かせて、夢の続きを語ります。

山下さんへのインタビューはこれで終わりです。後編では、ほぼ最年少社員にもかかわらず会社の跡継ぎ候補として手を挙げ、引き継ぎ直前の社長の急逝という不幸に見舞われながらも会社の承継に成功した、高田組の高橋純さんへのインタビューを紹介します(2022年2月8日公開予定)。

以上(2022年2月)

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画像:山下さん提供

【朝礼】人として一流を目指せ

昨今、SDGsという言葉を多く耳にするようになりました。利益至上主義だった私の若かった頃と比べると、たとえ民間の会社であっても、自社だけのことを考えるのではなく、共生社会を目指すべきだという風潮に変わってきています。この機会に、今まで私がずっと心に掲げてきた人生の目標をお伝えしたいと思います。それは、「ビジネスパーソンとしてだけでなく、一人の人間としても一流になる」ことです。

私が目指している一流の人間とは、「仕事だけがデキる人間」ではなく、「仕事もデキる人間」です。仕事の結果を出すことは重要ですが、それ以前に、まず「人として正しいと思うことを優先できる人間」こそ、一流だと思います。分かりやすく極端な例えで言えば、大事な仕事の待ち合わせに向かう電車の中で、倒れている人を介助できるか、会社の不正を発見したら、それを正すことができるか、といったことがあるでしょう。

人として一流を目指すために、私は日ごろから、自分が正しいと思う生き方ができているか顧みるようにしています。具体的には、他人にも自分にも嘘をついていないか、誰にでも誠実であるか、私利私欲だけに走っていないか、自分の身近な人たちである家族や同僚を大切にできているか、世の中の役に立てているか、自分たちの今の利便性だけを考えて、後世にその「つけ」を回していないか、次世代の人たちに胸を張ってバトンタッチできるか、といったことです。

私は、他人を評価する際にも、人として一流であるかどうかを基準にしてきました。どんなに偉い肩書を持っていて、大きなお金を動かせる人であっても、人間的に尊敬できないような人とは深いお付き合いをしてきませんでした。逆に、どのような職業、どのような年齢の人であっても、人として尊敬できるのであれば、親しくお付き合いし、応援できる部分は応援してきました。

このような評価の方法は、結果として会社経営の面でもプラスになったと思います。一流の人とのお付き合いの中からビジネスのやり方を学び、役に立ったことが少なからずありました。また、人として尊敬できない人がトップにいる会社と、取引をしていなくて助かったというケースがしばしばありました。

私自身は、まだまだ人として一流になれているとは思っていません。常に自らを顧みて、一流を目指し続けていく必要があると思っています。そして皆さんにも、人として一流になることを目指してほしいと願っています。自分の価値観をビジネスパーソンという枠にはめず、一人の人間として正しいと思うことを優先する生き方をしてください。

皆さんと一緒に、ぜひ「この会社には一流の人間がそろっています」と、胸を張って言える会社を目指しましょう。そのような会社こそ、社会との共生が重視される時代にふさわしいのだと思います。

以上(2022年1月)

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画像:Mariko Mitsuda

【第3弾】「売れる」科学 行動経済学を活用して売上をアップさせるマーケティング手法と実践例

書いてあること

  • 主な読者:感情や直感など消費者の心に働きかけて売上アップにつなげたい経営者
  • 課題:人間の行動を分析した行動経済学を理解し、売上アップのための施策に活用したい
  • 解決策:時間不合理性やフレーミング効果など、行動経済学の理論を活用した身近なマーケティングの実践例を学び、導入してみる

1 「時間不合理性」を活用して、消費者の心を動かす

1)どちらがお得に感じる?

今回も行動経済学を体感していただきながら進めていきます! 早速やってみましょう!

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多くの方が、「2):いま1万円もらう」を選んだのではないでしょうか。でもよく考えてください。1)を選べば利息が5%もつきます。経済合理的に考えれば、1)を選んだほうがお得なはずです。

これは、行動経済学で「時間不合理性」といい、

時間が遠いほど、自身の中で割引(マイナス)を設定してしまう

というものです。将来の利得より、目先の利得を選んでしまうのは人間の心情、言われてみればそうだよなという理論ですよね。

2)キャンペーンなどの特典付与時期は「近い時間」を設定しよう

お店の売上アップを支援する現場での話。そのお店では、最近、多くのお店で活用が進んでいる「LINE公式アカウント」を導入することになりました。来店された方にお店のLINEに登録していただき、そこにメッセージ配信やクーポン配信を行って再来店を促進する狙いです。重要になるのは、まずお店のLINEに登録してもらうことです。そこで登録促進のために特典をつけようという話になりました。

店長が考えた特典は、「いまLINEに登録すると、次回来店時に使えるドリンク券プレゼント」でした。私は、その特典に反対し、「『いまLINEに登録して画面を見せてもらえれば、本日ドリンクを無料で提供します』にすべきです」と助言しました。

あなたが客の立場だったら、どちらを選びますか? 恐らく「本日ドリンク無料」のほうに反応するのではないでしょうか? 次回という、いつになるか分からない将来よりも、いますぐという特典を選ぶのは、先ほどご説明した「時間不合理性」があるからです。

2 伝え方を変えれば、相手の心が動く

1)表現の仕方で反応が異なる?

続いては、次の2つの質問にお答えください。

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私が行動経済学のセミナーで質問をすると、質問1ではほぼ全員の方が、「1):手術をする」と答えます。一方で質問2になると、「2):手術をしない」を選択する人が多くなります。

お気付きのように、質問1では、「90%の確率で手術は成功します」と言っていますが、裏を返せば「10%の確率で手術は失敗します」と言っているのと同じです。質問2では、90%の成功というポジティブな要素を伝えずに、10%の失敗というネガティブな要素を伝えています。つまり、同じ内容でも「表現の仕方」で選択が異なるということです。

人は、利益(ポジティブ)と損失(ネガティブ)をてんびんに掛け、「ネガティブ要素が少ない」よりも「ポジティブ要素が多い」を選ぶ傾向にあります。

この心理現象のことを行動経済学で「フレーミング効果」といい、ある事柄を説明するにあたり、

伝え方・表現を変えることで、相手に与える印象を変えられる

ことをご理解いただけたと思います。

2)マイナスをプラスに転換する「リフレーミング」で売上アップ

栄養ドリンクのテレビCMで、こんなフレーズがあります。

「ファイトー! 一発! タウリン1000mg配合」

このCMでのフレーズ、以下だったらいかがでしょうか。

「ファイトー! 一発! タウリン1g配合」

「なんだか、効き目なさそう……」。そう感じられた方は多いのではないでしょうか。

1g=1000mgですので、同じ量です。フレーミング効果によって、伝え方・表現ひとつでこんなにも受ける印象が違うのです。

売上アップのためにフレーミング効果を活用するためのポイントは、

マイナスをプラスに転換する

ことです。これを「リフレーミング」といいます。先ほどご説明したように、人はポジティブな要素に反応しやすい傾向があります。自社の強みを打ち出したり、キャッチコピーを作成したりする際には、いかにポジティブな要素を入れるかを意識してみるとよいでしょう。

当社では年に1回、「マーケ大カンファレンス」というマーケティングのセミナーイベントを開催していますが、その際にリフレーミングを活用して成功したことがあります。そのイベントでは、マーケティングの最前線で活躍する講師6人が登壇するのですが、イベントの最後に全員が登壇し、1講師10分で講義のエッセンスをプレゼンするという時間があります。

第1回の開催時は、このコーナーを最終盤に実施することから「エンディングセッション」とご案内していました。ところが、なんと半分近くの方がエンディングセッションの前に帰ってしまったのです。

「エンディング」というネガティブなイメージが影響を与えたのだと考え、第2回の開催時は、このコーナーの名前を「スーパープレゼンテーション」と変更してご案内しました。すると、9割以上の方にお残りいただき、最後までイベントにご参加いただけました。

「エンディングセッション」と「スーパープレゼンテーション」。同じ内容でも表現にポジティブな要素を入れるだけで、こんなに反応が違うのかと、リフレーミングの威力を体感した出来事でした。

3 タダほど強いものはない? ~無料の威力~

最後の質問です。

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行動経済学のセミナーで挙手を求めると、だいたい半々に分かれます。ですので、販売促進の効果を考えると、2つの施策は同じくらいであると考えてもよいでしょう。

次に、このテレビを100人に販売した場合、それぞれの施策がどれだけ予算がかかるか計算してみます。

  • A店:5万円×100人×5%=25万円
  • B店:5万円×2人(無料)=10万円

A店の場合、ポイント還元により再来店を促すメリットがあったり、付与したポイントが使われない可能性があったりしますので単純に比較はできませんが、明らかにB店のほうが費用対効果の高い販促施策を展開しているといえるのではないでしょうか。

この「○○に1人がタダ」というキャンペーンは、航空会社や家電量販店で実施され大成功した例として知られています。「数字は見せ方によって、受け手の印象を大きく変えられる」ことを学ぶ好事例といえるでしょう。

行動経済学では、「無料の威力」という実証から導き出した理論があります。

無料、つまりタダに人は反応しやすい

というものです。当然、なんでも無料にしたら商売になりませんが、上記のキャンペーンのように、無料という要素をうまく活用して集客を図ることができます。

「見積もりは無料!」「無料サンプルのお申し込みはフリーダイヤルへ!」など、テレビ通販では常とう手段で使われていますよね。「タダほど怖いものはない」ともいわれますが、売上を伸ばすためには「タダほど強いものはない」ということもできるのです。

4 行動経済学を使って売上アップ

これまで行動経済学とその活用についてお伝えしてきましたが、いかがでしたか。「言われてみればそうだよね!」「それなら自分も取り組んでいるよ!」といった内容が多かったと思います。それもそのはず、行動経済学の理論は、私たちの日常生活や購買行動の実験・分析から生まれているものだからです。

いままで経験則でやっていたことも、行動経済学の理論的な裏付けがあると自信を持って実践できますし、施策に対する周囲の理解も得られやすいですよね。

ぜひ、今回ご紹介した行動経済学を、ご商売の現場でご活用いただければ幸いです。

以上(2022年1月)

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画像:Master1305-shutterstock
執筆者サイト:https://glocal-marketing.jp/

【朝礼】徳川家康に学ぶ「本当の忍耐力」

皆さんにとってこの2年ほどはまさに「忍耐」が求められているのではないでしょうか。新型コロナウイルス感染症流行の影響で、仕事、私生活ともこれまで当たり前にできていたことがままならず、さまざまな苦労や戸惑いを感じていることも多いはずです。今日は、そんな皆さんに、徳川家康のエピソードを紹介します。

家康は、三河国(みかわのくに)を統治する松平家の嫡男として生まれました。当時の三河国は、東西を織田家、今川家という強大な勢力に挟まれており、松平家存続の方策として、家康は少年時代の多くを今川家の人質として過ごしました。しかし、家康は人質となった自分の運命を悲観することなく、学問や武術に真摯に取り組みました。そして、17歳の頃に初陣を飾った際は、今川義元(いまがわよしもと)を喜ばせるほどの戦功を立てます。

やがて、織田信長が義元を破ると、家康は故郷である三河国に帰り、信長と同盟を結んで大名として成長していきます。順調に勢力を拡大していた家康ですが、信長の死後、その家臣であった豊臣秀吉に従うことを余儀なくされ、故郷から遠く離れた関東への領地替えを命じられてしまいます。当時の関東は荒れ放題で、あまり良い土地ではなかったそうですが、家康はこの領地替えを受け入れ、土地開発に真摯に取り組み、力を蓄えていきます。

そして、秀吉の死後、家康は10年以上の年月を費やして豊臣家を滅ぼし、73歳になって、ようやく天下を統一します。人生50年といわれたこの時代に、高齢になっても天下を取ることを諦めなかった家康の忍耐力には、類いまれなるものがあるといえるでしょう。

なぜ家康は、これほどまでに苦難に耐えることができたのでしょうか? さまざまな意見があると思いますが、私は家康が「苦難をつらいものではなく、むしろチャンスとして捉えていたからではないか」と考えています。例えば、人質として自由のなかった少年時代については、「自由が制限されている分、自分を律して鍛えるチャンス」と思っていたのかもしれません。秀吉から関東への領地替えを命じられた際も、「自分を荒れた土地に移して秀吉が安心している今こそ、力を蓄えるチャンス」と考えていたのかもしれません。

思い通りに仕事ができないときというのは、必ずやってきます。そんなときこそ、「これまでの自分を変えるチャンス」だと思ってください。仕事の進め方を見直す、勉強し直して知識を蓄えるなど、できることはいくらでもあります。ただ苦難が過ぎ去るのを待つのではなく、苦難の向こうにある、手に入れたい未来をつかむために、水面下で自分を磨き続ける。それが「本当の忍耐力」であると、私は考えます。

以上(2022年1月)

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画像:Mariko Mitsuda