「失敬ながら尊藩(土佐)も弊藩(萩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」(*)
出所:「史都の息吹 萩まちじゅう博物館 <5> 久坂玄瑞 松陰の遺志 志士に説く(中国新聞 朝刊(2005年12月4日付))」(中国新聞社)
冒頭の言葉は、
- 「志を遂げることが何よりも重要である」
ということを表しています。高杉晋作(たかすぎしんさく)と並んで松下村塾の「双璧」と称される玄瑞は、師である松陰からも高く評価され、松陰の妹・文を妻に迎えています。
玄瑞は幼い頃から秀才の誉れ高く、熱心に学問に取り組んでいました。玄瑞が松陰と出会うのは17歳のときで、その交流は手紙のやり取りから始まりました。
手紙の中で、玄瑞は激しい攘夷論を訴えます。すぐに玄瑞の才能を認めた松陰は、わざと玄瑞の持論を厳しく批判し、反応を待ちました。玄瑞は松陰の挑発に乗って返信しますが、玄瑞の持論は次々と松陰に論破されてしまいます。松陰は若い玄瑞に持論のツメの甘さを指摘するため、次のような言葉で戒めています。
「事を論ずるには、當(まさ)に己れの地、己れの身より見を起すべし、故に身将軍の地に居らば、當に将軍より、乞食は乞食より起す」(**)
このとき、松陰は「玄瑞の言葉に従う人がどれくらいいるのか。多言を慎み、誠を蓄えよ」とも付け加えています。松陰はできないことを声高に主張するのではなく、自分のできることから着手し、行動することの重要性を教えたかったのでしょう。こうしたやり取りの後、玄瑞は松陰に師事するようになりました。
安政の大獄で松陰が亡くなった後、玄瑞は各地で松陰の残した志や教えを熱心に説き、攘夷運動を展開しました。その際、玄瑞は同志に松陰の遺墨を見せたり、進呈したりしていました。生前の松陰は、死後も自分の書が残ることを望んでおり、書に強い思い入れを持っていたとされます。玄瑞は松陰の思いのこもった遺墨を使うことで、松陰の志や教えをより印象的に伝えたり、同志との絆を深めようとしたのかもしれません。
やがて、熱心に攘夷運動を展開する玄瑞は藩から帰国を命じられます。そんな折に訪ねてきたのが、若かりし頃の坂本龍馬(さかもとりょうま)でした。龍馬は、土佐勤王党を結成した武市半平太(たけちはんぺいた)の使者として玄瑞の元を訪れ、玄瑞からは半平太宛ての手紙を託されました。冒頭の言葉はその手紙に記されていたものです。龍馬は玄瑞に感化され、土佐に戻ってすぐに脱藩し、その後は一介の志士として倒幕運動に傾斜していきます。
玄瑞自身は禁門の変の後、若くして世を去りますが、龍馬をはじめ、倒幕や明治維新を導く多くのキーパーソンに影響を与えました。玄瑞は松陰の下で学才を磨いただけでなく、人を巻き込む力があったからこそ、リーダーとして慕われたのでしょう。
志やビジョンはメンバーを引き寄せる力になります。その内容が優れていることに加え、リーダーが伝え方を工夫することで、メンバーに浸透します。玄瑞の場合は、松陰の思いがこもった遺墨を使って志や教えを伝える工夫をしました。現代であれば、印象的な標語などが遺墨の代わりとなるでしょう。
リーダーが分かりやすく伝える努力をすることで、メンバーは理解を深め、志やビジョン達成のために力を貸してくれるのです。
【本文脚注】
本稿は、注記の各種参考文献などを参考に作成しています。本稿で記載している内容は作成および更新時点で明らかになっている情報を基にしており、将来にわたって内容の不変性や妥当性を担保するものではありません。また、本文中では内容に即した肩書を使用しています。加えて、経歴についても、代表的と思われるもののみを記載し、全てを網羅したものではありません。
【経歴】
くさかげんずい(1840~1864)。長門国(現山口県)生まれ。1856年、松下村塾入門。1857年、吉田松陰(よしだしょういん)の妹・文(ふみ)と結婚。1864年、禁門の変で敗れた後、自刃。
【参考文献】
(*)「史都の息吹 萩まちじゅう博物館 <5> 久坂玄瑞 松陰の遺志 志士に説く(中国新聞 朝刊(2005年12月4日付))」(中国新聞社、2005年12月)
(**)「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(関厚夫、文藝春秋、2007年8月)
「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」(一坂太郎、中央公論新社、2014年10月)
以上(2026年8月更新)
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画像:日本情報マート



