目次
1 武田信玄に学ぶ「部下を思いやり、その本質を見抜く」術
1)武田信玄のエピソード
武田信玄(たけだしんげん。本名は武田晴信(たけだはるのぶ))は、甲斐国(現山梨県)の武将です。
信玄が生まれた当時、甲斐国ではさまざまな勢力が争いを続けていましたが、信玄の父・武田信虎(たけだのぶとら)がこれらの勢力を破り、甲斐国を統一しました。しかし信虎は、家臣の言葉に耳を貸さずに専制的な政治を行ったり、戦費を集めるために領民に重い税を課したりしたため、家臣や領民の不満が高まっていきます。そこで1541年(天文10年)、信玄(当時は晴信)は家臣たちと相談した上で信虎を駿河国(現静岡県)へ追放し、武田家を継ぎました。
信虎の跡を継いだ信玄は、父とは対照的に、生涯を通じて家臣や領民を大切にしたといわれます。信玄の言葉として伝わるものに、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」があります。
「どんなに城や石垣、堀で守りを固めても、家臣や領民の心が離れてしまえば戦には勝てない。勝敗を決めるのは結局は人であり、人は用い方次第で城や石垣、堀のように頼もしい存在になる」という意味です。
信玄は日ごろから家臣を大切にし、正しく評価することに努めました。そして、行政や軍事がうまく回るように組織を整え、合議制によって家臣の意見を積極的に取り入れました。
また、信玄は一軍の将でありながら、家臣たちとくつろいだ雰囲気で座談をすることを好んだといいます。その場で信玄は、自身の経験から学んだ知恵を家臣に説いたり、逆に家臣の意見に耳を傾けたりしました。こうした場で信玄の生の声に触れることで、家臣たちは武田家への帰属意識をいっそう高めていったのです。
戦国時代、武田家の家臣は、その高い戦闘力と強い団結力から「武田軍団」として他国の武将たちから恐れられました。信玄の巧みな手腕が、武田家の家臣を強力にまとめ上げ、最強集団としての武田軍団をつくり上げたといえるでしょう。
2)部下のやる気を引き出す術、気持ちを引き付ける術
信玄は、家臣を見た目や口先ではなく、その人の本質で評価しました。例えば、何事にも遠慮がちな家臣は、合戦では「臆病者」と見られがちですが、信玄はこうした家臣を「思慮深い」と判断しました。「思慮深い者は何事にも慎重なので、万全の態勢を整えて事に臨むだろう」と考えたのです。
家臣たちは「信玄様の下にいれば、うわべではなく本質を見て判断してもらえる」と奮い立ち、組織はますます活気づきました。信玄には「人を使うのではなく、業(わざ:才能の意味)を使う」という趣旨の言葉も伝わっています。
部下の持つ長所を見抜いてそれを活用することで、部下の自発的なやる気を促し、組織のパフォーマンスを最大限に高めることができるのです。
2 織田信長に学ぶ「正当な評価によって部下のモチベーションを高める」術
1)織田信長のエピソード
織田信長(おだのぶなが)は、尾張国(現愛知県)の武将です。
織田家にはいくつかの流れがあり、信長が生まれた織田家は主流ではありませんでした。しかし、信長の父親である織田信秀(おだのぶひで)の代に大きく勢力を伸ばして織田家の主流となりました。
信秀の跡を継いだ信長は、尾張国を統一し、さらに強大な力を誇っていた駿河国・遠江国(ともに現静岡県)の今川義元(いまがわよしもと)を破り、東海道の勢力図を大きく塗り替えました。
信長が跡を継いでから織田家は急速に勢力を広げたため、優れた人材の確保が急務となりました。そこで信長は、家柄や過去の実績にこだわらず、優秀だと見込んだ人物をどんどん登用しました。家柄や実績が重んじられていた当時としては、画期的なやり方です。
その代表が豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。信長は、人の心をつかむのに長けた秀吉の才能を見抜き、次々と重要な役目を任せました。
秀吉は、その才能を存分に発揮して織田家の勢力拡大に大きく貢献し、信長亡き後は天下統一を果たします。
貧しい身分の出身とされる秀吉が天下人にまで上り詰めた背景には、信長の大胆で柔軟な人材登用があったといえるでしょう。
2)部下のやる気を引き出す術、気持ちを引き付ける術
信長は、徹底した能力主義者であったといいます。このため、たとえ長年仕えてきた功臣であっても、能力がないと判断すれば、ためらわずにその任を解いたとされます。
例えば、若い頃から信長に仕え、数々の武勲を挙げてきた佐久間信盛(さくまのぶもり)は、石山本願寺攻めで目立った戦果を挙げられなかったことなどを問われ、1580年(天正8年)に追放されています。信長に「苛烈で家臣に厳しい」という印象があるのは、こうしたエピソードがあるからかもしれません。
一方で、家柄や過去の実績などにとらわれず、家臣の能力を正しく評価しようとする信長の姿勢は見習うべきところがあります。家臣は信長の期待に応えようと努力し、努力が正しく評価されることで、さらにモチベーションが高まり、より一層仕事に励むことになるからです。
上司による正当な評価こそが、部下の、ひいては組織全体のモチベーションを高めるといえるでしょう。
3 黒田官兵衛に学ぶ「部下の意見を尊重する」術
1)黒田官兵衛のエピソード
黒田官兵衛(くろだかんべえ。本名は黒田孝高(くろだよしたか))は、播磨国(現兵庫県)の武将です。
官兵衛の生家である黒田家は、播磨国の大名・小寺家の家老でした。しかし、後に織田信長が畿内に勢力を拡大してくると、官兵衛はその将来性を確信し、信長に仕えるようになります。そこで秀吉と出会った官兵衛は、秀吉の参謀的な存在となり活躍します。
やがて、本能寺の変によって信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれると、官兵衛は、秀吉に「信長のあだを討つことで織田政権の後継者となり、天下統一を果たす」ことを進言するなど、秀吉の天下取りを支えました。
官兵衛は知将として知られ、自らの知恵にも自信を持っていました。しかし、あるとき中国地方の武将・小早川隆景(こばやかわたかかげ)から、「頭が切れるあまり、独りよがりな決断をしてしまう恐れがある」と忠告されたという逸話があります。
これ以降、官兵衛は周囲の意見に耳を傾けるよう努めたといいます。周囲の意見に耳を傾け、多面的な視点から問題を捉えることができたからこそ、官兵衛は軍師として、多数の家臣を率いる武将として、後世に名を残す功績を収めることができたのでしょう。
2)部下のやる気を引き出す術、気持ちを引き付ける術
官兵衛は、家臣の意見を尊重しただけでなく、各家臣の性格を把握し、それらをうまく組み合わせることで家中をまとめました。それは、官兵衛が「組織においては、各人が協力し合うことで、より大きな力が発揮できる」ということを理解していたからです。
このため、家臣の交遊関係を調べ「誰と誰とは性格的に合う」「誰と誰とは性格的に合わない」といったことまで勘案し、性格の合う家臣同士を組み合わせて仕事に当たらせたといいます。
このように、官兵衛は家臣に細やかな配慮を欠かさず、それぞれの意見を尊重しました。自由に意見を交わせる場があったことで、家臣たちは身分や役職に関係なく活発に意見を出し合い、自分の頭で物事を考えるようになりました。
ただし、最終的な決断は官兵衛自身が下しました。「決断はトップの仕事である」と考え、家臣の意見は尊重しつつも、決断とその責任は自ら引き受ける覚悟を持っていたのです。
さまざまな意見を受け入れる柔軟性、そして決断の責任に対する上司の自覚が部下を大きく育てるのです。
4 上杉鷹山に学ぶ「自らが部下の手本となる」術
1)上杉鷹山のエピソード
上杉鷹山(うえすぎようざん。本名は上杉治憲(うえすぎはるのり))は、出羽国米沢(現山形県米沢市)の大名です。
上杉謙信(うえすぎけんしん)の活躍で有名な上杉家は、秀吉の時代には陸奥国会津(現福島県会津地方)を中心に120万石を治める大大名でした。しかし、徳川家康(とくがわいえやす)と敵対したことで1601年(慶長6年)に米沢30万石に移され、さらに1664年(寛文4年)には15万石にまで減らされます。それでも大藩だった頃とほぼ同じ数の家臣を抱え続けたため、藩は膨大な借金を背負っていました。
こうした中、九州の高鍋藩(現宮崎県)から養子として迎えられ、1767年(明和4年)に米沢藩主となった鷹山は、藩の財政を立て直すため、自身の食事を質素にし、年中行事の中止や贈答の禁止を行うなど倹約に努めました。また、自ら鍬(くわ)を取り、家臣にも田畑の開墾に当たらせました。鷹山は、自分が率先して取り組むことで、藩全体に改革の精神を広げようとしたのです。
しかし、保守的な重臣たちの反発や天明の飢饉による損害などもあって、改革は思うように進みませんでした。1785年(天明5年)、鷹山は35歳で家督を治広(はるひろ)に譲って隠居します。その後も米沢藩の財政は悪化の一途をたどり、家臣が農民から不正に多くの年貢を取り立てる、厳しい生活に耐えられなくなった農民が他国へ逃げ出す、といった問題が起きました。
こうした状況を憂えた鷹山は、隠居の身でありながら、藩主の後見役として再び改革に乗り出します。そして、かつて改革を急ぎすぎて挫折したことを反省し、まずは家臣に藩の財政状況を公開して、危機を実感してもらうことから始めました。
その後、武士だけでなく、農民や町人からも財政再建に関する意見を広く求め、集まった意見について検討を重ねた結果、産業の振興に力を入れるべく、藩全体で養蚕による生糸の生産に取り組むことを決定しました。さらに、藩内で以前から栽培されていた紅花で生糸を染めて織物を織り、藩外に販売することを考案しました。
これらの織物は「米沢織」と呼ばれる米沢藩の名産品となり、家臣の暮らしを支えるようになります。その後、米沢藩の財政は少しずつ回復に向かい、鷹山が亡くなる頃には、藩の借金をほとんど返し終えていたといいます。現実を直視して打開策を探り、自ら率先して実行する鷹山の姿勢が、家臣や領民を引き付けたといえるでしょう。
2)部下のやる気を引き出す術、気持ちを引き付ける術
厳しい状況に陥った藩の財政を立て直すに当たり、鷹山は、藩主の地位にありながら、自身が率先して質素な暮らしを心掛けました。家臣や領民に苦しい倹約を依頼するに当たり、まず自身が模範になろうとしたのです。
かつては120万石という大藩であった上杉家の家臣の中には、九州の小藩から養子に入った若い鷹山が進める改革を不満に思う者も少なくありませんでした。
こうした反発の中でも、鷹山は改革の必要性を粘り強く説き、先頭に立って厳しい改革に取り組みました。そうした姿を見て、当初は協力的でなかった家臣たちも次第に心を開き、家臣や領民が一丸となって再建に取り組むようになりました。鷹山の言葉として、「してみせて、いってきかせて、させてみる」が伝わっています。
何かに取り組む際には、まず自身が身をもって部下に示し、指導した後に実際に挑戦させてみるという、上司の真摯かつ愛情に満ちた姿勢が、部下の心に火をともすといえるでしょう。
5 二宮尊徳に学ぶ「小さな積み重ねを大切にする」術
1)二宮尊徳のエピソード
二宮尊徳(にのみやそんとく。通称は二宮金次郎(にのみやきんじろう))は、相模国(現神奈川県)出身の農政家です。
1787年(天明7年)、現在の小田原市に生まれた尊徳は、若い頃に没落した生家を立て直し、さらに小田原藩の家老・服部家の家計の立て直しにも成功しました。また、生活に苦しむ藩士のために、利子を付けずにお金を貸す「五常講(ごじょうこう)」という仕組みもつくっています。
こうした手腕を小田原藩主・大久保忠真(おおくぼただざね)に認められた尊徳は、1822年(文政5年)、大久保家の分家である宇津家の領地・下野国桜町領(現栃木県真岡市)の復興を命じられます。翌1823年(文政6年)、尊徳は自分の田畑や家財をすべて売り払い、一家で桜町に移り住みました。
桜町で尊徳は、自ら先頭に立って用水路や堰(せき)、橋の改修に取り組みます。しかし、復興は順調には進みませんでした。1827年(文政10年)には村役人の辞表が相次ぎ、新たに赴任してきた役人・豊田正作(とよだしょうさく)とのあつれきもあって、事業は行き詰まります。尊徳自身も辞表を出しましたが、聞き入れられませんでした。
復興の行き詰まりに悩んだ尊徳は1829年(文政12年)の正月、行き先を誰にも告げずに桜町を離れます。そして、成田山新勝寺(現千葉県成田市)にこもり、21日間の断食を行いました。尊徳がいなくなった桜町では、農民たちが慌てて行方を捜し、驚いた藩も事実関係を調べた上で、尊徳の事業を支援する方針を改めて確認しました。成田山で尊徳を見つけた農民たちの頼みを受けて尊徳が桜町に戻ると、もう事業に異を唱える者はいなかったといいます。
その後、事業は順調に進むようになり、1831年(天保2年)に第一期の復興事業が完了。尊徳は忠真から「以徳報徳(徳を以て徳に報いる)」とたたえられました。尊徳はその後も「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法で、北関東の各地で農村の復興に取り組んでいます。
2)部下のやる気を引き出す術、気持ちを引き付ける術
尊徳は、復興の土台として「至誠(しせい)」「勤労」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」という4つの教えを村人に広めました。誠実であること、よく働くこと、収入に見合った範囲で暮らすこと、そして余った分を将来や他人のために譲ること、という考え方です。
尊徳は、教えを口で説くだけでなく、自ら田畑や家財を手放して桜町に移り住み、工事の先頭に立ちました。村役人が次々と辞めていくほどの逆風の中でも復興を投げ出さず、行き詰まったときには成田山での断食を通じて自分自身と向き合い、覚悟を新たにしています。こうした尊徳の本気の姿勢が、少しずつ村人の心を動かしていったのでしょう。部下が思うように動いてくれないときも、相手を責める前に、まず自分のやり方や姿勢を振り返ってみることが大切です。
また、尊徳の言葉を弟子の福住正兄(ふくずみまさえ)が書き留めた『二宮翁夜話』には、次のような言葉があります。
「大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし。小積もりて大となればなり」
大きなことを成し遂げたいなら、小さなことを怠らずに積み重ねるべきだ。小さなことが積み重なって大きくなるのだから、という意味です。
部下を育てる際も、いきなり大きな成果を求めるのではなく、日々の小さな仕事を丁寧に積み重ねさせ、その成長をきちんと認めていくことが大切です。上司が誠実な姿勢で向き合い続けることが、部下のやる気と信頼を育てるといえるでしょう。
6 部下を1人の人間として尊重することの大切さ
戦国武将・偉人の家臣や周囲の人々に対する姿勢には、いくつかの型が見られます。しかし、そのいずれにも共通しているのは、「相手を1人の人間として尊重していること」でしょう。
上司は、リーダーであると同時に、部下と同じ組織の一員でもあります。同じチームのメンバーとして、部下に対して真摯に向き合い、部下を導く姿勢こそが部下を大きく育て、強い組織づくりにつながるのです。
以上(2026年10月更新)
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画像:ChatGPT