1 事例をなぞる前に決めておきたい「線引き」の話
「有給休暇の残日数は?」「申請書の置き場所は?」「慶弔休暇は何日取れる?」など、人事にはこうした質問が毎日届きます。どれも規程に書いてあるのに、質問は人のところへ来ます。制度の見直しや就業規則の整備に手が回らない理由の多くは、こうした問い合わせ対応に時間を取られていることにあります。
現在、こうした定型的な問い合わせ対応を含め、人事に関する業務を「AI(人工知能)」に任せる取り組み(以下「AI人事」)が進んでいます。特に海外の大企業の取り組みは先進的で、例えばIBMが人事への問い合わせをAIへ集約したり、Workdayが社員のスキルをAIで可視化したりしています。
一方、日本の中小企業の状況はどうでしょうか。中小機構(中小企業基盤整備機構)の調査で、すでにAIを導入している企業について業務分野別にみると、導入が最も進んでいるのは「総務・管理部門」(68.3%)です。人事を含む管理業務がAIを取り入れやすい分野である点は、海外と共通しているようです。
ただ、そもそもAIを導入している企業の割合が、企業全体の20.4%と低く、導入予定・検討中の企業を含めても39.0%にとどまっています。「成功事例や活用事例などの情報」を十分に入手できていない企業が83.3%に上っており、情報不足が導入の壁の一つになっているようです。
そこで、この記事ではまず、先進的な海外企業で何が起きているのか、どのような経緯で今の形になったのかを紹介し、その事例から見えてくるAIと人の役割分担、さらに中小企業が何から取り組むべきかを掘り下げていきます。
また、AI活用を急ぐあまり壁にぶつかった例や、採用へのAI活用をめぐって訴訟に発展した例もあります。だからこそ重要になるのが、何をAIに任せ、どこから人が判断するのかという「線引き」です。
2 海外ではAI人事がどこまで進んでいるのか
1)IBM――繰り返される問い合わせをAIへ集約
海外AI人事の代表例の一つが、IBMの社内人事エージェント「AskHR」です。
AskHRは、給与、福利厚生、休暇、異動、証明書の発行、キャリア、スキル開発など、人事への問い合わせや手続きを一つの窓口へ集約しています。
IBMの公表によると、AskHRは2024年に従業員との1150万件以上のやり取りを処理し、よくある質問の94%をAskHRだけで解決しました。人事の専門担当者へ引き継がれたのは6%です。AskHRを含むAI活用は、過去4年間で人事チームの運用コストの40%削減に貢献しました。また、2022年から2024年にかけて、一部の人事業務では生産性が最大75%向上したとしています。休暇申請や給与明細の閲覧など、約80のタスクについて自動化が組み込まれています。
ただし、最初からこの形だったわけではありません。出発点は、社内に複数の人事向けボットや問い合わせ窓口が存在し、従業員が「結局どこに聞けばいいのか分からない」状態でした。そこでIBMは、バラバラだったボットをAskHRという一つの窓口へ統合します。さらに2018年には、全従業員向けの人事電話・メール窓口を停止し、管理職に対する人事パートナーの直接支援も見直しました。多くの管理職にとってAskHRが人事支援の中心的な窓口となり、従来の個別対応からセルフサービス型へ大きく転換したのです。
AskHRのポイントは、AIが人事判断を代行したことではありません。
答えの決まっている問い合わせをAIに任せ、人事担当者が制度設計や複雑な個別対応へ時間を使える状態をつくった
ことにあります。そして、もう一つ重要なのが前提条件です。IBMでは、規程や人事情報がデジタル化され、決まった形式で整理・管理されていました。
就業規則が最新版か分からない、規程が複数のファイルに散らばっている状態では、検索させる材料自体が存在しないため、AIが十分に機能しないのです。
2)Workday――社員を「所属」ではなく「スキル」で見る
もう一つの方向性が、社員の能力をAIで可視化する使い方です。ある部署でデータ分析のできる人材が必要になったとき、多くの会社はまず「経験者を採用しよう」と考えます。しかし、その採用、本当に必要でしょうか? もしかしたら、営業や企画、経理、研究開発など別の部門に、関連する経験やスキルを持つ社員がいるかもしれません。
そこに気づければ、社内異動、兼務、短期プロジェクトへの参加、追加研修など、採用以外の選択肢が生まれます。
人材管理プラットフォーム大手のWorkdayは、社員を所属部署や役職だけでなく「何ができるか」で捉える仕組みとして「Skills Cloud」を展開しています。
Workday Skills Cloudでは、社員の経験や学習履歴、保有スキルを一元的に整理します。AIがそれらの関連性を分析することで、「社内にどんなスキルを持つ人がいるのか」「どのスキルが不足しているのか」「誰を育成・配置すればよいのか」といった情報を見える化します。
ここでもポイントはAIそのものではありません。
AIに分析をさせるためには、資格や研修履歴、過去に担当した業務、社内で身につけた技能など、社員の情報が蓄積されている必要があるため、AIを入れる前に、「自社ではどんなスキルが必要で、それを誰が持っているのか」を会社側が把握できる状態にしておかなければならないのです。
3)Meta――「AIを入れた分だけ人を減らす」は成立しなかった
一方、AI活用を一気に組織再編まで広げようとして、壁にぶつかった企業もあります。Metaです。
2026年8月のロイター報道によると、Metaでは「Project OT(Organization Transformation)」と呼ばれる組織改革が検討され、AIエージェントを前提にチームを小規模化する構想が進められていました。大幅な人員削減を前提とした案も含まれていたとされます。しかし報道によると、AIが期待通りの生産性を発揮しなかったことに加え、急激な組織変更への社員の反発などもあり、当初構想されていた追加の大規模削減は見送られたそうです。
報道で紹介された社内の数字では、コードの変更量は前年比220%増と大きく伸びた一方、ユーザーが実際に使える新機能や改善につながった変更は36%増にとどまっていました。AIによってコード生成や変更は大きく増えたものの、ユーザーに届く成果は同じペースでは増えなかったということです。
AIの技術と資金を潤沢に持つ企業でも、「AIを入れた分だけ人を減らせる」という単純な計算は成立しませんでした。ここから学ぶべきは、
AI導入の目的を「何人減らせるか」に置くべきではないということです。考えるべきは、人がやらなくてよい仕事は何か、そこで生まれた時間を何に使うのかという業務設計
です。
3 3社から見えてくる「AIに任せる仕事」と「人が決める仕事」
IBM、Workday、Metaの事例はそれぞれ違いますが、共通して見えてくることがあります。
AIは「情報を検索する」「整理する」「集計する」「候補を示す」といった仕事は得意ですが、人の生活やキャリアを左右する判断までAIに委ねると、リスクが急激に高まる
のです。人事へのAI活用を、大きく4つの領域に分けて考えてみましょう。
1)問い合わせ対応
規程の検索、休暇や福利厚生の案内、申請方法の説明、定型文書の作成などは、AIと相性がよい業務です。一方、制度の個別解釈、例外的な運用、労務トラブルやハラスメント相談は、人が対応する必要があります。
2)採用
求人票の下書き、応募者からの定型質問への回答、面接日程の調整、書類の不備確認、候補者情報の要約などはAIが支援しやすい業務です。ただし、採否の最終判断、面接、採用基準の設計は人が中心となります。
3)配置・育成
スキルの抽出、研修の推薦、社内公募候補の提示、キャリア情報の整理はAIが支援できます。しかし異動、昇進、処遇の最終決定や本人との面談は、人が担うべき領域です。
4)人事分析
勤怠、従業員サーベイ、離職傾向の集計や組織課題の可視化はAIの得意分野ですが、「この社員を異動させる」「評価を下げる」「懲戒を行う」といった個人への介入を、分析結果だけで決めるべきではありません。
目安はシンプルです。「AIの判断だけで、その人の働き方や待遇が変わるか」。変わるのであれば、自動決定にはせず、人による確認と最終判断を残します。
【社労士の実務メモ】
「AIで人事を効率化したい」という相談を受けたときは、まず業務を一覧にしてもらいます。すると、AIに任せやすい定型業務と、人が判断すべき業務が混ざったまま処理されているケースが少なくありません。特に採否、評価、昇進、異動、休職対応、懲戒、退職勧奨などは、AIに最終判断を委ねない運用をあらかじめ決めておくことが重要です。
4 AIが選んでも、責任は会社に残る
AIに判断を任せすぎたとき、どんな問題が起きるのでしょうか。その象徴的な事例が、Workdayをめぐる訴訟です。
Workdayは現在、米国でAIを使った採用スクリーニングをめぐる訴訟の被告となっています。いわゆる「Mobley v. Workday」です。
原告のデレク・モブリー氏は、自身が黒人であり、40歳以上で、障害があると述べています。同氏はWorkdayのシステムを利用する企業の求人に100件を超えて応募しましたが、全て不採用でした。なかには、応募から数時間、場合によっては数分後に自動の不採用通知が届いたものもあり、同氏は「人種、年齢、障害を理由とする差別に当たる」として訴訟を起こしています。ただし、現時点では原告側の主張であり、裁判で差別が認定されたわけではありません。
それでもこの訴訟が注目されているのは、AIツールを導入した企業だけでなく、AIを提供するベンダーの責任まで争点になっているからです。
2024年7月、裁判所はWorkday側の主張を一部認める一方で、原告の請求の一部については審理の継続を認めました。具体的には、Workdayを職業紹介事業者とみる原告の主張は退けました。しかし、応募者の選別や不採用の判断といった採用の中核的な機能をWorkdayが顧客企業に代わって担っているのであれば、雇用主の「代理人(agent)」として差別禁止法上の責任を負う可能性があるとしました。2026年6月22日にも、カリフォルニア州法などに基づく差別請求について審理継続を認める判断が示されています。
ここから読み取れることはシンプルです。
AIを活用した採用ツールを導入しても、選考の責任が会社から離れるわけではなく、「AIがそう判定した」「ベンダーのシステムが落とした」は通用しない
ということです。
日本でも、採用選考は応募者の基本的人権を尊重し、本人の適性や能力に基づいて行うことが基本とされています。職業安定法第5条の5は、求職者の個人情報について、業務の目的の達成に必要な範囲で収集・使用することを求めています。
人種、信条、社会的身分、病歴、障害などに関する情報は、個人情報保護法上の要配慮個人情報に当たり、特に慎重な取り扱いが必要です。
さらに、AIは過去のデータをもとに判断するため、過去の採用に偏りがあれば、その傾向を再現する可能性があります。担当者一人の偏りとは違い、AIは偏った基準を大量の応募者へ一度に、しかも即時に当てはめてしまう点にも注意が必要です。
【社労士の実務メモ】
採用ツールは、機能の多さだけで選ばないことが重要です。会社側で判定の根拠を確認できるか、問題が起きたときに検証できるかまで見ておきましょう。
5 では、中小企業はどこから始めるか
ここまで海外の事例を見てきましたが、中小企業がIBMやWorkdayと同じ仕組みをそのまま導入する必要はありません。まず必要なのは、AIを導入することではなく、AIを使える状態をつくることです。
1)繰り返される問い合わせを洗い出す
最初に、人事へどのような問い合わせが集中しているのかを確認します。直近3カ月に寄せられた質問を書き出し、「規程を見れば答えられる」「毎回ほぼ同じ説明をしている」ものを分けてみてください。
有給休暇、各種申請、福利厚生、社内制度など、繰り返し寄せられる問い合わせが、最初にAIに任せる候補になります。ただし、その前に就業規則や社内規程が最新版になっているか、情報が1箇所に整理されているかも確認しておく必要があります。
2)「誰が何をできるか」を整理する
次に、人事データを見直します。まず自社の主要な仕事を挙げ、それぞれに必要な知識、経験、資格、技能を書き出します。その上で社員ごとに、
- 保有資格
- 受講した研修
- これまで経験した業務
- 現在担当できる仕事
- 今後身につけてほしいスキル
を整理します。最初から精密なスキルデータベースをつくる必要はありません。まずは「どの仕事を、誰ができるのか」が一覧で分かる状態を目指します。
この整理は、AI活用のためだけのものではありません。社員の経験やスキルが記録されていれば、人が替わっても情報が失われにくくなり、配置転換や育成を考える材料にもなります。
3)AIに任せる範囲を決める
次に、人事業務を「AIに任せやすい仕事」と「人が判断する仕事」に分けます。規程検索、日程調整、書類の要約などはAIに任せやすい業務です。一方、採否、評価、昇進、異動、懲戒など、本人の処遇を左右する判断では、人による最終判断を残します。
誰が最終確認をするのかも、あらかじめ決めておきましょう。
4)AIツールの契約内容を確認する
すでに採用管理システムやAIを活用した採用支援ツールを使っている場合は、契約書や利用規約も確認してください。特に確認したいのは、
- バイアス検証をどのように行っているか
- AI機能を停止・変更できるか
- 入力データの保存・二次利用・学習条件はどうなっているか
- 問題が起きたときの責任分担はどう定められているか
の4点です。
6 AI導入より先に「利用ルール」が必要な会社もある
そして、中小企業にとっては、AI導入の方法を考えるより先に対応した方がよい問題があります。それは、社員がすでに生成AIを使い始めているケースです。
商工中金が2026年1月に実施した調査では、生成AIについて「会社での導入はなく、使用は個人の判断に任せている」と答えた中小企業が64.9%で最も多くなりました。多くの中小企業では、会社主導で生成AIを導入するより先に、社員個人の判断による利用が広がっていることがうかがえます。
特に人事部門には、履歴書、職務経歴書、面接メモ、人事評価、給与情報、休職情報、健康情報など、外部へ出すべきではない情報が集まっているため、生成AIの利用にはくれぐれも注意が必要です。
個人情報保護委員会も、生成AIサービスへ個人情報を入力する際には、利用目的の達成に必要な範囲かを確認するとともに、入力した情報がAI提供事業者の機械学習などに利用されないかを十分に確認するよう注意を促しています。
例えば、
「文章を要約してほしい」「休職者へのメールを考えてほしい」
と軽い気持ちで、実名や具体的な事情を一般向け生成AIへ貼り付ける運用は避けるべきです。
こうしたリスクを回避するには、「AI利用規程」など、AIの使い方に関する社内ルールを定めておくことが有効です。といっても、最初から何ページものAI利用規程をつくる必要はありません。まずはA4用紙1枚でも構いませんので、
- 入力してよい情報
- 入力してはいけない情報
- 利用目的
- 確認者
の4項目を決めてください。
【社労士の実務メモ】
健康に関する情報は、病歴など内容によっては要配慮個人情報に当たり、漏えいや不適切な利用が起きたときの影響が大きくなります。AIツールの性能比較を始める前に、「何を入力してよくて、何を入力してはいけないのか」という最低限のルールを決めておくことが重要です。
7 AI人事の成否を分けるのは「線引き」
海外事例から見えてくるのは、最新のAIを導入すれば人事が変わる、という単純な話ではありません。IBMでは、AIに問い合わせを任せる前に、情報と窓口を整理していました。Workdayのようなスキル活用も、社員の経験や能力に関するデータがなければ始まりません。Metaの事例からは、AI導入をそのまま人員削減へ結びつける難しさが見えてきます。
中小企業も同じです。まず業務と情報を整理する。その上で、検索や整理、分析といったAIが得意な仕事はAIに任せ、人の処遇に関わる判断は人が担う。そして、個人情報の扱いや責任の所在を決めておく。
AIによって生まれた時間を、社員との対話や組織の改善にどう使うのかまで設計できて、初めて人事のAI化が意味を持ちます。
何をAIに任せ、どこから人が判断するのか。その線を引くのは、AIではありません。経営者と管理職の仕事です。
以上(2026年11月作成)
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画像:ChatGPT